松下村塾に行って来ました

明治維新のことを考えると吉田松陰に辿り着きます。どうしても萩に行きたくなりました。

広島から車で山口市を経由して四時間ばかり、途中で津和野市にも寄りました。

先日、BSテレビで民主党幹部や自民党幹部に公明党の幹部の座談会みたいなのを見ました。

テレビやネットはおろか新幹線も飛行機も使えない時代に松陰によって教えを受けた人たちのことを思い出しました。

松下村塾の門下生は、松下政経塾のように恵まれた環境ではありませんでした。松下政経塾は衆議院にも参議院にも多くの人材を出しました。

松下村塾は十八畳の小さな木造で、吉田松陰が二十七歳の時に設立され、此所で教育したのは実家に幽囚された期間を入れても二年半で、安政の大獄で刑死しましたが、松陰の志を継いだ人たちは明治維新の原動力となりました。

松陰のたぐいまれな能力は、人材を見抜く目を持っていたことです、例えば周囲に集まった人の中の高杉晋作や久坂玄瑞も、決して松陰を師と仰いで入門したわけではありませんでした。

松陰の感化力によって、すぐに二人の異なった資質と能力を素早く見抜き、「晋作の識、玄瑞の才」と二人を評価しながら、お互いを競わせたのです。

二人の見識とは、現代でいう数学ができるとか記憶力がよいというような、いわゆる勉強のできる能力とは異なったもので、炯眼、洞察力、直
感力に近い意味、つまり先を正しく見通す力、状況に応じ、特に危機に際して機敏で的確な判断と行動ができる能力のようなものを表現していたと考えられます。

明日をも知れぬ動乱の世にあって、この見識を持ち合わせていたおかげで、才を持ちながら 蛤御門の変に殉じた玄瑞とは違い、幾多の危機を乗り越え、奇兵隊を結成して大田絵堂の戦いや四境戦争を勝利に導き、維新回天の立役者となった晋作が、日本史上最大の英雄のひとりと成り得たのです。弟子の中には伊藤博文など多くの政府の重鎮が輩出しています。

当時と異なるものは国内の統一と言う難行があり、鉄砲隊やら大砲を有し、武士と称するものたちは大小の刀を持っていた。日本中は藩主がいて、国力も低く国民はとても貧しかった。

廃刀禁止令や廃藩置県など、命が幾らあっても足りませんでした。しかし厳しい外圧の中で日本を作るという大目的がありました。
日清・日露戦争は勝利しました。これらの出来事の評価は分れるところですが、国民を一つに纏め上げ、列国に期して行くという大義名分がありました。

天皇を仰いで、近代帝国を宣言し、寺社を分割するという乱暴なこともありましたが、アジアに「日本と言う強国を作る」と言う大志を指導者が持っていて、とにもかくにも国民全部を取り纏めました。昭和の第二次大戦で敗れましたが国民は全て一丸となって良く戦いました。

アメリカ大使館で昭和天皇が、敗戦国の国家元首としてマッカーサーが滞在するアメリカ大使館に出向き、会談した際、マッカーサーは、会談の際の天皇の真摯な姿勢に感銘を受けました。

当時、連合国のソ連とイギリスを中心としたイギリス連邦諸国は、天皇を「戦犯リスト」の筆頭に挙げていた。マッカーサーは、もし天皇を処刑した場合、日本に軍政を布かなくてはならなくなり、ゲリラ戦に陥る可能性を予見していたため、ソ連やイギリスの意に反し、天皇を丁重に扱うことで、安定した占領統治を行うことにしました。

天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べました。マッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服したそうです。

ともあれ、日本はマッカーサーによって押し付けられている平和憲法のもとで、陸・海・空の自衛隊をもち、国連の負担金 は十三%で米国に次ぎ日米安保条約のもとで何とか息をしています。

イラク戦争では日本経済にのしかかる負担は三千七十億ドル。 最近の円高水準で換算しても、三十兆円を軽く超えるそうです。

先に沖縄・尖閣諸島沖の日本の領海内に、中国の海洋調査・ 監視船一隻が一時侵入した。海上保安庁が直ちに退去するよう無線などで警告。一隻は領海を出た後、もう一隻とともに領海のすぐ外側を沿い、同諸島 の回りを時計回りに航行していると言います。

それで無くても北方四島の問題があります。日本は、一千九百五十一年のサンフランシスコ条約で、千島の領有を放棄しました。北方領土問題とは、放棄した千島に北方四島が含まれるか否かの問題です。実際には、北方四島は千島列島に含まれる。択捉、国後、色丹は千島列島の行政区分か。 択捉、国後は千島・・明治初年の日本の行政区分です。幕末・明治初年の条約誤訳の強引な解釈で、歯舞を千島とする考えは、強引で無理があり、逆に色丹を千島でないとするのは苦しいものが有ります。

ソ連は色丹返還をあっさり認めたため、日本は、これで条約締結可能と思ったところ、日本政府は二島返還での妥結を禁止、条約交渉は暗礁に乗り上げました。その後、重光葵が筆頭全権として平和条約交渉を行い、二島返還で平和条約締結の条約草案を日ソ間で合意し、本国に伝えたところ、日本政府はこの草案での妥結を禁止、さらに、アメリカからは二島返還で妥結したならば沖縄を返さないとの恫喝を受け、結局、日ソ平和条約交渉は頓挫しました。日本を囲む中国、ロシア、米国の緊張の中にあって、正に今は正念場と申せましょう。

安全を保証しているのは誰

広島市から萩市への旅行は快適でした。津和野市は津和野藩亀井氏の城下町であり、山間の小さな盆地に広がる町並みは、「小京都」の代表格として知られているほか、津和野駅はSLやまぐち号の終着駅でもあり、山口市・萩とセットで訪れる観光客が多いと聞きました。

毎年七月末に行われる祇園祭の中で、街中を練り歩く鷺舞は津和野の代名詞であり、国の重要無形民俗文化財に指定されています。何時かは実物を見たいと思っております。

しかし観光客は少なく少子高齢化の影響をもろに受けているように感じました。すれ違う車がとても少なく感じました。ここでそのまま萩に這入らず日本海への道をとりました。

途中は田植えの最中でした。田植えする人が四人くらいで、小さな田圃には自動田植機が要領良く運転していました。狭い田圃を日本的器用で動いていました。でも治安は良さそうでした。機械を運転している人は七十歳以上の高齢者に見えました。くねくねと曲がる道路を通り、萩に至りました。

萩では白壁に囲まれて八朔の植え込みを見ながら松陰神社に参拝して、松下村塾に行きました。十年ほど前にあった姿と同じで良く掃除がされていて何やらほっと致しました。観光客や修学旅行生らしき人の群れがありました。土産物屋で小さな萩焼二個を求めました。萩観光ホテルに宿泊しました。展望台から日本海を見ました。この向うに韓国と領有権を争う竹島があると思うと感慨無量のものが有りました。

竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です。韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も、法的な正当性を有するものではありません。

隣国の韓国もまた、歴史的事実をねじ曲げて竹島の領有権を主張して基地を持っているそうです。日本海には李承晩ラインという厄介な問題があります。このような四面楚歌の中で日本の政治家は何を考えているのでしょうか。

この原稿を書いている最中に消費税一括法案で十四年には八%、十五年には十%とする、同時に年金保険料は国税庁移管されるそうでが、こんな短期間でドンチャン騒ぎが可能でしょうか。

願わくは、今の日本の閉塞感を打ち破る、平成維新を志士たる人材を求めて止みません。

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