新年の誓い

皆さま、あけましておめでとうございます。今年一年も、皆さまの無事健康、所願成就を一心に祈念して、観音院の職員一同、精進していきたい所存です。
 さて、年明けはさまざまな行事が目白押しで、多忙に過ごされている方もいらっしゃると思います。最近は、海外や保養地などで優雅な休暇を送っている方も多いと聞いていますが、盆と暮れ(正月)には里帰りをして、親孝行や墓参りをし、ご先祖様への感謝の意をあらわしてみるのもいいのではないでしょうか。

 よく、初夢に見ると縁起がいいものとして、一富士、二鷹、三茄子とあります。無事、高い、事を成す、といった掛けことばであるという説もありますが、残念ながら、私は未だに見たことがありません。
 昔から、初夢に限らず、良い夢を見たいと思ったときは、七福神の乗った宝船の絵に「永き世の遠の眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな(ながきよのとおのねぶりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな)」という回文(かいぶん:上から読んでも下から読んでも同じ読みである言葉遊びのひとつ)を、枕元に入れて寝るといいといわれています。

 七福神とは、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁才天(べんざいてん)、恵比須(えびす)、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)、布袋(ほてい)の七柱の福の神のことです。
 天とは、天部に位置する諸尊につけられる呼称でもあり、元来はヒンドゥー教やバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、如来や菩薩、仏法を守護する神とされました。
 大黒天は、自在天(じざいてん)とも呼ばれ、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身で、戦闘の神として崇められました。また、堂舎食厨の神とされ、寺院の台所に祭られています。一面二臂(いちめんにひ:一つの顔と二つの腕を持つ)で青黒色の肌、忿怒の相という、不動明王と似た様相でしたが、室町時代の頃から、日本の神道の大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合して、微笑して米俵の上に立つ姿に変わり、民間で信仰されていきました。
 毘沙門天は、仏教の守護神である四天王のうちで最も由緒正しい神とされます。元来は、ヒンドゥー教の財宝の神であるクベーラ神で、別名で多聞天(たもんてん)ともいわれ、単独で施財の神として祭られました。
 弁才天は、水の女神とされ後に学問や芸術の守護神として崇められました。白衣をまとい、白蓮華の上で琵琶を弾く姿から、音楽の神としても知られています。
 恵比須は、海の彼方よりやってくる外来の神といわれています。釣竿やタイを抱える姿で表現され、漁業の神として知られています。大抵は、大黒天と一対で福神として祭られています。
 福禄寿は、中国の道教の神、南極老人星(カノープス)の化身とされます。顔が長く、白く長い髭をはやし、鶴を伴っている姿をしています。
 寿老人は、道教の神で、長寿の神とされ、鹿を伴った姿をしています。福禄寿と同一神であるとする説もあります。
 布袋は、唐末の五大後梁時代(十世紀初頭頃)に実在した禅僧で、名を契此(けいし)、号を長汀子(ちょうていし)といいました。福々しい顔で、大きなお腹で、布の袋を背負って諸国を旅し、布袋の行くところには幸運がもたらされると信仰されていました。また、弥勒菩薩の化身であるとされています。

 正月の三箇日、多くの参拝者が寺社を訪れ、ニュースでもその模様が紹介されていますが、真言宗にとっても、後七日御修法(ごしちにちみしほ)といわれる大事な行事が行われます。
 後七日御修法は、宮中で元旦から七日まで、神式による祈祷が行われていた宮中節会(きゅうちゅうせちえ)に対して、その後の八日から十四日までの七日間、密教式の祈祷を行うように弘法大師空海が朝廷に申し出たことから始まりました。当時は、お大師さま自らが導師として、宮中の真言院で、国の安寧を願い祈祷を行っていたそうです。明治時代の廃仏毀釈で中断されましたが、後に再興され、現在も東寺の灌頂院で行われています。
 観音院では、法主さま、院主さまの元気が出る法要を年明けより行っています。皆さまも参拝され、元気をいただいてお帰りください。

 一年の計は元旦にありとされます。これを機に、菩薩心を持って新年の誓いをたててみてはいかがでしょうか。
 菩薩は、本来は仏となることができる立場にあるのですが、すべての人々が覚りを得ることができるようにこの世に留まり、衆生を導く誓願をたてたとされます。
 学問や研究をする際にも、商売をする際にも、自分の成功を願う自利を思うより、世の中の多くの人のためになろうとする利他の心を持って生きていく方が幸せではないでしょうか。
 目先の利益のみを追うことを小欲といいますが、これは往々にして他人を不幸にすることがあります。小欲には際限は無く、いくら稼いでも、満たされることの無い虚無感に苛まれることでしょう。
 一方、他人のために何かをしてあげたいという欲望は大欲と呼ばれます。小欲に比べ、大欲は些細なことでも満足感を得られます。電車でお年寄りに席を譲ったり、ボランティア活動をしたりと、行為を受ける側だけではなく施す側も幸せな気分になれます。大欲は、仏教者の心得ともいえるでしょう。
 世界で今もなお続けられている戦争も、小欲の象徴ではないでしょうか。皆が菩薩のような精神で生きていけば、自ずと争いも無くなっていくことでしょう。
 新年から、仕事の内容は同じでも、これは皆の幸せのためにやっているのだという気持ちで行えば、これまでとは違った充足感を得られることでしょう。仏さまは我々の心の中にいらして、あたたかく見守ってくださっています。
 もしも、自身の中の菩薩を見失い、迷いそうになったときは、観音院に参拝して仏様に手を合わしてください。そして、職員に相談してみてください。皆さまの心に灯明をともすお手伝いをし、穏やかで平和な暮らしができるよう

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