洋燈の中に弘法大師

「佐賀県 三養基郡 南茂安村 大字西島なる今泉弥平夫妻ほか九名は、去る九月三十日より、弘法大師新四国めぐりをなし、翌十月五日に帰村したれば、右弥平方にて振る舞いにと、皆みな相集まり飲食し居りたる際、点火した洋燈(ランプ)のホヤ一面、油煙くすぶりたり。

 しかるに座中の一人、奇異の声をはなちて、『アラ 有り難や、弘法大師様の御尊像 出現ましましたり!』と叫びしかば、皆みな驚きてその指させる洋燈のホヤを見れば、油煙のくすぶりに、眼あり口あり、鼻耳あり、弘法大師の御尊像と紛(まが)うかたなき顔貌が自然に顕われおるにぞ・・
いずれも合掌礼拝(らいはい)し、これ全く弥平殿の信心と慈信深きとにより、かくも仏の御姿を顕わしたまいしなりと云い、近村近郷より毎日、同家の洋燈に参拝する者多しとなり」
 明治二十九年十一月三日付け
 東京中央新聞 雑報記事より

 — 拝啓 向寒の砌益々ご清祥信心ご相続 恐悦 至極に候。
 さて、東京中央新聞一覧候ところ、客月(かくげつ・先月)五日の夜、尊家に於いて洋燈の中に弘法大師尊像出現云々(うんぬん)掲載せり。誠に近来未曾有の不思議と存じ、ことに拙僧は布教伝道の心得として、右等の事柄、平素探究いたし、わが教海に紹介し、もって、大師の神徳をして社会に知らしめんと決意申しそうろうにつき、ご面倒ながら、愚問の数々巨細(こさい・ことこまか)明瞭に事実、早々ご回答相なりたく、この段ご依頼に及び候 以上。
 埼玉県武州児玉郡本庄町
   真言宗仏母寺第一世
   権大僧都 高岡隆圓
 明治二十九年十一月五日
弘法大師御信者 今泉弥平様

宗派を超えた大師信仰

 佐賀県三養基郡南茂安村
 大字西島   今泉弥平
 明治二十九年十一月二十三日
 権大僧都 高岡隆圓様
 御尋問に付きお答えいたします

 お尋ねの第一問にお答えします。
 私どもの家族は、大師尊をつね日ごろ信仰しております。

 第二問にお答えします。
 宗旨は真宗です。私どもの村では大半が真宗でして、隣村北茂安村の善法寺の檀家であります。

 第三問に対する答え。
 私弥平は天保十年十一月生まれ、愚妻は天保十二年十月生まれで、名前を八重と申します。

 第四に対する答え。先祖より私まで四代にして、寛保年間より今年まで、およそ百五十年のあいだ農業を営んでおります。

 答、五問。現在住んでいる我が家は築ほぼ七十余年を経ており、この家屋を建てたのは原貞十という人でした。
 この御仁(ごじん)は、年来、仏への信仰が厚く、京都本山へ七度参詣し、本如上人の滅日が十二日であることから、われもまた、十二日に死ぬと親しい人々へかねてより話していたそうです。
 そして、はたせるかな、天保七年六月九日、身体具合が悪くなり、同十二日の朝、長男原重助へ手洗い水を乞うたので、与えると、貞十は手を洗い清めて、仏前へ向かって礼拝し、そのまま午前十時ごろ相果てたということであります。
 この貞十という人は、平生より仏信に厚く、遠近(おちこち)の人々が「生き仏」とあがめていたぐらいだそうで、私ども今泉家は、その原家の血筋というわけで、この家を相続しましたが、家屋は建築以来火災その他災害を被ったことは一切ありません。

 答、第六。私どもの家族はわれわれ夫婦と、一人娘の婿を今泉家の養子になおし、その若夫婦のもうけた子供、男子四人、女子一人の、つごう九人家族であります。

 答、第七。先祖の人たちを一人一人たどってゆくと、私の知るかぎりにおいて、おおむね長命の者が多いようであります。

 答八。八十八箇所は、筑後(ちくご・今の福岡県南部)より肥前(ひぜん・佐賀県と長崎県の一部)にわたり点々とつらなっており、開創は明治二十四、五年ごろであります。

 答九。新四国八十八箇所めぐり開創の発起人は元養父郡中原村字藁原の綾部六兵衛さん、世話人は三潴郡盧塚村の江頃庄右衛門さんほか三十九名であります。

 答十。九月三十日より出発した巡拝者の一行はおよそ百三十名、そのうち当村の西島からの参加者は十名でありました。
嗚呼、遍照金剛!

