法名と戒名

寅さん
法名(ほうみょう)戒名というのがありますが、きょうは一つ、それについて蘊蓄(うんちく)を傾けてもらえませんか。
ご隠居
法名というのは、ほんらい、佛門(ぶつもん)に入った人につける名であり、戒名は、みずから希望して佛戒(ぶっかい)を受けた者にかぎり与えられるものだ。だから、受戒(じゅかい)してない者には戒名をつけることはできない。
だけど、佛法には各宗派で規則として、人の死後には葬儀のとき必ず三帰戒(佛法僧の三宝に帰依する戒)とか、そのほかいろんな戒法を授けるきまりがあるから、佛式でもって死者の霊に授ける法名を、一般に戒名といっているようだな。
戒名の本来は、生前により善く生きようと修行の心を発(おこ)し、入門を許された佛弟子(ぶつでし)に与えられるもので、中世末期ころからは葬儀において死者に与えられるようになったそうな。
したがって死者の場合、法名がそのまま戒名であり、戒名がまた法名でもあるわけだ。
戒名なり法名は、昔たいていの場合、漢字四字から成っており、上の二字を「道号」といい、下の二字を「法名」という。
法名は、さっきも言ったように佛教信者(しんじゃ)につける名だが、道号というのは、これによって佛道に悟入(ごにゅう)するという意味が含まれている。
そうだとすると、ほとけも佛法も知らず、まして道を悟るなどということが万に一つもない不信心の者が、死んだあとに、やれ「悟道明心居士」だの「円明無相信士などといったご大層な戒名となるのは、いささかどうか、と思う人もいるだろうがー、かといって、その人の生前の言行ずばり「垢染煩悩信士」とか「執着乱心居士」などとつけるわけにもゆくまい。
元来、法名というものは、その人が天性そなえている美質や長所に対して名づけるものであって、短所欠点をあらい出して付けるものではない。
したがって存命中は、煩悩(ぼんのう)の垢(あか)にまみれ、執着と欲望のうちに一生を終えたような人であったとしても、ひとたび佛式でもって葬儀をおこなうからには、生前に佛門に入っている、いないにかかわりなく、今日より以後は佛弟子として佛戒を受け、お経の教えを聞き、引導(いんどう)を受けて、ついには悟道明心・円明無相の境界(きょうがい)に行きつくのだよと教え示しているわけだ。
道号と法名は、こういう文字の構成なので、生前において深く佛道に帰依(きえ)している人は、その法名に文字通り、いっさいの粉飾(ふんしょく)がなく、ますます尊い法名が光りかがやくというものだな。
――居士と信士――
寅さん
戒名ですぐ思いうかぶのが信士信女ですが……。
ご隠居
信士(しんじ)信女(しんにょ)を死後にのみ用いるのは間違いだ。信士信女は、佛道を信仰する善男善女人の通称であって、なにも死者の法名につける名詞にかぎったことではない。これに「清」の字をさらに加えて清信士、清信女という場合もある。
その意味は、ほとけの正法(しょうほう)を信じて、他の邪法を信じない者は、身の内も外も清らかで、煩悩執着の汚(けが)れを洗い除くからだ。
これを梵語(ぼんご)で発音すると、寅さんも知っている、優婆塞、優婆夷(うばそく、うばい)のことだ。源氏物語にも優婆塞の宮というのがおられる。
寅さん
そうすると、清信士、清信女というのは、出家しないで、生前に仏縁を頂いて修行僧となる在家で佛道を修める男と女、ということですか。
ご隠居
さらにまた、清浄士、清浄女(しょうじょうにょ)ともいうことがある。これは五戒、八戒などの佛戒を受けて、身も心も、教えに従い正しく清浄を心掛けているいる人のことだ。
以上のようなわけで、信士、信女というのは、決して死者にだけ使用される名称ではなく、深く佛教に帰依した男女が受戒するとき俗名のほかに、戒名を授かって佛弟子になった証(あかし)でもあるというわけだ。そう考えると僧籍(そうせき)にある人の名がすでに戒名である理由もこれでよく分かるだろう?
