無常について

ご隠居
今日は、佛教でいう無常について話してみようかな。
寅さん
「無常」という言葉はよく聞きますが、無常とはほんらいどういうことなんですか?
ご隠居
無常とは、一切のものは転変生滅(てんぺんしょうめつ)して、とどまりがない、ということだ。
そもそも無常には三種があるとされている。その一つが念々壊滅(えめつ)の無常、二つに和合離散(わごうりさん)の無常、三つに畢竟如是(ひっきょうにょぜ)の無常だ。
寅さん
念念壊滅の無常とは?
ご隠居
これは、われわれ人間の生理機能である器官、つまり眼、耳、鼻、舌、身とそれに意、この六根(ろっこん)によって生じる迷いの根源がいろんな悪影響をもたらし、心を汚す。
つまり眼耳鼻舌身意の器官が感じる色彩や形、声、におい、味覚、手触りや肌ざわり、そして法(もの)などによって触発され、引き起こされるさまざまな欲望を制御することは至難なことだ。
この欲望は、人間がもって生まれた性(さが)であって、われわれが生きているかぎり、かたときたりともこの欲望から離れることはできないから念念壊滅という。
そしてこの無常とは、唯識(ゆいしき)説でいう眼耳鼻舌身の五識と、もう一つ足した「意」、つまり六番目の意識のことで、この第六意識は、たとえば善や悪、そして怒ったり喜んだり、苦しみ楽しみといったさまざまな感情が、その刹那刹那(せつな)に生じたり滅したり、千変万化(せんぺんばんか)してとどまるところを知らない。そのことを念念壊滅の無常といっているようだ。
寅さん
どうもよく分かりませんが、言ってるご隠居ご本人は分かってるんですか?
ご隠居
こういったものは、大まかに、なんとなく感じを掴めればそれでいいんだ。そんな詮索より話をすすめよう。
――人間と威張っても――
寅さん
では、和合離散の無常とは、なんです?
ご隠居
これはおもに身体に関するところのもの、としているな。
私たちの身体はほんらい、地、水、火、風の四大(万有を構成する四つの元素)によって、かりに合成されたものであって、歳月の経過とともに、これらはいつかバラバラに分離するさだめにある。
古歌に、
引き寄せて結べば柴の庵(いおり)なり 解くれば元の野原なりけり
とあるように、人間の身体をかたちづくっている四大が分離する日がいつなのか、これの予測はむつかしい。
われわれは、その時を知らないから、誰もがみな自分の長生きを信じて、その身をいとおしみ、がむしゃらに生に執着している。ところが、これがいったん自分以外のことになると、わりと冷静な目で眺めることができる。
たとえば花鳥風月に寄せる日本人の感受性がそうだ。
夏が過ぎ去って蝉の声がとだえ、冬を前にトンボも蝶もすがたを消す、といった無常観—-、一切のものは転変生滅してとどまりがないことをしみじみ実感するのだが、これが、こと自分自身に関するかぎりにおいては、きわめて鈍感かつ無関心になるようだ。
古詩に、
「身ヲ観レバ岸頭ニ根ヲ離レタル草、命ヲ論ズレバ江辺ニ繋ガレヌ船カ、年々歳々華ハ相似タリ、歳々年々人ハ同ジカラズ」
とあるように、何をもって、また何を根拠に、私たちは自分自身に執着(しゅうじゃく)しなければならないのか、と問いかけられている。
また、大経は次のように説いている。
「一切、もろもろの世間に生まれる者は、みな死に帰す。寿命無量なりといえども、かならず終わり尽きることあり。盛んなるものは必ず衰えることあり。合い会うものは別れ離れることあり。壮年も久しくとどまらず、盛色あるも病に侵され、命は死のために呑(の)まれる。法(物質)として常なる者あることなし」
これは、この身が無常であり、執着すべきでないことを私たちに説かれた文章だ。
また、出曜経にはこうある。
「きょうというこの日もすでに過ぎぬれば、それだけ命も減少した。
その心もとなさは、まるで小さな水たまりに棲む魚の如し云々」
また、「往生拾因(おうじょうじゅういん)」という佛教書には、次のように書いてある。
「人の身は水面に浮かぶ泡沫(うたかた)、たれが浮生(この世)にとどまることができよう。人々との接触を絶ち、山奥ふかく隠れ住む仙人も、いまだ無常の悲しみから脱しきれず、石窟に籠(こ)もる人も、ついに別離の悲嘆に遭った。
じつに人間の一生はかりの住処(すみか)、どうして永遠を期すことができるであろう」と。

