無差別大量虐殺兵器にもなる核拡散

「核」は明らかに兵器として開発され、広島・長崎の悲劇を招いた。戦争を終結させるために使用したと言う大義名分は成立しない。ゆるやかな「核反応」は発電所などに利用され、被爆国日本にもその電力は利用されている。「核物質」は放射線という目に見えないもので人間の遺伝子や環境に長期影響を与え、時に制御出来ない状態で存在する。劣化ウランはその硬さゆえ 間に弾頭などに使用され、兵士にも被害を与え、その治療法は無い。「放射線」は目に見えないで存在し、触れた人に深刻な障害を与える。「核の塵」は深い地下に埋めることで処理される。それで問題が完全に解決するのであろうか。人間の生命を傷つけることは、最大の偸盗(ちゅうとう)、人々の生活が 原発の基で豊かに便利に成立していることは本当に怖い。例えば、彫刻刀 でも、印鑑も仏像も彫れるし、間違えば彫刻者自身が怪我する。刃が他人に 向けられる時は凶器になり、傷つけることも殺すことも可能である。私は刃物 を好まない。  観自在編集部

  
昔の子供は皆んな切り出し小刀を  
     筆箱に入れて持っていたものだが
 
  用途は鉛筆を削るか、工作くらい、自分で怪我することは有っても人間に刃先は向けなかったものだ。
 最近はカッターナイフが普及、それでもナイフを持ってるのは何故だろう。
小学生の男の子が同級生を怪我さすなんて、想像も付かない。
 同級生の女性の首を荷造り紐で締めて殺して、バイクで逃走。警察が必死で探していたそうだけど検挙より保護が目的ではなかったかと想像する。普通の生徒だったそうだから。
 新聞やテレビのニュースを見聞きすると、連日、談合とか、裏金とか、不正、子供の犯罪などで、訳が分かりません。

■子供が成長するまでに、喧嘩したり、万引きしたり、落とし穴を掘ったりするのは有りがちだけど、先日のように海亀が産卵する海岸に沢山の落とし穴を掘って、底に釘を板に打ち通して、落ちた人の足に大怪我さすような質 の悪いのは無かったように思います。
 最近は喧嘩しても横領しても限界と言うものを知らないように思います。
 勤務先のボールペン等を私用に持って帰って子供に与えたりすることは昔も今もあるけれど、架空出張で裏金を積むなんて、沢山つくって、管理に困り焼却したって、本当ですかね。
 もしかしたら、こんな文化と言うか伝統があって、明治以来だったとしたら、誤魔化しの伝統技術が表面化しただけかも知れません。

■そうとしたら呆れ果てた事で、私は殺生するな偸盗(ちゅうとう)するなと 言いたいのだけど一人相撲かも知れぬ。
 教育基本法を改正するそうだけど、公務員の服務規程の一番に、収賄するな、裏金作るな、天下り駄目だよと、口語体で易しく書かないと、理解できない
のかも知れませんね。
 学校の入り口には金属探知機を設置して空港みたいな設備が必用かも知れません。不祥事があると代表の校長先生がお詫びしてるけど本当は何も責任は無いですよ。それをコメントとるマスコミの姿勢にも問題があります。
 程度の問題はあるでしょうが、悪事が表面化すると切腹、一族連鎖の時代でも、悪代官も悪奉行もいた。

■明治、大正時代のことは、体験して無いから、かれこれ言われないけど、昭和一桁のころはもう少し良い世の中だったと思います。

▼現在のモラルの低下は団塊の世代の民主主義教育のせいかも知れません。子供のモラルの問題は行き着くところは親のモラルの問題です。闇市屋焼跡時代と突然訪れた自由、教育現場の混乱が尾を引いているのでしょうか。

■私は、ああしろ、こうしては不幸になると幸せの道を説いてるのだけど、貴方のしている事は駄目だと全面否定したら終わり。根気良く話を聞いて上げて、相手がそうだと納得するよう話を進めないとならないので大変。

▼観音院は今後、寄付を求めません。受けるのは「喜捨」だけです。葬式代は受けません。純粋な、他人に相談しない、世間相場 と関係無い「布施」だけです。布施は「慈悲」を説く為にのみ、使用します。慈悲を説く上で誤解が生じやすいものです。

■殺生する人、偸盗(ちゅうとう)する人を見ていると、なんだか、運のようなものがあって、魔が差すと言ったらよいでしょうか、バッサリと、悪いと切り捨てられない何かがあります。
 バブルがあったり、格差が広がったり、運の悪い人が、成り行きで裏金を作ったり、談合したり、贈収賄したり、他人を怪我させたり、極端な場合は殺したり逮捕されている。悪事は氷山の一角で、表面化したものが「運が悪い人」だと思うことがあります。
 不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見、十善戒を説きながら、本当に悪い人が居るのだろうか、一人の人の心に善悪両方があって、人間関係で善い面が出たり、悪い面が引き出されるのではと、下手すると、要領良く悪事をしながら、表面化しないよう に生きて行くのが上手に生きるコツだと教えているような気がしてなりません。
   

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 祝 秋篠宮殿下紀子さま・親王ご誕生
    皇室は道徳の規範となられています
      皇族の方々のご辛苦が偲ばれます