 第十一問にお答えします。
 弘法大師のご尊像が出現したのは、十月五日の夜に相違ありません。その夜は、「巡拝納め」ということで、同行(どうぎょう)者十人が私の家に寄り集まり、精進料理にて酒を飲んで過ごしました。

 答十二。洋燈の燈芯(とうしん)は三分(約一センチ)ほど、台付きのランプです。

 答十三。われわれが飲食した座敷は南向きの八畳の間です。

 答十四。現れた弘法大師のご尊像を見つけたのは、この西島に住む高柳喜作という者で、当年三十五歳であります。

 答十五。私たちは九月三十日から新四国八十八箇所めぐりを始め、十月五日に無事巡拝を終えましたので、その夜わたくし宅においてささやかな打ち上げの小宴を催し
ました。
 宴たけなわの深更十一時ごろ、酒席を照らしていた座敷のランプがにわかに明るくなりましたので、私が燈芯を少し小さく加減しようとしたところ、わきから高柳喜作が、ちょっと待て、と押し止め、「このランプのホヤに浮き出ているのは、もしかして弘法大師様のご尊像ではあるまいか」と申しましたから、手をひっこめて私はしばらくのあいだ、ランプを見つめておりました。
 すると、ランプの明かりは次第に通常のごとく小さくなりました。
 が、それにつれてお大師さまのお顔、眉目から鼻筋や耳などが、まるであぶりだされたごとくにくっきりと浮かび上がっていたのであります。このご尊像は今もって消滅いたしておりません。

 答十六。ランプの弘法大師像は燈芯に火を点じなくとも、また、晴雨にかかわりなくホヤに現出しております。

 答十七。ご尊像は、どなたに限らずご希望の方には喜んで拝礼していただいております。

 答十八。ただいまご尊像は、ひとまず床の間に安置していますが、これから急ぎ一宇を建築し、そちらへお移しする予定であります。
 なお、ご尊像にはつねにお菓子、水、お線香など供養し、荘厳しております。

 答十九。先程らいより尊像という表現を用いておりますが、お大師さまはお顔のみのお姿であります。そして問題のホヤの寸法は高さが四寸八分(約十五センチ)また、胴のふくらみが差し渡しこれも同じく約五寸ほどであります。

 答二十。私の家は以前から、村内を警邏(けいら)する巡査の立ち寄り先に定められております。そんな事情により、念のため巡邏してきた巡査に、事の次第を逐一報告したところ、格別の尋問もまた何らの異議をさしはさむこともなく聞き捨てにして、その後何の沙汰(さた)もありません。

 答二十一。近郷近在より参拝者が毎日五、六名、多いときは一日二十名ばかりあり、すでにこれまで二百数十名に達しております。

 答二十二。かねてより私は、困っている人、難儀(なんぎ)している人などには、かならず物品を施したり、また村内の人々のお世話などをするぐらいの程度で、そのほか別段、これといって自慢することもございません。
 
