檀家制度の終焉がせまっている

沢山の人たちが神社で結婚式を挙式し、かつ、それは氏子ではない結婚式で著名な神社に依頼します。
 神社で結婚式を挙式するようになったのも未だ百年は経っていません。
 神社で挙式したからと言っても信じる宗教が神道とは限りません。
 秋祭りに神輿(みこし)を担ぐ若い人たちが居なくなって、神輿が出なくなったところも少なくありません。

 亥の子祭りも、子供が少なくなり、道も舗装されていて、土と異なり「亥の子」が壊れるので、もう亥の子祭をすることが出来無くなり、石で作られた亥の子さんが木造になり軽すぎて、子供がついても壊れます。本来は陰暦の十月の亥の日に収穫祭の一つとして田の神が去って行く日と信じられ、子供達が「亥の子、亥の子」と唱和しながら石を沢山の縄で結んで土を打って移動し、亥の子餅を配ったりしたものですが、田んぼが無くなって現実的では無くなりました。

 仏像や宮殿、本堂や多宝塔などは、日本の芸術の背骨の役割を果たして来ました、宗教は伝統を大切にします。
 み仏さまにお供えする霊具膳は、千年昔に使われていたものと同じです。最近モダンアート風の仏壇や霊具膳などを見掛けますが、どうも馴染めません。
 お寺さんの運営は、檀家さんの肩に掛かっていますが、先祖の墓は放置して、自分が死んだら散骨して欲しい、子供に負担や迷惑を掛けたくないから、と言う人が増えています。
 檀家は旦那寺を維持する義務があるとされています、山門が傾いた、台風で屋根瓦が飛んでしまった時など、総代さんは費用を家別に格付けして寄付を割り当ててお願いされます。
 昭和の初めくらいまでは大地主など大檀家があって、帳面に順番に金額をを書き入れ、それを元に集金して、寺院や神社の費用に充てました。このような習慣は今でも残っています。
 資産家は三代は続かないという諺通り、家業を継がず都会に出る人も多く、過疎地では寺院や神社の運営は困難になっています。都会でも寄附帳を回すことは困難になりました。一人っ子の家庭が増えると百年で人口は半分になると思います。突然に半分になるのでは無く、気付かぬ間に減少します。
 既に学校では生徒が足りなくなり、廃校になるのも珍しくなく、統合される場合も少なくありません。
 神社は氏子が半分になる。寺院も教会も同じです。必死の努力をして、よく考えないと、消えるところもあると思います。年金の動向を観察すれば、将来が見えて来ます。

 慣習や風習は、人口の減少に耐えれないと思います。全ての需要と供給の関係が変化し、需要の見通しを誤った事業は退場は避けられないと思います。事業所の縮小、乃至、廃業は、仕事を無くして行くと考えられます。

 観音院が僧侶の養成を考えているのは、団塊の世代に対応するためです。養成する計画は決して長続きしません。
 需要の予測を過つと、法人の崩壊につながります。出先は沢山設けますが、決して箱物を大きくしません。
 必用無い寺院を拵えず、「死んだら子供に迷惑が掛けないように散骨してもらう」等と言われる人を少なくして上げたい、と考えているからです。
 僧侶は通常大きな建築物を背負っていてその維持費は大変です。この維持費を考えると、現在の葬祭費用は高いとは決して言えません。維持費の少ない僧侶を用意しようと考えています。

 僧侶は仏具の中心的存在です。法主さんは、しばしば、私は観音院の什器備品だと言われます、健やかに生きて、何時も勉強に励み、日々欠かすことなく皆さんの無事と平安を祈る存在、で在りたいと願っておられます。

 法主さんは仏教を終焉さすことが無いよう願って、僧侶を育てておられます。観音院の住職は世襲制を廃止されました。沢山の僧侶の内から衆望のある人が次の住職になられるでしょう。
 全ての組織は世襲制で代表を選ばない方が、良き人材が得られるでしょう。
 法主さんを観音院の備品だとしても、周囲が手入れしたり、ぴかぴかに磨き上げることは不可能です。
 法主さんの周囲にいますと、生きているみ仏のように思えることもあります。必用なものは仏縁で調えられると信じておられ、実際に観音院の什器備品は自然に調度されています。
 観音院には僧侶が必要とする全てのものが揃っています。
 金銭では得ることが出来ないものが豊富にあります。
 それは慈悲の心で幾ら汲み上げても涸れない井戸のようです。

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