  皇室に男子が出生されたのは、一九六五年十一月の秋篠宮さま(四十)以来。四十一年ぶりの皇位継承資格者のご誕生で、順位 は皇太子さま、秋篠宮さまに次ぎ第三位。政府が検討していた皇 室典範改正案は、当面先送りですね。
 本当にお目出度う御座いました。
 開かれた皇室とは言いながら、諸外国の王室に比較して、日本の場合は、極めて厳格な伝統を維持されています。
 東京両国の事務所にいますと、天覧相撲の際に、京葉道路付近 にはたくさんの国民がお迎えお見送りして親愛の情をもっている ように思います。
 親愛の情は、何時も絶やされぬ微笑と優しいお言葉と気品に魅せられているのだと思います。
皇族は日本国民の規範です。皆さんが見習うと日本はもっと美しい国家になります。ご多幸を祈りましょう。
 
■殺生しないは、ものを生かして使う、粗末にしない、人を適材適所に配置する、人に安心して働ける場所と住める場所を用意す る、物はあるべき所に置く、勿体無いことはしない。
 全てのものを、いたわり、慈しみ、思いやり、相手の立場で考える事です。
 私も住職も、人も物も大切にします。人は大切にし過ぎることに支障は有りませんが、物を大切にし過ぎると倉庫が沢山必要です。マンション三世帯相応の倉庫がありまして、必要な物が直ぐ に出て来ない事があります。
 建物の十分の一は大体倉庫ですね。観音院は充実した設備をして頂いて、大切に維持したいと念願してます。
 観音院は信徒さんの所有に関わるもので、私も住職も皆さんの僕です。これを、錯覚を起こすと変な事になります。
 皆さんが使用されるについて、皆さんの定められた使用料があったのですが、建物什器備品の償却などを積み上げると額が大きくなります。
 これは合理的なようで、全ての人に平等な制度ではありません。観音院では全ての代料と使用料は全廃しました。
よく他のお寺さんの本堂では呉服の展示即売会とか布団の即売会などがありますが、観音院では無理ですね。
 毎日、宗教行事が執行されていて、本来の宗教目的以外に使う余裕が全く有りません。
 別殿には無料の宿泊設備がありますが、全体に金箔を貼られたので、気兼ねがあるそうです。トイレ十五ヶ所、風呂十ヶ所の管 理だけでも大変です。
 寺内の電球だけでも点検が大変です、五百個はあります。
 観音院は仕事として運営しません、「慈悲」を運営の基盤に致します。
 慈悲は数式や数字に馴染みません、∞(無限大)なのです。掛けても引いても足しても変化しません。唯の∞です。
 しかし、人は疑い深いもので、その裏に何かがあると被害妄想されます。こんなことは、冗談やジョークで言える事ではありません。
 物事が善意で回ると、こんな奇跡のような事も起きるという見本です。
不必要なものは無くても良い。世間に迷惑を掛けるものも必要 無い。必要とされる存在が、存在の理由です。
 殺生な宗教施設は不要、殺生坊主も必要無いですね。殺生はしたくありません。信徒さんに無理をさせてはなりません。信徒さん の心を傷つけてはなりません。慈悲が有って、慈悲が説かれて、人が集まり、建物が建った。それが観音院の今日です。観光施設でもレジャー施設でもありません。
 昔の事ですが、どこかの寺院で見た「定」という印刷された張 り紙が有りました。その内容は、戒名料について院号を田畑一反 と「定」める、というものでした。不思議に思われました。一反は三百坪です。大変なものだと思いました。

■そのような次第で一切の金額の常識は全廃した訳です。
 僧侶になるために得度する、得度には、法衣や袈裟、白衣、経典、数珠、その他色々な法具が必用です。ご喜捨で適当に済むものではありません。
 これらは本人の希望や趣味がありますから自己負担です。便宜のために寺で注文して上げていましたが、中継ぎは止めます。注文されたものを適当なご喜捨で納められると、足らずは私が負担 してましたが、底を尽きました。
「葬儀代を用意して置かなければ死ねない」と言う高齢者の言葉は、現代の宗教に対する不信が根だと思います。
ですから観音院は葬儀の常識も全廃しました。院号戒名料は必要ありません。
 葬儀社に注文されたものは自己負担です。観音院は契約に立会って不要なものは除いて貰います。葬儀社はご自分が観音院の信徒ですから協力的です。
 信徒さんの寺ですから、会場使用料は必要ありません。祈願も供養も葬儀もご喜捨、純粋なお布施(世間相場とか常識に依らないで、自分で考えて金額を決める)によります。葬儀社に色々と注文 されると喪主の負担が増えます。
 観音院では受付でお金の話題が無くなり、爽やかになりました。
 お布施は全額信徒さんの管理される会計に入ります。僧侶は無関係ですから、ご自分に無理にならぬよう、あるいは、他の貧しい信徒さんの為に施す、協力の意味を含めてお供えしましょう。
 お寺を潰すつもりかと意見された役員さんもありました。「潰れるかどうか分からないよ」と答えておきました。
 寺は百年建築だから、寄付はお願いしません。信徒の子供さんに迷惑は掛からない考え方です。採算なんか考えず今後慈悲で運営します。 

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