無意味な仏様くらべ

ご隠居  むかし、弘忍という名の禅僧がお釈迦さまのことを、こう言ったという。「釈迦は下賤客作の児」にすぎない、と。
寅さん  何のことです、それは?
ご隠居  お釈迦さまの悪口だ。
 客作(かくさ)というのは、私の考えでは、他人にくわせてもらっている人、つまり食客、いそうろうのことではないかとおもう。
 お釈迦さまが、こともあろうにその「いそうろう」の子どもだというのだから、なんともひどい話だな。
寅さん  弘忍さんというその禅僧は、なぜそんなことを言ったのでしょう?
ご隠居  佛教には大日如来をはじめ、弥陀、薬師、観音、勢至、地蔵など、数えきれないほど大勢の佛菩薩がいらっしゃる。そこへ歴史的に実際に存在したお釈迦さまが割り込んできて、佛菩薩と同じように衆生を教化している。
 生身の生きた人間だったものが佛菩薩に伍して人間を教化するなど、身のほどをわきまえぬ僣越きわまりなき増上慢。釈迦がこんにち有るのは、佛菩薩あっての釈迦ではないか・・つまり、お釈迦さまは仏や菩薩のお力を借り、そのご威光のおかげをこうむって名声を保ちつづけているが、その実質は「いそうろうの子ども」に等しい存在ではないか、と言っているわけだ。
寅さん  ずいぶんと罰当たりなことを言ったものですね。
ご隠居  この禅僧が、何を根拠にこんなことを言ったか、その話の前後がカットされているので彼の真意が奈辺にあったかは不明だ。
 だけど、どう考えてもこの僧の言には賛同できないな。
 大智度論に、「三千大千世界を名づけて一仏土と為す。そのうち更に無餘仏、実には一の釈迦牟尼佛なり」と。
 また涅槃経に、「一国土の中に二輪王、一世界の中に二仏出ずるというは、此のことわり有ること無し」とある。
 これをみても明らかなように、広大無辺のこの世界に、ほとけはおひとり釈迦牟尼佛のみである。
 他に仏はいない。また、一つの国のなかに二人の王が存在しないと同様に、二仏があるというのは理に反する、と両経は、ほとけは釈迦一仏のみと明快に説き明かしている。
寅さん  すると、われわれが帰依する大日如来の立場は・・?
ご隠居  寅さん、胸に手をあててよーく考えてごらん。
 そもそも釈尊出世以前に、一仏一菩薩の名号をおひとりでも聞くことができたであろうか。人々は釈尊出世ののち、はじめて十方の如来、三世の諸仏、無量の菩薩、羅漢、天部等の佛菩薩のあることを知ったわけではないか。
 大日如来のみならず阿弥陀如来薬師如来のあることを知り、観音勢至、地蔵などの佛菩薩がおいでになることを知って、それぞれを信じ、そのご利益をこうむることになったのは、だれのおかげであろうか。それらはすべてお釈迦さまのおかげではないか・・。だからお経は説いている。「釈尊は我らの教主なり、また娑婆三千大千世界は釈迦一仏の所領なり・・」と。
大日如来の履取(くつと)り
ご隠居  もう一つ、お釈迦さまの悪口を紹介しよう。
 これはある言家(ごんけ)の高僧が言ったという。
 釈迦をもって無明磐域(むみょうはんいき)の仏とし、「大日如来の履取りにも劣れり・・」と。
寅さん  こちらも言ってる意味がよく分かりませんが・・。
ご隠居  無明磐域の仏とは、いつまでも無明世界の域内にじっとわだかまっている仏といった意味合いだろうかな。
寅さん  言家の高僧というのは?
ご隠居  言家とは、われわれ真言宗を指した言葉だ。
寅さん  しつこいようですが、うぐいすの声は?
ご隠居  うぐいすは、早春になると、人里近くへやってきて、美しい啼き声で春を告げ、人々の耳を楽しませてくれるではないか。それもすなわち仏法だ。

 柳は緑に花は紅(くれない)、山は高く、海は深く、日は毎朝、東より出で、月は夜夜西に沈む。

 道元禅師のお作ともいわれる、

 春は花 夏ほととぎす 秋は月
      冬雪さえて涼しかりけり

とあるように、天地の間の、ありとあらゆる人畜虫魚、山川草木、なに一つとして、仏法にいう真如実相ならざるものはない、とされている。
寅さん  なぜ真言宗にかぎって、ことさらにそんな端折った言い方をするのでしょうか?
ご隠居 その言い出しっぺは、どうやら伝教大師最澄さんが始めらしい。「依憑天台集」序というのに最澄さんが、お大師さまのことを「新来の真言家」と表現した。