寅さん
へえ、お坊さんの名前、あれは戒名だったんですか。
ご隠居
ぎゃくに言うと、戒名法名を死後に持つ人は、まちがいなく佛門に帰入したことの証拠であることが分かるし、その戒名、法名によって、何宗の信徒かを知る手がかりにもなるな。
寅さん
居士や大姉(だいし)というのもありますが。
ご隠居
居士(こじ)とは、どういう人を指しているかというと、およそ四つの徳をそなえている人を居士としている。
一つは出世を求めない、二つは欲が少なく、徳をひけらかさない、三つには富裕の者、四つには徳を守りおのれをわきまえている者、と、お経や中国の古書に、居士を定義している。
要するに、居士といわれるほどの人は、知識もあり道徳もあり財産もあって、人々に尊敬される人物のことだ。このように考えると居士は佛教特有の称号ではないが中国に佛教が入って以来、むこうの知識人たちがその名称を、尊敬に値(あたい)する人に対してたてまつったために、いつしか佛教用語となったようだ。
――在家の佛弟子――
寅さん
居士では、たとえばどんな人がいます?
ご隠居
日本では、京都の大徳寺に三十年間参禅した茶の千利休、そして最も有名なのが経典にもある維摩居士(ゆいまこじ)だな。この維摩居士は在家ながらも深く佛法に通じ、菩薩や佛弟子たちにたいへん煙たがられた。
道元禅師も著述しておられる。要約すると「中国において居士というのは、在家の士太夫(地位のある人格者)のことをいう。一般人と同様に夫婦家族で暮らす者、また、清貧(せいひん)孤独をたのしむ者と、暮らしぶりはいろいろだが、ひとたび佛法に疑義を生じ、それをつまびらかにする場合などは、雲衲霞袂(うんのうかけつ・大勢の僧侶が集まる)して、詳細に審議検討することは出家と同じである」と。
こんなわけで、この居士という呼称が、いつのまにか佛教と結びついて、居士とか信士とかが死後の法名戒名に使われる習慣になったようだ。したがって信士も居士も、どちらが格が上とかのランクはなかったが、年月を経るにつれて佛教とは無関係に自然に格差がついたようだ。
生前その人が偉かったとか、家柄がよかったとか、またはお金持ちだったとか、その他いろんな理由によって子孫が居士号を要請したり、あるいはお寺に功労があったとかで、菩提寺(ぼだいじ)よりその尊称を諡(おく)ったりすることもあったようで、佛門において居士号を用いるのはだいたい以上のような由来から始まったように聞いている。
観音院の場合は、亡き人に対する尊厳をもって全て平等に最高の院号居士大姉位が贈られ、丁重な葬儀が執行されている。
寅さん
大姉というのは?
ご隠居
大姉(だいし)はもともと老齢の婦人にたてまつる尊称でたとえば手紙などで男性を敬って使う「兄」と同義語と思えばよい。
寅さん
院号は?
ご隠居
院号というのは、昔、天皇が落飾(らくしょく)後、引退されて法王となられ、その隠居所の地名を指して「何何院」と呼ばれたのが呼び名の始まりのようだ。
寅さん
落飾?
