曹洞宗のお祖師さま

ご隠居
三月になると少しずつ暖かくなってきたね。十二日は東大寺の御水取が始まるし、十七日は彼岸の入りだ。
寅さん
ほんと、春のお彼岸ももうすぐですね。
ご隠居
きょうはひとつ、道元禅師(どうげんぜんじ)について話をしようか。
寅さん
道元禅師というお人は、たしか曹洞宗(そうとうしゅう)のお祖師(そし)さまで、永平寺をお開きになった方でしたね。
ご隠居
道元禅師は、今からちょうど八百年前の平治二(一二〇〇)年正月二日にお生まれになった。それがいつごろの時代か、分かりやすくいうと、鎌倉幕府の源頼朝が亡くなった翌年で、お父さんは内大臣の久我通親(こがみちちか)、お母さんは関白九条基房の娘伊子(いし)といわれ、道元禅師は貴族のなかでも最高の家柄の出だな。

寅さん
へえ、そんな良い家のお坊ちゃんが、どうして政治家でなく、お坊さまになったんです?
ご隠居
道元さんが八歳のとき、お母さんを失い、世の無常を感じられたため、と伝えられている。
昔、高貴といわれた出で、出家されたのは道元禅師お一人に限ったことではない。
念佛踊(ねんぶつおど)りで諸国をめぐられた浄土教の空也上人(くうやしょうにん・九〇三-九七二年)は、醍醐天皇の皇子とも仁明天皇のお孫さんともいわれているし、我が国最初の佛教的な史論書である愚管抄(ぐかんしょう)の著者で天台座主(ざす)でもあった慈円(じえん)さん(一一五五-一二二五年)のお父さんは関白藤原忠道、また、頓智(とんち)で有名な一休宗純さん(一三九四-一四八一年)は後小松天皇の皇子といわれ、いずれもやんごとなき生まれの方々だな。
寅さん
それで道元禅師はどんなお人だったのです?
ご隠居
道元少年は十三歳のとき比叡山にのぼり、翌年髪を剃って出家された。が、心の清らかな少年が見た当時の比叡山の印象は、かならずしも芳(かんば)しいものではなかったようだ。
失望した道元さんは山を下り、佛の正しい教えを求めて各地の寺を尋ね歩くが、終生の師とあおぐ人物にも、佛教について共に語れる善友にも巡り会うことができなかったという。
――中国大陸へ――
そこで道元さんは二十四歳のとき、真の佛道を求めて中国へ渡った。それでも彼の純粋なおもいを満たしてくれるような師に、なかなか出会うことはなかった。
実は、道元さんは比叡山での修行中、早くも佛教の根本に関する大きな疑問に突き当たっていたのだ。その疑問とは、人間は本来、佛性(ぶっしょう)のそなわったほとけである。もしそうであるならば、諸佛はこれまで、どうしてさらに発心(ほっしん)して修行し、始めて悟りを開くことをもとめたのだろうか・・。
自分も含めて、衆生がみな佛性を持っているのであるならば、なにも改めて悟りを求めて修行する必要などないではないか。道元さんはそんな疑問にぶつかり、ずっと頭を悩ましていたのだ。
そして解答を得られぬまま、もう帰国しようかと考えていた矢先のことだった。中国五山のひとつ天童山の如浄禅師(にょじょうぜんじ)と出会った。その師を知ったことで、彼がこれまで抱いていた佛教に対する疑問がいっぺんに氷解したという。
また、一説によると、天童寺付近の市場で、道元さんは一人の老いた典座(てんぞ・禅僧で、炊事などの世話をする役僧)を見かけた。そこで彼が、「そのお年で貴僧はなぜ、そんなつまらない食事の世話をしなければならないのですか?」と訊ねた。すると老典座は、いかにも満ち足りた顔で答えた。「これが私の修行なのです」
この言葉にふかく感じるところがあった道元さんは、如浄禅師に師事(しじ)することとなったともいわれている。
後に道元禅師は「典座教訓(てんぞきょうくん)」を著されて、食生活・典座(炊事)の重要さを教えておられる。この典座職は修行歴が長く、特に人望のある僧侶が選ばれ、尊敬されている。道元禅師は威儀即佛法(いぎそくぶっぽう)といわれ、日常の立ち居振る舞いや雑用といわれているもののすべてが佛法でないものはないといわれている。
「私は昼も夜も座禅した。凍てつく冬の夜のおりなど、病気になってしまうからと座禅をやめる僧もいたが、私は病気でもないのに修行をしなかったら、何のために中国に来たのか分からないので座禅に打ち込んだ」と『正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞうずいもんき)に書かれている。
このように道元禅師は、従来の留学僧が多くの佛典をみやげに帰国したのに反して、彼は何ひとつ持たず、ただ只管打坐(しかんたざ)という教えだけを身につけて日本へ帰ってきた。
寅さん
只管打坐?
