法身・因縁・色即是空・十二因縁

■如来法身(ほっしん)の偈(げ)■

ご隠居 諸法は因縁(いんねん)によって生ずるなり—-。
 これは「如来法身の偈」というものだが、この如来法身の偈には
さらに、もう一偈ある。それはこうだ。

 諸法従縁起 如来説是因
 是法従縁滅 是大沙門説

 諸法(しょほう)は縁(えん)に従って起こるなり、 この二つ
の「偈」は見てのとおり、多少文字の違うところはあるが、意味は
ほとんど同じだと思ってもよいだろう。

寅さん 何だかよく分かりませんが、どういう意味です? 
 だいいち、偈(げ)というのは何のことですか?

ご隠居 「偈」とは、仏の徳を詩の形式にして、ほめたたえた経文
と思えばよいだろう。
 法要の最初にお唱えする「開経偈(かいきょうげ・観音院常用教
典まことの道十五頁)」は寅さんも知っているだろう。

 この偈の意味はおいおい説明するとして、とりあえずは如来法身、
この如来法身がどなたであるかを知らなければ、この偈意が理解で
きないから、それからまず説明することにしよう。

 如来とは仏の尊称のことだが、仏にはもともと「法報応の三身」
があることは寅さんも知っているだろう?

寅さん 大日如来は法身(ほっしん)で、阿弥陀如来は報身(ほうじん)、
そして釈迦如来は応身(おうじん)でしたね。

ご隠居 そうだ。私たちは法身といえば、すぐに大日如来を想像し
がちだが、しかしこの場合の法身は大日如来ではない。
 また理法身、智法身というときの法身のことでもない。

 仏遺教経のなかに「自 今 以後 我ガ モロモロノ弟子 展転シテ
 コレヲ行セバ 即チ コレ 如来ノ法身 常ニ 在(イマ)シテ
 シカモ 滅セザルナリ」とあるように、
この法身の「法」の字の意味は、まず、「心」と考えてよいし、
法身の「身」のほうは、積みたくわえるという意味で、つまり
ここでいう法身は、仏心を積み集めたものと考えてよいだろう。
そしてこの場合の如来とは釈尊のことだな。
 さて、この如来法身の偈は、因縁(いんねん)ということに主眼
を置いている。

 仏教には真俗二諦(しんぞくにたい)の法門があって、般若経な
どでは諸法皆空(しょほうかいくう)として、因縁を否定している
箇所があるが、それは衆生(しゅじょう)の執着(しゅうじゃく)
や迷いを、一時抑えする方便(ほうべん)であって、仏法の建前は
あくまでも、諸法は因縁から生ずる、というのが仏の説かれた真理
であり、原則であるとされている。

 因縁が真理の原則だから、如来法身の偈というのだが、それでは
その「諸法」とは何のことであるかというと、これは有為無為世間
出世間(うい むい せけん しゅっせけん)の法であるとされている。

■天地は因縁の和合■

寅さん 何です? その有為無為(ういむい)、なんとかの法とい
うのは?
ご隠居 有為(うい)は、この世の常に移り変わるもの、「無為
(むい)」はその反対に生滅(しょうめつ)、変化しないものの
こと、世間はこの世の中の意味、また出世間(しゅつせけん)とは、
世間を超越した境界(きょうがい)のことで、世俗を離れた悟り
の世界といってもよいかな。
 つまり、この天地のあらゆる存在と現象は、有為法であり、三界
六道(さんがいろくどう)も有為法に分類されている。ただし十界
(じっかい)のうち、声聞(しょうもん)と、縁覚(えんがく)、
菩薩界、仏陀の世界だけは無為法(むいほう)だとされている。

寅さん 十界?
ご隠居 迷界と悟界の両界を合わせて十界という。
 「迷界」は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、の いわゆる
「六道」のことであり、「悟界」は声聞、縁覚、菩薩、仏陀の境界で、
あわせてこれが十界だ。
 この物質面、精神面における、あらゆる存在と現象のことを仏教
では「諸法」というようだ。つまり私たち人間はもとより、宇宙の
森羅万象(しんらばんしょう)のすべてが諸法であるとされている。

 この諸法とは、そもそもどういうわけのものなのだろうか。何の
理由があって霊妙不思議な存在であるところの人間をはじめすべて
のものが、こうした形を私たちの前にあらわしているのだろうか。
 また、これらの諸法の始まりと終わりは、いかなる道理があって
そうなるのか、人間みずから解決をせまられる疑問が数多くある。