 それ以後、その呼び方を踏襲して真言宗の僧侶のことを言家、または真言家(しんごんか)と言い習わすようになったようだ。
 もっとも、その呼称にはもう一つ、顕教に属する宗派の、真言密教に対するある種の感情が作用しているのかもしれないが・・。
 それはそれとして本題に戻る。
 先のお釈迦さま評のことだが、真言宗の高僧は、なぜあんなひどい評価をくだしたのだろう。その理由を私なりに考えてみると、こういうことではなかろうか。
 つまり、人間の栄耀栄華を否定し、どちらかというと現世を否定するお釈迦さまの解脱教に対し、真言密教のほうは現世という実在も、その諸現象も宇宙の真理のあらわれであり、宇宙はわれわれ人間や万物に、飢餓や老病苦死のみをあたえるのではなく、むしろ限りなく聡明で、かぎりなくいたわりぶかいものだとし、そしてその宇宙そのものを体現する法身・・

大日如来の智慧と慈悲に包摂されているわけだから、そういった教義を有する真言宗のほうが、現世否定のお釈迦さまよりも、ずうっと宗教的救済力、つまり人間のより良い生き方の支えになり、かつ説得力があるではないか。
 かかるがゆえに言家の高僧が、釈尊のことを無明磐域の仏とし、「大日如来の履取りにも劣れり」といったのではないだろうか。
いずれが権(ごん)か実か
ご隠居  ここで少しばかり目先を変えて、お大師さまが、ご自分の真言密教を他の宗旨と比較して、どのようにお考えになっていたか。司馬遼太郎著「空海の風景」から見てみたいとおもう。
 この話のくだりは、泰範(たいはん)という僧がその師である最澄さんへ送った手紙・・泰範言スという書き出しの手紙「叡山ノ澄和上啓ノ返報書」から始まる。
寅さん  その泰範という僧はどういったお人です?
ご隠居 もともと最澄さんの高弟の一人だったが、いつの頃からかそれまで学んできた天台教学から、真言密教へ傾斜していった。ことに弘仁四(813)年、師最澄の勧めによって弘法大師から受けた金剛界灌頂(伝法灌頂)以後は、高雄山寺に滞留しつづけてお大師さまに仕え、叡山には戻らなかった。そのため叡山の最澄さんから早く帰ってこい、という内容の手紙が再三にわたって泰範のもとへ届いた。
 その手紙の一通に、次のような内容が認(したた)められていた。「法華一乗ト真言一乗ト、何ゾ優劣有ラン」。最澄さんは、自分の天台体系(法華一乗)と真言体系とをくらべ、決して優劣はないぞといっているわけだ。
 これをお大師さまが目にされた(泰範は叡山からの手紙をいちいちお大師さまに読んでもらっていたらしい)。
 そこでお大師さまが泰範に代わって代筆し、泰範の名でもって最澄さんに送りつける。「泰範言(もう)ス」から始まり 以下、「空海の風景」より抜粋する。

 ・・以下は空海自身、泰範の筆を奪ってでも書きたい・・げんに書いている・・くだりである。
 つまり最澄がさきの手紙で、法華一乗と真言一乗とは何の優劣があろうか、といったくだりであった。
 とんでもない、といった語気をこめて、「優劣と申されても、この泰範は大豆と麦との見分けがつかぬほどに愚かな者でございます。まして玉と石を見わける能力はございませぬ。しかしながら法華も真言も優劣はないなどという御高説に対し、だまっていることはできませぬ。以下、私の小さな見解を述べとうございます」(中略)「だいたい、法の優劣などはむずかしいものでございます。釈迦は聴く人の素質を見ながら教えを説かれました。衆生というのはもともと性質や志望を異にしております。従って、医者が機に随って薬を投ずるように、衆生にあたえる教えも千差万別でございます。
 でありますから、仏法においては、大乗の教えと小乗の教えとがともに共存しております。また一乗の教えも三乗の教えも、ともに仏法という中で競いあっております。いずれが便法による権(かり)の教えであり、いずれが真の教えであるか、区別がしがたく、そういうことで言いますと、顕教と密教の区別も、ともすればみだれがちでございます。いずれが権か実か、それは仏法のすべてを知った者でなければ、容易に区別がつくものではありませぬ」
 最澄和尚よ、あなたは仏法のすべてを知った上で顕密の区別論をいうのか、と空海は言外にいっている。(中略)
 さらに泰範は・・というより空海は・・いう。「しかしながらほんものの仏(法身仏)と、法身仏が条件に応じて影のようにくるくる変化する応身仏の区別というものは、厳然としてあり得ます。つまり密教は法身仏に拠っており、顕教・・天台宗・・は応身仏によっているのです。
 でありますから、顕密二教はその説を異にし、かつ、顕教は権の教え、密教は実の教えという区別があるのでございます。私はその実の教えである真言密教の醍醐味を楽しんでおりますので、いまだ便法(権)の教えである天台宗の散薬を服用するいとまがないのでございます」・・(後略)