ご隠居
ただひたすらに座ること、つまり座禅だ。
寅さん
なるほど。永平寺の厳しい修行の様子をテレビなどで見ると、あれはよほど強い心身の持ち主でないと、ちょっとついてゆけない感じがしますね。
――達磨大師さん――
ご隠居

道元禅師の曹洞宗には、そんな人を寄せつけないところがたしかにあるな。でも、そういう世俗離れしたところが、また禅宗の本質かもしれない。というのも曹洞宗は達磨大師の流れをくんでいるからだ。
寅さん
あの、だるまさん?
ご隠居
達磨大師(菩提達磨・禅宗の始祖)は五世紀ごろ、インドから中国へ行かれたが、九年間少林寺というお寺に隠遁(いんとん)して終日座禅(面壁座禅)ばかりしていたという。
それでもたまに、周囲の弟子たちには座禅の合間に、重い口をひらいて教えることはあったようだが、在家の男女に対しての説教とか講義などは一切しなかったそうだから、達磨大師を中心にした信仰集団ができた形跡は全くない。
達磨大師の考えは、要するに弟子たちのうち、座禅を通じて一人でも二人でも、本当の悟りの道に入ろうと心掛ける者があれば、それで十分に満足だったのだろう。
だから九年という長い年月、少林寺に起居したにもかかわらず、そのお弟子さんは、わずか十人足らずだったといわれている。
こんな禅思想を受け継ぐ道元禅師だから、各宗のお祖師様方が在家の信徒にほとけの教えを説くようなことは、一切なかったという。
曹洞宗のある先徳(せんとく)が言っているように、「吾宗に語句なし、一法の人に与うるなし」で、禅宗の成り立ちは、不立文字教化別伝(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん)なのだ。
――心身脱落――
寅さん
それは何のことで?
ご隠居
不立文字とは、文字や言葉によって教えを立てぬことで、また、教化別伝とは、経典や言葉によらず、暗示で心から心に悟らせる禅宗の奥義(おうぎ)だ。
道元禅師が中国から帰国したときの言葉に、「空手にして郷に還る、毫(ごう)も佛法なし」とあるが、これは日本の祖師方がそれぞれ佛教の経典を伝来し尽くされて、それによって各宗を開創されたのに対して、自分は佛法そのものを伝承して帰国した、という自覚が禅師にあったからだろう。
したがって曹洞宗には他宗ほどは込み入った体系的な読経も礼拝もなく、只管打坐を説いた。
「更ニ焼香礼拝念佛修懺(しゅさん)看経(かんきん)ヲモチイズ
タダシ打坐シテ心身脱落スルコトヲ得ヨ、モシ人一時ナリトモ身口意ニ佛印ヲ標シ三昧(さんまい)ニ端坐(たんざ)スルトキ遍法界(へんほっかい)ミナ佛印ナリ、尽虚空悉(じんこくうことごと)ク悟リトナル」と、宗門の正伝にあり、心身脱落の一句こそ、この宗旨の真髄といえるもので、これがつまり座禅のことだ。
こんな話も語り伝えられている。
ある夜のこと、天童寺の禅堂で座禅中、となりに座っていた僧が居眠りした。如浄和尚がすかさず叱咤(しった)した。「参禅ハスベカラク心身脱落ナルベシ。イタズラニ打睡シテ何ヲカ為(な)スニ堪エン」と。
この一声を聞いたとたんに、道元禅師は心身脱落した。彼はただちに方丈に上がって如浄和尚と対座し、「一生参学ノ大事ココニ畢(おわ)ッタ」と言ったそうだ。
そのとき如浄和尚とのやりとりは、次のようであったという。
道元禅師は和尚のところへ行って焼香礼拝した。すると如浄和尚は追及した。「焼香ノコト什麼生(ソモサン)」とな。
寅さん
そのソモサンとは、いったい何のことです? 禅問答によく登場するようですが。
ご隠居 ソモサンとは、いかに?と相手の意見をただす言葉だ。
この場合、お前はいま焼香したが、その焼香したお前は何であるか、と道元さんに問いただしたわけだ。道元禅師はただちに応じた「心身脱落シ来(た)ル」とな。
つまり道元禅師は、大死一番絶後再蘇したのだな。
寅さん
何です、それは?
