来る年を善き年とするために父母とご先祖の恩を

突然に空から落ちて来た訳でも無く、橋の下に捨てられていた訳でも無い。親の愛ほど純粋で尊いものは他に無い、親もまた同様に、祖父母も同様に、しかしながら、今日有ることに、父母やご先祖のかけがえのない無いご恩を忘れる。のみならず、今日ある事は、多くの人々のお世話や教えのご恩で生きておられる。年の瀬に当たり、有縁無縁の精霊の供養を丁重に行い、心静かに反省し、現在の自分の置かれている立場や環境が、どれだけ多くの人のご恩に依るものか考えてみたいものです。同時に、新年に当たり、今年一年の計画を立て、厄難少なく、み仏さまのご加護を祈る。予測されない国家の将来像、何が起きても不思議で無い現世で、せめて み佛さまのご加護を願わぬは 大胆過ぎる。願わくはご一緒に供養と祈願をして、平穏無事を願われるのはとても大切なことです。

 突然に空から落ちて来た訳でも無く、橋の下に捨てられていた訳でも無い。親の愛ほど純粋で尊いものは他に無い、親もまた同様に、祖父母も同様に、しかしながら、今日有ることに、父母やご先祖のかけがえのない無いご恩を忘れる。のみならず、今日ある事は、多くの人々のお世話や教えのご恩で生きておられる。年の瀬に当たり、有縁無縁の精霊の供養を丁重に行い、心静かに反省し、現在の自分の置かれている立場や環境が、どれだけ多くの人のご恩に依るものか考えてみたいものです。同時に、新年に当たり、今年一年の計画を立て、厄難少なく、み仏さまのご加護を祈る。予測されない国家の将来像、何が起きても不思議で無い現世で、せめて み佛さまのご加護を願わぬは 大胆過ぎる。願わくはご一緒に供養と祈願をして、平穏無事を願われるのはとても大切なことです。
 十二月は先祖供養とお世話になった方々の供養をなして、感謝の心をみ佛さまに示すのが、善き種を蒔き、来る年の平穏無事を願う年の瀬です。
 供養の第一は、得度してみ佛さまと正式にご縁を結ぶこと、十一月には二十の方々が得度してみ佛さまへの帰依を表明されました。慶賀にたえない喜びで御座いました。
 供養の第二は、寺院に有縁無縁の精霊供養を依頼して、喜捨することです。
 観音院ではご供養を依頼された方々に年中無休日々三座の供養を行い、そのご報告を毎月「観自在」という寺報でお知らせしています。お知らせの費用だけでも一年に約二千円、十年では二万円の印刷配達費用が必要です。
 こんなに真面目な寺が他に有りますか。供養と言うものは、し過ぎて過ぎることの無い皆さまの善行なのです。
 皆さまの善行、善き種を撒かれた事を善き因とするために日々精進すれば善き結果となり、善き縁が生じるのは自然の道理で、約二百名の弟子が観音院の僧侶として、協力して、皆さんの無事多幸を祈念している、これは美しき行為と称えられます。
 第三は、み佛さまの荘厳をし、み佛さまの教えが広まるよう協力することです。寄進や喜捨はみ佛さまの教えを広め、維持する大変な善行になります。
 皆さんの精神的、金銭的喜捨を受けるには、観音院は経理と運営を公開し、運営は信徒代表の評議員五十名と責任役員十名、教師代表七名、監事三名によってなされ、寺院を私物化する事が無いように世襲制を廃止し、公益法人の理想的な姿を実現しています。
 観音院は、法主のものでも住職のものでもありません。信徒さん一人ひとりの所属に帰します。
 信徒さんとは、観音院の維持運営に協力し、生活に十善戒を取り入れようとする人、全てです。氏名・住所を告げて一円の喜捨をした人でも観音院の所有者です。幾ら毎日参詣され賽銭箱に浄財を入れられても、氏名と住所を告げてお名前を登録されないと信徒としての資格は生じない。
 住所と氏名を告げても、ご奉仕が全く無い、ご喜捨皆無では、信徒の概念には入らない。
 観音院には檀家という概念は無い。檀家は徳川幕府がキリシタン狩りのために寺に戸籍を持たせた事から始まった悪い制度の名残りに過ぎない。家は宗教を持てない、人は全て自分が選んだ宗教を持てる、信教の自由が憲法で保障されています。
 観音院は、信教の自由の上に存在して今日がある。実は皆さんのご先祖も同じだ。善き僧侶に出会い、帰依して信徒と成られた。観音院の僧侶は善き僧侶を目指して努力している。
 僧侶で有りながら、寺院を住みかとなし、真面目に読経もしないようでは観音院の在家僧侶に劣る。
 僧侶は、寺院に住もうと、普通の家に住もうと、一人ひとりの僧侶次第で、観音院の僧侶養成講座は、自ら心の中に寺院を建立し、そこに光明を灯すことに重点を置いている。
 寺は入れ物に過ぎない、僧侶がいてみ佛さまが居られて、法が説かれていれば、その人が住んでいる場所は立派な寺院と言える。
 私は職業僧侶を養成する意志は毛頭無く、俗に寺に属している僧侶を超えた「聖[ひじり]」の養成が真の目的であり、かつ聖は自ら称するものでは無く、世間から衆望を得て、知らぬ間に世間が称してくれるものだ。