 この問題について、人類は太古から、天地創造の神によってつく
られたものであるとか、あるいは自然発生的にできたものとか、い
ろいろ解釈をくだし、論議してきたが、釈尊は、それらの説はすべ
て誤りであるとされた。
 では、釈尊はなんと言われたか、
「この諸法(宇宙のあらゆる存在と現象)は因縁の所生(しょしょ
う)である」とおっしゃった。
 この天地は神がつくられたものでもなければ、自然偶然にできた
ものでもない。ただ因縁の和合によってできたものである、とおっ
しゃったわけだ。
 「因」というのは力の強いもの、「縁」というのは力の弱いもので、
これを内因外縁という。
 有為法(常に移り変わるもの)にしろ、無為法(生滅も変化もし
ないもの)にしろ、けっして一因だけで生ずるものではない。諸法
はかならず二つ以上のものが相因(あいよ)り、相縁(あいよ)って
生ずるものであるとお釈迦さまは断定されたわけだ。
 だから仏教のことを一名、因縁教ともいうそうだ。

 法華経に「諸法従本来 常自寂滅相」と説かれているが、これは
絶対真理の立場から説かれたもので、その意味は、不生不滅、不増
不減、つまり諸法は生じもしなければ滅しもしないし、増えもしな
ければ減りもしない、というのだ。
 とすれば「諸法は因縁によって生ずる—-」という説と、
つじつまが合わないではないか、という疑問が生じるが、
この諸法因縁生という如来法身の偈は、ありのままのすがた、
我々が自然に接して見たり感じたりする立場にたって説かれている
と考えるべきだろう。

 したがって 前者の 不生不滅 —- は「真如門の説」、
そして後者の 諸法因縁生は「生滅門の説」とされているようだ。
 およそ生あるものは、必ず滅がある。始めあるものは終わりがあ
る。
 この生滅始終(しょうめつししゅう)、離合集散のあるものは、
みな因力と縁力とがタイミングよく結合しただけのことであって、
ほんらい常住不変のものではない。結合する力がおとろえ尽きる
ときは、必ず移ろい、滅しなくてはならない。
 だから釈尊は「因縁尽きたる故に諸法は滅す、我れ、かくの如く
説を作(な)す」とおっしゃったわけだ。

■色即是空(しきそくぜくう)■

ご隠居 維摩経(ゆいまぎょう)にも「法は、有(う)ならず、
無ならず、因縁をもっての故に諸法生ず」とあり、
また中観論(ちゅうがんろん)には「未(いま)だかつて、一法と
して因縁より生ぜざることあらず。この故に一切の法はこれ空に
あらざるものなし」とある。

 因縁より生ずるものは必ず滅するから、空である、と論じたもの
で、これは 諸法皆空 —- すなわち この世界の存在はすべて空、
の理(ことわり)から論じたから空なり、としたわけだ。
 そしてまた中観論は、色即是空 空即是色の観点より「法は因縁の
所生なり。我れは説く、即ち是れ空なりと—-」と説いている。

 中観派は唯識派と共にインド大乗仏教の二大系統のひとつで、日
本では三論宗が受け継ぐ。

寅さん 般若心経にある色即是空、空即是色の意味は?

ご隠居 我々を取り巻くこの物質の世界は本来、空であり、無であ
るが、因縁(いんねん)の相関関係によって、それぞれ別々の存在
として有る—-という意味だ。
 中観論を書かれた竜樹(りゅうじゅ・一五年〇~二五〇年頃の南
インドのバラモン出身の僧、小乗仏教から大乗仏教に転じて、空の
思想を説かれた)は、一切皆空の義を説かれ、
その著書「十二門論」の〔因縁を観ずる門〕の偈文に
「法すなわち存在は因縁によって生ずる。ゆえに、それに自性(不変
の本質的存在)はない。
 自性(じしょう)がなければ、どうして個々の法(すなわち存在
があるといえようか」とお説きになっている。

 一方、天台宗ではこの問題に関して、「空・仮・中」の「三諦」
(さんたい)ということを説いている。
つまり、因縁のかりの和合を仮(け)と説き、その因縁が離散すれ
ば空であるとし、一度離散したとしても時にはふたたび和合するこ
ともある こうして和合すればまた「有」となるわけだけど、かと
いって、その「有」は常住(変化しないで常に存在する)のもので
はないからこれを「仮有(けう)」とする。
 したがって「仮」とは、有の意味であり、「空」というのは
無の意味になる。
 ただし「無」も純粋の意味の無ではなく、「有」も常に存在する
有ではないから、両者のあいだをとってこれを「中」と説いた。
 つまり、有にも空にもそのどちらにもかたよらないということで
「中」としたのだろう。
 このように、因縁によって生ずるのも、因縁によって滅するのも
すべて自然の法則であって、何びとたりともこの法則からのがれる
ことはできない。そこで真如縁起とか、法界縁起とか、頼耶縁起と
か、業感縁起(ごうかんえんぎ)とかいうのも、つまり因縁生である
からだとされる。

■果報は因と縁の好出会い■

ご隠居 如来法身の偈に「諸法は縁に従(よ)って起こる、如来は
是の因を説く」とある。
 では、是の因とはいったい何なのか?