ご隠居
道元さんは、生死(しょうじ)の迷いを克服したのち、ふたたびよみがえったというわけだ。
つまり、こういうことではないかな。「心身脱落」とは座禅のことでもあるから、ひたすらに打坐するとき、五欲・・財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡魔を離れて、五蓋(ごがい)—-貪欲、瞋恚、睡眠、死の悲しみ、猜疑と後悔を除き、さらに六蓋をも除く。
六蓋は、五蓋に無明蓋(煩悩・ぼんのう)を加えて六蓋という。したがってこの無明蓋さえ除くことができれば、五蓋を除いたこと
になる理屈だ。
反対に五蓋を離れることができたといっても、無明蓋を離れられなければ、とてものことに佛(ほとけ)のお側に近づいたとは言えない、というわけだ。
寅さん
で、道元禅師は座禅して心身脱落(しんじんだつらく)し、五欲と五蓋、六蓋を除き、生死(しょうじ)の問題を克服された
わけですか。
――正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)――
ご隠居
道元禅師の書かれた「正法眼蔵」九十五巻のうち、生死の巻に、「この生死は、すなわち佛の御いのちなり」とある。
佛法の根本は生死(しょうじ)の解脱(げだつ)であり生死即涅槃(ねはん)ということが、大乗佛教の根本とされている。
生死とはふつう、生きとし生けるものが生まれ変わり死に変わりしながら六道(地獄、餓鬼、畜生修羅、人間、天上)の迷界に輪廻することだと言われている。
私たち人間が、人間界に生まれてきて、死んでゆく。それだけでは、ただ生死、輪廻の大海の中に浮き沈みしているだけにすぎない。
したがって、そこには何ひとつ救いがなく、そこで浮沈する一切の衆生は皆苦ということになる。
私たち人間は、幸福と快楽を求めて毎日を過ごしているが、これは裏返して言えば、この世界に生きていること自体が苦であることの証拠といえないだろうか。
幸福を求め、福祉社会が求められるということは、とりもなおさず私たちが生きていることの根本が苦であるからであり、この世とそこに生きている人々の現実そのものが苦によって成り立っているからにほかならない。いじめ、受験、生存競争、老人問題、民族紛争、どれ一つとっても苦を伴わないものはない。
そこで道元禅師はこう説かれる「生死すなわち涅槃とこころえて生死としていとうことなく、したうことなき、このときはじめて佛のこころにいる」とな。
寅さん
それはどういう意味です、もう少し分かりやすくいうと。
ご隠居
「いとう」とは「厭い捨てんとする」ことであり厭離(おんり・汚れたこの世をきらって離れ去る)のことだ。「したう」とは慕い願う、つまり執着のことだ。
この厭離と執着は、人間の心の奥底に深く根をはやしている。
つまり誰でも生を願い死を厭う気持ちを持っている。それを道元禅師は、「いとうことなく、したうことなく」断ちなさい、と教えていらっしゃる。
寅さん
それで、人間の持つ厭離と執着を、どのようにすれば断つことができるんです?
ご隠居
それはこうだ。「ただし心をもてはかることなかれ、ことばもていうことなかれ」といましめられたうえで、唯一の可能性をお示しになる。
「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛のいえになげいれて佛のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、佛となる」とな。
寅さん
いよいよ難しい。
ご隠居
たしかに難解だな。でもこう解釈すればよいのではないか。
自分の身も心も、すべて佛様のいらっしゃる家に預かってもらい佛様にぜんぶお任せしながら、佛様がおこなわれることに、素直に従って行けば、佛様のように生死を離れることができる、と。
もうひとつ、道元禅師は生死に関することで、こうもおっしゃっている。それは、「生より死に移るとこころえるは、これあやまりなり。生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり」と。
つまり、人は生から死に移動するのではなく、生も死も、いっときそこに止まっている場所でしかない、と。
そして道元禅師は「生死」の巻の最後を、こう結ばれている。「佛となるに いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために あわれみふかくして、かみ(上)をうやまい、しも(下)をあわれみ、よろずをいとうこころなく、ねがうこころなく、心におもうことなく、うれうることなき、これを佛となづく」とな。
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