 以上、明治時代の、ある書簡をご覧いただきましたが、すこし補足しますと、本文中の「新四国八十八箇所めぐり」とありますのは、お大師さまと「同行二人(どうぎょうににん)」のお遍路の四国霊場めぐりにあやかり、当時、その地方の有志たちによって、恣意的(しいてき)に作り上げたローカル色ゆたかな巡礼ルートだと考えられます。
 新四国コースを現在の地図でなぞりますと、福岡県の久留米から佐賀市あたりにかけてではないかと推測されます。そしてここで何よりも注目すべきは、浄土真宗の人々が宗旨などに関係なく、お大師さまを心底憧憬し、信仰していたということです。
千手経を念誦する修行者を殴打し
悪死の報いを得る話
      「日本霊異記」より
 越前の国加賀の郡に浮浪人(生まれ在所から逃亡した戸籍の無い人)を取り締まる役人の長(おさ)がいた。元来この男はこの辺りの豪族でもあった。
 男は、それぞれいろんな事情で故郷を捨て、加賀へ逃れてくる無宿者をとっつかまえて苛酷な労役を強要し、私腹を肥やしていた。
 さて、ここに小野庭麿という者がいた。庭麿は京にちゃんとした戸籍を有する優婆塞(うばそく・仏道に入り、三宝に帰依した半僧半俗の在家の男)で、つねに千手の咒(せんじゅのじゅ・「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」として知られ、この咒を誦すると、すべての悪業(あくごう)重罪が消滅するという千手経の呪文)を誦持(じゅじ)していた。
 小野庭麿は加賀の郡(こおり)のあちこちの村落を行脚(あんぎゃ)し、山を一つ一つ越え、修行に励んでいた。
 称徳天皇の神護景雲三年(769)己酉(つちのととり)の春三月二十七日の午の時(正午)、例の役人の頭(かしら)が郡内の御馬河(みまかわ・現在金沢市三馬町の付近)の村里を見回っているところへ、小野庭麿と行きあい、
「汝はどこから来た。生まれ在所はいずれの国であるか?」と詰問(きつもん)した。
「ご覧のとおり、私は修行者でして、世俗の人間ではありません」
と庭麿(にわまろ)が答えると、役人は猜疑(さいぎ)の白眼をぎろりと剥(む)いて「いつわりを申すな。おそらく汝はどこかの国から流れてきた浮浪人であろう。なのにどうして、労役を怠けて、真っ昼間、こんな処をほっつき歩いているのか、この不埒者(ふらちもの)めが!」と言うと、いきなり庭麿をひっ叩き、縛り上げてしまった。
 こうして庭麿は役人監視のもとで、不本意にも労役を強要されるはめになったのだが、譬(たと)えをひいて、そのやりきれなさを訴えた。
「衣(ころも)の虱(シラミ)は頭にのぼりて黒くなり、頭の虱は衣におりて白くなるという(虫も居る場所にしたがって、その姿かたちや色彩をあらためるといった意味)。
 頭の上に千手経(せんじゅきょう)の経典をのせ、背中に大乗経を背負っているのは、俗人から迫害を受けないようにするためである。それなのに何故に、罪もあやまちも無いこの私が、このように辱(はずかし)められねばならぬのか」
「ええい、ほざくな! 汝の言う千手経の咒文や、大乗経の霊験がそれほどにあらたかなものであるならば、そのすばらしい力とやらをとっくりと見せてもらおうじゃないか」と言うと、縄でもって、千手経を乱暴にしばって地面を引きずり、庭麿ともども引ったてて行った。
 そこから一里ばかり歩いたところが役人の屋敷であった。
 門前まで駈けだしてきた郎党たちの出迎えをうけて、役人が馬から降りようと、その動作をしかかると、どうしたことか、身体がまるで金縛りにでもあったかのように硬直して身動きひとつできないのである。
 とおもう間もなく役人は、乗っていた馬ごと天高く舞い上がったのだ。そして、そのまま空中を浮遊し、さきほど庭麿を打擲(ちょうちゃく)した場所まで逆戻りし、その空の上で、まる一昼夜宙吊り状態になってしまった。
 そして、そのあげくに役人は、翌日の午の時きっかりに、空中より落下し地上にたたきつけられ、死んでしまったのである。
 役人のその死にざまは、あたかも袋に入れた算木(さんぎ・計算や占いに用いる角棒)のようにバラバラだった。
 それを見て人々は恐れ戦いた。
「大神咒は、乾枯れたる樹すら、なお枝柯(えだひこえ)華菓を生ずること得(威力の絶大な咒文は枯れた樹木でさえも枝や小枝、花や実をつけることができる)。
 もし、この咒を謗(そし)る者があれば、すなわちそれは九十九億(無数)あるという恒河沙(ごうがさ・ガンジス河の砂粒)ほどもある諸仏を謗(そし)るに等しい云々—-」と、千手経に説かれている。
 大通方広経(だいつうほうこうきょう)に、「賢(さか)しき人を誹謗(そし)る者は、八万四千の国の塔寺を破壊(はえ)する人の罪に等し」とあるのは、つまりこのことではないだろうか。

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