善行を徹底して積めば善き結果が
中途半端で善き結果を望むのは甘え

 私が祈願する時は、住職も祈願する時は、命懸けです。一寸祈願したくらいで願望成就なんて有り得ない話です。
 供養もまた同様で、命懸けの祈願や供養に拝んでもらって、お札(ふだ)を貰っただけでそれで良しとするなら、観音院は必要ないと思います。
 命懸けとは、生死を賭けるなんて考えられると間違いです。命懸けの供養や祈願に、道徳性に欠ける事や法律に反するようなことがあっては邪教であり、絶対に有ってはならないことです。
 命懸けとは、信徒さんに対する「思いやり」の深さを意味する言葉です。
 相手を思いやり、更に深く思いやり、その上に思いやる深い慈悲のことです。
 いたわりも同様、慈しむ心も同様、世間の人が仕事に熱中して、成果を上げて、振り返って見た時に「命懸けで遣り上げた」と思われるような、そのような拝み方を言います。
 当然に、捨身誓願の行になります。自分を捨てる覚悟で、供養祈願をなさずして、み佛さまの相手にして貰えないのです。霊力を育てるには、み佛さまの水準にまで自分の精神力を高めなければ、話にもなりません。
 宝くじが当たるのは偶然で確率の問題、一等当選祈願なんて絶対に祈ってはなりません。
 私が大変に強運であることは良く知られた事ですが、博才があると言う評判は大変に不本意な評価で、私は賭け事は嫌いですし、投機も好みません。
 商売人にすれば、大商人になったであろうなんて言われるのは、とんでもない妄想で、到底「商い」の出来るような素質はありません。
 たまたま、私と知り合い、人間関係に恵まれた信徒が多く、それは、その人が観音院に貢献され、供養や祈願をされた直後から運命が鮮明に転換したことから起きた評判でしょう。
 私と出会い、住職と出会い、弟子と出会い、運命が劇的に転換したことが多いのは事実です。観音院で供養し、祈願する事は、運命転換のきっかけとなり、過去の知ると知らざると犯したる罪障を清めて、再生の機会を得られたのだと思います。その結果、成功することが出来ても、思い上がると無残な失敗を見ることになります。
 何故ならば、それは、み佛さまのご加護によるもので、傲慢不遜になると佛罰が下されると言う事でしょうか。
 私は、み佛さまが佛罰を下される事は無いと確信していますが、ご本人が「思い上がり」により社会から排除された結果だろうと思います。
 折角、み佛さまのご加護で良い出会いに恵まれながら、世間に善人として引き立てられながら、世間さまのご恩を忘れて、躓くのだと思います。
 罪障の一切を清め、善人として再生されたのに、改めてまた罪障を積まれ、悪い種を蒔かれ、悪い芽が出れば悪い毒花が咲くのは自然の道理です。
 観音院の門を通ることは罪障を清める縁の始まりです。
 私の手を持つ事は、先祖代々、有縁無縁の一切の罪障を清められ、ご先祖が善き種を撒かれたと同様で、それを縁として、貴方に良い人間関係が生まれる運命転換の瞬間なのです。
 況や、観音院で先祖の有縁無縁の精霊の一切が清められ、俗に言われる親の因果が身に報いなんてことは一切無くなり、父母ご先祖の最大の供養になります。施主[貴方の事です]にとって良い将来が開ける第一歩になります。
 私はみ佛さまの荘厳にお金を惜しんだことはありません。お供え物は常に新鮮であり、お花も新鮮なものを供え、お香は純金より高価な伽羅を使用しています。み佛さまに対する敬虔な態度、信心は何処のお寺さんのどの僧侶より強烈だと自信をもっております。
 これは思い上がりでは有りません。み佛さまさまと会話が出来るほどに自己を高めれば、どなたでも可能です。「覚り」が無い僧侶は、僧侶とは言えないのです。悪い言葉で言えば檀家制度に寄生する塵芥的職業僧侶です。
■先祖の祟(たた)りを説く僧侶は、先祖の罪障を清める能力の無い僧侶の顔をした最低の俗物だと思います。脅されたら即座に観音院に相談にお越し下さい。低俗僧は怒る感情で最低です。
 不正を正し、注意し見守って上げる事は必要な親切ですが、曲がった事を直さない組織は見放す事が大切で、苦言、または助言は大変に大きな決断を要します。多くは自己を正当化し、あなたを嫌うのが普通だからです。
■自民党と民主党は和解と協力が必要です。両党が和解協力すれば更に立派な内閣が出来た事でしょう。我を張ることが、国民のために両党の在り方は間違っています。首相は直接選挙で選び、より指導制を持たせる必要があります。同じ目的で大同小異の両党が存在する意味はありません。一つになれば、無用の費用が節約出来ます。
■企業の合併吸収が進められ、郵政民営化が進められる中で、不必要な競争は必要ありません。小泉さんは最近、我を張り傲慢さが目に付きます。そのうちこけます。強運は謙虚さが基礎なのです。日本は互いに我を張る時代ではありません。一致結束が大事です。
■私も観音院も[良い運]を上げることが出来る僧侶組織です。知ると知らざると犯したる一切の罪障を消滅し、み佛さまのご加護の元、良い出会いに恵まれ、成功し、奢らず、謙虚に、常に周囲の恩、社会の恩を思いながら、成功を維持し、世のため人のために明るい灯明を掲げて下さい。

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