――寿命からの遁走(とんそう)――
ご隠居
この石窟に籠もる話に関連して、出曜経に面白い逸話(いつわ)が書かれている。
昔、バラモン教を修行する四兄弟がいた。四人は修行によりみな五通を得ていた。五通は天耳(てんに)、天眼(てんげん)、宿命(しゅくみょう)、他心(他人の心)、神足通のことで、彼らは、自分たちの寿命がいくばくもなく、あと七日後に必ず死が訪れることを知った。
兄弟は相談する。我らはともに神通自在なのだから、この神通力をもってすれば、天地をひっくり返すことだってできる。巨大な手を創造して日月をひねりつぶし、山を動かして川の流れを止めることもできる。我らにとって何一つ不可能はないから、身にふりかかった危難を避けられないはずがない。兄弟の意見が一致すると長兄がいった。
「では、我は大海に潜ろう。海中にひそんでいれば、いかに無常の殺鬼といえども、そうたやすく我の居所をつきとめられないだろう」
次兄がいう。
「我は須弥山(しゅみせん)の腹の中に入ることにする。そして侵入した入口をしっかり閉ざして分からぬように迷彩をほどこしておけば、無常の殺鬼も見当がつかないはずだ」
三男がいう。
「我は虚空(こくう)に身をおき、姿を消して痕跡(こんせき)を絶てば、無常の殺鬼もお手上げだろう」
そして四男がいった。
「我は兄たちとは反対に、街の賑わいの中に身を潜めよう。衆人の雑踏にまぎれて、無常の殺鬼もその人々の内から我一人を見つけ出すのは容易でないだろうから……」
兄弟は相談しおわると、つれだって国王のもとへ暇乞(いとまご)いに行った。
「我ら兄弟四人、寿命の計算をいたしましたところ、余命残り少なく、よっておのおの殺鬼の手より逃れて長命を求めようと思います」
王はうなずいて、
「お前たちの思い通りにことをはこび、命が永らえることを祈る」
と、はなむけの言葉を与えた。
それから兄弟は、前もって決めておいた所へそれぞれ避難して行ったが、七日の期日が過ぎると、四人ともみなその場所で生命が尽きていた。
そのとき、ほとけは天眼(てんげん)でもって、無常を避け、長くこの世に生を得ようとして得られなかった四兄弟の一部始終をごらんになり、偈(げ)を説いてこう言われた。
「死は、虚空や海中、山腹の中、市中に身をひそめ隠れたとしても必ずやってくる。
ただ、死は死に任せて、その死の苦しみをいかにして受けないようにするかが問題である」
ほとけは、すでに生老病死を脱した御方であるが、それでも七十九歳(八十)にして入滅された。
このように我々人間は、死からのがれることは断じてできない。五通力を得た兄弟であったが、残念なことに漏尽通(ろじんつう・煩悩を除く神通力)をまだ得ていなかったためついに死苦から脱出することができなかったわけだ。
もうひとつの、
「畢竟(ひっきょう)如是(にょぜ)の無常」
とは、これ、ただ身と心との無常、是(か)くの如く、のみならず、一切の諸法は、ことごとくこれ、因縁和合によって仮に生じたものであって、たとえ宇宙が果てしなく広くても、いつかはついに小さく収縮するときがやってくる。
ゆえに金剛経にも、
「一切有為(うい)の法(この世のこと)は夢幻泡影のごとく、露のごとく、稲妻のごとし、まさにかくの如き観(かん)をなすべし」
このように一切壊滅に帰して、常住不変のものはありえない、と説いている。これを畢竟如是の無常という。

智徳にすぐれ修行をつんだ僧が、天皇の皇子に転生した話 日本霊異記

善珠という僧がいた。俗姓を阿刀連(あとのむらじ)といい、幼児のころ母といっしょに大和の国磯城嶋(しきしま)村に暮らした。

僧籍(そうせき)に入ると人一倍修行と学問に励んだから、その智徳は並外れてすぐれ、上つ方(うえつかた)はじめ、庶民まで、多くの尊敬を一身に集めた。善珠という僧は、佛法を弘(ひろ)めて人々を善に導くことを己の天分と心得ているような人柄だったから、時の天皇は、善珠法師の徳を顕彰(けんしょう)して、彼に僧正(そうじょう)の官位を賜った。