ご隠居
落飾は髪を剃り落として佛門にはいることだ。古くは佛門に帰依された元天皇の住んでおられる御所(ごしょ)を「院」と呼んでいたが、時代がくだるにつれて摂関家や将軍家までも院号を用いるようになった。また、その院の下に殿(でん)の字を置くと最上級の尊称になる。
そもそも殿は、高貴な人の居所に用い、「閣」とも「台」ともいう。殿下、閣下などというのは、もともとその人の居場所を指したもので、神様や佛様のいらっしゃる所を神殿、佛殿というのと同じ意味だ。
寅さん
そうすると殿様は?ご隠居 殿様というのは、昔、領主を安芸守殿、備後守殿などといった。江戸時代になって、大名である主人のことを家臣や領民が、殿に様をくっつけて殿様と呼ぶようになった。
これらはいずれも尊称であってつまり俗語だが、将軍家などは、法名に「何何院殿何何大居士」などと大層な称号をつけるのが普通になったようだ。
法名、戒名とは少し離れるが、諡(おくりな)というのがある。
これは昔、中国で、帝王や身分の高い人が死後、生前の行跡によって贈られた追号(ついごう)のことで、日本には七世紀頃この風習が伝わり、天皇が崩御(ほうぎょ)されたあと、諡号(しごう)として贈られるようになった。
――元号の歴史――
寅さん
たとえばどんな天皇が、どのような諡号なのか名前をあげてください。
ご隠居
神武天皇から平成天皇まですべて諡号だ。
天皇の諡号には国風号(こくふう)と漢風号と二つの諡号がある。
たとえば七世紀末の有名な女帝であった持統天皇、これが漢風号で、国風号では高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)といい、生前のお名前は鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)だったから、持統天皇はご自分が「持統」という名で後世みんなから呼ばれていることをまったくご存じでない。
それといま一つ、昔の天皇は、そのご在位中は年号がずっと変わらず、一つの年号で通すということはなかった。
たとえば、どこかで白い雉(きじ)がいて捕獲したからめでたいと、年号を白雉(はくち・六五〇ー六五四年)にしたり、あるいはまた、親孝行に天が感じて滝の水が酒に変じたので養老(七一七ー七二四年)と改元したり、ちょっとした瑞兆(ずいちょう)があると、さっそく縁起をかついで年号を改める風があったようだ。だから歴史の年代を確かめるのに、年号だけを見てその時の天皇がどなたであったかを知ることは、なかなか容易ではない。
年号が、現在のように一代一元制になったのは明治になってからで、これだとわれわれ国民に非常に分かりやすい。
つまり、明治時代なら明治天皇のご在位中、大正、昭和、平成といったふうに、天皇のご在位がはっきり区別できるというわけだ。
――「大師」はお大師さまがとった――
寅さん
お大師さまの「弘法」も諡号(しごう)ですか?
ご隠居
お大師さまなど高徳の僧に贈られる称号に大師号、国師号があるが、これは諡(おくりな)とは少しちがうようだ。
寅さん
でも、ふつうお大師さまといえば、誰もが弘法大師のことを思い浮かべますよ。
古くから大師信仰といわれ宗旨宗派を超えて、みんなお大師さまをありがたがって、四国八十八カ寺めぐりのお遍路(へんろ)などに喜々として出掛けたりするのはなぜなんでしょう?
ご隠居
寅さんは、こんな言葉があるのを知っているかな。
参宮は伊勢が取り、金比羅は讃岐が取り、巡礼は西国(さいごく)が取り、念佛は弥陀が取り、信心は宮・寺が取り、祖師は日蓮が取り、報恩講は真宗が取り、座禅は禅宗が取り、太閤は秀吉が取り、木の芽は山椒(さんしょう)が取り、大師は弘法が取る、というのだ。
寅さん
いやにずらりと並べましたが、何ですか、それは?
ご隠居
この言葉の言っている意味は、こうだ。
たいていの日本人は、お大師さまといえばすぐに弘法大師をあたまに思い描くが、大師と名のつくお方は、ほかにもたくさんおいでになる。
ところが昔から、人々のあいだで、その人の尋常でない偉大さが代々語りつがれ、受けつがれた結果、大師といえば、たれもが文句なしに弘法大師その人を連想する。
だから大師という称号は、万人の見るところすべてお大師さま一人に集約されて、「大師は弘法が取った」といっているのだな。
むろん、木の芽にしてもしかり。
春が来れば、その辺のすべての木々から木の芽は芽吹くし、太閤はなにも秀吉だけがかち得た位階というわけではない。
座禅にしても禅宗の専有修法ではないし、お祖師さまは日蓮上人だけにかぎらない。日本佛教に各宗旨を最初にひらいた開山(かいざん)方はみなすべて、それぞれのお祖師さま方だ。
参宮(さんぐう)も伊勢神宮だけが参宮ではない。近所の氏神さまへ参詣するのも参宮だし、西国巡礼(じゅんれい)にしてもべつに八十八カ所でなければならぬことはない。いろんな地方の神社佛閣を訪ねて巡拝(じゅんぱい)しても、これもまた巡礼にちがいはない。
まして念佛(ねんぶつ)は阿弥陀さまだけにかぎったことではなく、お釈迦さまや大日如来さまを念ずるのも、三世(さんぜ)の諸佛を念ずるのも、みな念佛である。と、こういうことを言っているわけだな。
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