 キリスト教では、これを神であると説いているが、お釈迦さまは
これを「心なり」とお説きになった。
 つまり業感縁起(ごうかんえんぎ)にしても、頼耶、法界、真如
縁起にしても、すべて心を意味しているわけだ。

 私たちの心は、数多くの縁によって生起したものであって、自然
に発生したものではない。
 人間の固体は、いろんな縁の結びつきによって、しだいに肉体が
形成され、やがてそこに心が生じるわけだ。私たちがこの世に受け
難き生を享(う)け、現にいま、一生懸命自分の人生を送っている
ことを考えれば、おのずからその道理が理解できるだろう。

 人間は、このように縁に従って起こったものであるから、また縁
に従って滅するのであって、けっして因(心)によって滅するわけ
ではない。
 たとえばロウソクの灯火(ともしび)は、ロウソクのロウと灯芯
とを縁としてあらわれて灯っている。しかし、その縁であるロウと
灯芯が無くなれば、灯火は燃え尽きてしまうだろう。また、そのほ
かの要因、風の縁によって消えることもあれば、あるいは水の縁に
よって消滅することがあるかもしれない。諸法の生滅は、この道理
をもってしても明らかである、とされている。

「是れ法は縁に従って滅するなり」と大沙門(如来)は説かれた。
 お釈迦さまが成道(じょうどう)後四十九年のあいだお説きに
なったのは、みなこの因縁説だといわれている。

 因と縁が結合すれば必ず果報というものがある、とされている。
 仏法で因果(いんが)というのは、この因縁果報(いんねんかほ
う)を省略した言葉だそうだ。
 仏教では、因について六因を説き、縁についても四縁を説いてい
る。
 そしてまた「十二因縁」ということも説かれている。

寅さん その因縁とは?

ご隠居 衆生(しゅじょう)が、過去、現在、未来の三世(さんぜ)
にわたって生死流転(しょうじるてん)する因果の関係を、十二に
分けて説いたものだそうで、私などにはよく分からないが、、、、
十二因縁とかいわれ、次のように分類されている。

 すなわち、無明(むみょう)・行・識・名色(みょうしき)・六
処・触・受・愛・取・有・生・老死、の十二だ。

 このように因縁果報を三世にわたり延々と説くわけだから、それ
は気が遠くなるほどのものだな。
 仏教が、世界に現存するほかの宗教にくらべて異なるところは、
この因縁説であるとされている。
 小は電子顕微鏡的ミクロの世界から、大は宇宙の果てにいたるま
で、およそ因縁ならざるものはないと、お釈迦さまが最もつきつめ
て思索され、説きつづけられたのが、この因縁説であって、仏説の
因縁は不変決定(けつじょう)であるとされているな。

寅さん へえ、そんなわけのものですか。それにしても今回の話は
ちょっとばかり難しかったですね。

ご隠居 たしかに難解だな。講釈(こうしゃく)している本人の私
自身でさえ、本当のところよく分かっていないんだから—-。

 ただ一点だけはっきりしているのは、諸法は因縁によって生ずる
とお説きになったお釈迦さまの根本を、その時代、その時代の仏教
家、思想家によって、さらに思索が深められ、数々の解釈がそこに
くわえられていった、その課程がよく分かることだ。般若経のいわ
ゆる諸法皆空思想、そして般若経以上に「空」的である維摩経の思
想、さらには、諸法は結局のところ空であるという中観論の思想な
どがそうだな。

 分からんついでに、最後に空の思想を見事に表現したとされてい
る詩を紹介してみよう。

    「 る す 」

   留守と言へ

   ここには誰も要らぬと言へ

   五億年たったら帰ってくる

            高橋新吉 

(高橋新吉・愛媛県生まれ、詩人、 前衛的詩壇の旗手。
 ダダイスト新吉の詩、一九〇一年 ~ 一九八七年没)

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