ところで、善珠法師の下あごの右のあたりに大きな黒子(ほくろ)があった。

歳月が移り、平安の宮に天(あめ)の下を治められた桓武天皇の御世(みよ)延暦(えんりゃく)十六(797)年、僧正善珠は臨終の床にあった。そして、世間のしきたりに従って飯占(いいうら・巫者に死者の冥福を判断してもらう方法で、米を煮て、その炊きあがり状態によって吉凶などを占う)した。すると、善珠僧正の霊魂が巫者に乗りうつり、その口を借りていった。

「吾は、来世にはかならず天皇の夫人(ぶにん)丹治比嬢女(たじひのおみな)の胎内に宿り、皇子に生まれるであろう。その際吾が顔の黒子がめじるしで、ほくろが有る無しが何よりの証拠である」

こう言い終えて善珠僧正は亡くなった。

翌々年の延暦十八年、丹治比の夫人が一人の皇子を出産した。見ると、その皇子の下あごの右側に可愛らしい黒子がポツンとくっついている。人々は善珠僧正が言い残した言葉をあらためて思い出し皇子を大徳の親王と名づけた。

でも、皇子はそれから三年ばかりして、はかなく薨(みまか)ってしまった。そのとき、また飯占をして大徳の親王の霊に問うと、占者(かみなぎ)に霊が乗りうつって言った。

「私は、善珠法師である。しばらくのあいだ天皇の皇子としてこの世に過ごしたが、これより西方浄土へ向かう。よって吾のために香をたいて供養せよ」
と。

このように善珠法師は一度死についで天皇の皇子として生まれたが、佛典はそれについてこう説く。

「人は、めいめいの分際に応じてそれぞれ異なった家柄に生まれる。ことに、ほとけをはじめ高僧などの入滅転生は、それほど奇とするにはあたらない」
と……。

また、伊予の国神野郡に山がある。四国一の高峰で石鎚山という。

その山に、石鎚の神があり、山容は高くけわしく、なみの人ではとても登ることなどできない。

ただ、心身を清めて修行する者だけが山頂に到り住む。

ずっと昔、奈良の宮に二十五年間、天の下を治められた聖武太上天皇の御世から、その帝姫(ていき)である阿倍天皇(孝謙天皇)の御世にかけて、石鎚山山頂に修行をつんだ一人の法師が庵(いおり)をむすんでいた。名を寂仙という。

世間の人々は、出家、庶民をとわず、寂仙法師の徳行をあがめ尊んで、その法師のことを菩薩と呼びならわしていた。

さて、阿倍天皇の御世、天平宝字二(758)年のことである。

寂仙法師は、命の終わる日に臨んで、弟子たちに文書に書き記させて、こう言った。

「私が死んだあと、二十八年ののち、天皇に皇子が生まれ、その皇子は神野と名付けられるだろう。そのとき、みんな思い当たるはずだ。その皇子こそ実はこの寂仙であることを……」

こんなことがあってともかくも二十八年が経過した。延暦五年、桓武天皇に皇子が誕生した。その御名を神野親王という。いま平安京で国を治められている嵯峨天皇である。嵯峨天皇は聖君である。

何をもって聖君であるかといえば、世間の人々はこういうだろう。

「国法では、殺人を犯した者はその掟(おきて)にしたがい死刑だが、嵯峨天皇は、仁ヲヒロメルという意味で〔弘仁(こうにん)〕の年号をたてて世間に徹底させ、人殺しといえども死刑にせず、流罪として罪人の命を救うという、ゆるやかな政治で日本を治めている。この一事をもってしても嵯峨天皇が明らかに聖君であることがわかる」
と。

また嵯峨天皇はお大師さまを重用され、高野山を下賜なされた。

けれども一方において、天皇ははたして聖君であろうか? と、疑問を投げかける声もあった。

なぜならば、嵯峨天皇の御世、日照りや疫病が相次いで流行している。また、暴風雨、洪水、地震が相次ぎ、飢饉(ききん)にもしばしば見舞われた。

こういった天変地異にたびたび襲われるのは、国王の徳が欠如しているからだ、という非難である。

しかし、その非難はあたらない。

中国古代の聖天子と仰がれる堯(ぎょう)、舜(しゅん)の時代ですら旱魃(かんばつ)や疫病はあったのだから、日照りや洪水を嵯峨天皇のせいにして謗(そし)るわけにはゆかないはずである。

(弘法大師空海さまは唐の高僧不空三蔵さまが御入滅の六月十五日に讃岐の国善通寺で生まれらたれので、不空三蔵さまの生まれ変わりと信じられています。)

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