七曜戒 朝の言葉・水曜日
 言葉と態度で未来を創る。
 始めに真言(まこと)あり、真言この世に顕(あらわ)れて人となる。真言(まこと)はほとけなり、真言の道はみほとけの道なり。
 あたたかき言葉と善(よ)き態度は真言(みほとけ)の道なり。
 真言の道あゆみ行くものを人という。悪しき言葉と態度の人は人にあらず。
 あたたかき言葉はあたたかき人を創り、善き態度は善き社会を創る。言葉と態度は未来を創る。
 淫らなる言葉を語るなかれ。淫らなる言葉は淫らなる態度となり、淫らなる人を生む、みほとけのいたく厭(いと)いたまうところなり。
 怠惰なる態度をとるなかれ、怠惰なる態度は疲れたる言葉となり、貧しき家となる。
 人を傷つける言葉は怒りたる態度となり、苦しみ多き生涯となる。
 われら常に身と口と意とのうえに、みほとけのわざ顕(あらわ)して、すべての人を浄き土(せかい)に導きゆかん。
 観音院常用教典「まことの道」 四十八ページより

*皆さまも朝あるいは夜、空いた
 時間に、お声に出して、意味を
 考えながら、自らのこととして、
 ゆっくりとお読みください。

観音菩薩にすがり効験を得た話 「日本霊異記」より

 奈良の大安寺に弁宗という僧がいた。生来雄弁で説教がうまく、祈祷する人々の願いを仏前へ適切に取り次ぐことで信徒の評判もよく、人気があった。
 孝謙天皇の御世、ある時弁宗は必要があって、お寺の大修多羅供(だいすたらく・大安寺で組織した修多羅衆の研究基金。これを元金として一般に貸し出し、その利息を修多羅衆活動の費用に当てた)の銭三十貫を借りたが、約束の期日に返済することができなかった。
 それからというもの、ことあるたびに債鬼(大安寺の寺務の役人)にうるさくつきまとわれることとなった。
 銭を返すあてもなく、おもいあまった弁宗は、最後の頼みの綱として、長谷寺の十一面観音菩薩にお縋りすることにした。
 やっとのことで泊瀬(はつせ)の山へやってきた弁宗は、さっそく名高い長谷寺の十一面観音菩薩像のお手に縄をかけると、「我、大安寺の修多羅供分の銭を借りたが、返却のあてなし。願わくは我に銭を施せ」と縄を引き、観音菩薩の名号を繰り返し繰り返し唱えて祈った。
 そうしているところへ、寺務の役人がそこにまで追いかけてきて銭を返せ、ときびしく弁宗にせまった。
「いましばらく待て。我、銭の無心を観音菩薩にねがったところだから、もはやさほどに長く待たせはしない」と、言い逃れする。
 ところで、その長谷寺においてたまたま法事をいとなむやんごとなき一座があった。
 天武天皇の孫の船の親王である。
 みれば先ほどから他寺の法師とおぼしき者が、十一面観音菩薩像にかけた縄を引いて、「速やかに銭を我に賜え」と、しきりに祈願している。
 不審におもった船の親王が、「かの法師は、何のいわれがあって、あんなことをしているのか」と、傍らの者に調べさせると、おおよその事情が分かった。
 おなじ長谷寺に来あわせたのもなにかの佛縁と、親王はただちに弁宗に銭三十貫を喜捨したということである。

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