慈雲尊者のこと

 —-「コノ「邪見(じゃけん)」、数多ケレドモ、要ヲ取ッテ言エバ、「断常(だん・じょう)」ノ「二見(にけん)」ニ過ギヌ。「断見(だんけん)」ニ、イロイロアレドモ、マヅ、善ヲ為(な)シテ、善ノ報(むくい)ナク、悪ヲ為シテ、悪ノ報ナク、神トイウモノ、仏トイウモノ、今現ニ見ルベキナラネバ、コレモナキコトト思イ定ムルヲ、断見(因果応報を認めない誤った考え)ト言フ。「常見(じょうけん)モ、種種ナレドモ、シバラク人ハ常ニ人トナリ、畜ハ常ニ畜トナル。人ノ畜生トナルベキ理ナク、畜生蟲蟻ノ類ガ人トナルベキ理モナシト思ヒ定ムルヲ、常見ト言フ・・」
ご隠居  これは慈雲尊者(一七一八ー一八〇四・江戸中期の真言宗の僧、正法律を提唱され、悉曇学を研究された)が、お説きになった「十善法語」の一節で、ここでは邪見というものを、断見常見の二見に例をとって、具体的に説かれているくだりの箇所だ。
寅さん  邪見というのは?
ご隠居  そう、十善戒の最後におかれている不邪見戒のことだ。  邪見は五見(有身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見)のうちの一つで、この断・常の二見のように根底から間違っている見解のことを、一般的に邪見だとされる。
 邪見について智度論(ちどろん・大智度論)は、「世間の種々の邪見の羅網(らもう・あみの事)は、乱糸の相付くが如し」としているように、いったん誤った想念(そうねん)が頭のなかに、まといついてしまったら、迷いの世間から抜けだすことができないから、網にたとえて「邪見の網」とか「悪見の網」ともいうそうだ。
 話を最初にもどすが、慈雲尊者は「十善法語」のなかで、次のように邪見をお説きになっている。
 —-邪見のよってきたる原因はさまざまであるが、邪見を造成する根本の原因を、とことん糺(ただ)してゆけば、結局のところ、断・常の二見にすぎぬのではないだろうか。
 「断見」にもいろいろある。
 まず、日頃より善行を心掛けているし、その善行をいくら積んでみても、いっこうに善行の見返りといったものが無く、反対に、やりたい放題、悪業(あくごう)の数々をかさねたとしてもその悪業のしっぺ返しの報いもない。
 また、いずれかに、おあしますとされる畏き神様、仏様も、その尊いお姿を、うかがい知ることはできないし、だれ一人これまではっきりと見たものはないので、そのようなものは存在しないと、あたまから決めてかかる、そういった考え方を断見という。
 「常見」にもいろいろある。
 まず、人は人間として生まれてきたかぎり、いついかなることがあろうとも人間であり、動物として生まれてくれば、どこまでいっても動物以外に生を受けることはない。
 人間が動物として生まれ変わるはずがなく、また、動物や昆虫のたぐいが、人間として生まれてくる道理もない、と思い込んでしまう、これを常見という。—-人は生々世々人に非ず
ご隠居  断・常の二見とは何か?
 この断常二見をもう少し説明すると、以下のような考え方だとされる。
 すなわち断見とは、己れの心身、つまり、人生というものは生きている間だけのものであって、過去も未来もなく、身体が滅すれば、肉体はもとより精神も共に天地の気に帰してしまうものである、と考えることを断見だとする。
 そして常見というのは、一切のものは、時々刻々、転変し、生滅して定まりのない諸法(存在)であることを知らず、あるいは知ろうとせず、ただ眼前の事物や己れのことにのみ執着して、過去世のことも未来世のことも、まるきり意に介さない、そのような考えを常見という。
 けれども正因正果、つまり因果(いんが)の法というものは、人は次々に生じ、次々に滅し、生滅相続して刹那(せつな)も断続することなく、善悪の業(ごう)にしたがって、六道のいずれかへ生を受けるものであるから、人は必ずしも人であるとはかぎらず、もちろん動物とてその例外ではありえない、とされる。
 といったわけで、慈雲尊者は、さらにつづけてお説きになる。
「—-正知見トイフハ甚深ナレドモ、シバラク、カウジャ。仏菩薩モ世ニマシマス、賢人聖者モ有ルベク、神祇(じんぎ)モ目ニコソ見エネ有ルベク、善ヲ作セバ決定(けつじょう)ソノ報有リ、悪ヲ作セバ決定ソノ報有リト、信ズレバ、此ノ戒(この戒とは不邪見戒のこと)ハ全キジャ。此ノ邪見ノ罪軽カラヌ理ハ、マヅコレヲ憶念(おくねん)セヨ—-」
十善法語ができた背景
寅さん  確認のために伺いますが、この慈雲尊者という人の「十善法語」というのは、私たちもよく知っているあの十善戒に関する話のことですね?
ご隠居  それはこうだ。「諸法(しょほう)は皆これ因縁(いんねん)より生ず。因縁より生ずるが故に、自性(じしょう)無し。自性無きが故に去来(きょらい)無し。去来無きが故に所得(しょとく)無し。所得無きが故に畢竟(ひっきょう)空なり。
 畢竟空なるが故に、是を、般若波羅蜜と名づく。南無一切三宝、無量広大なる阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を発せん」とな。
寅さん  その言わんとしている意味をかいつまんで解釈すると、どういうことです?
ご隠居  ご明察。この「十善法語」は、大乗・小乗、顕教・密教の諸戒、さらには、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学を束ねたものといってもよいであろう。十善戒とは、十善業道のことで、業(ごう・単に意志による心身の活動行為の意味)のはたらく場所となるものを業道(ごうどう)といい、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、無貪、無瞋、正見、の十を十善道という。
 これに対し、殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪、瞋、邪見を十悪道という。
 江戸時代、戒律というと多くは小乗仏教の説くところであって、大乗仏教、特に日本において発達した大乗仏教では、戒律はきわめて低いものとみなされてきた。
 しかし慈雲尊者は、小乗といえども、仏説として大乗とひとしく尊び、そして戒・定・慧(かい・じょう・え)の「三学(さんがく)」ともに修めなければ、仏の精神を真にとらえることはできない、とお考えになったわけだ。「十善法語」の冒頭にこうある。
「人ノ人タル道ハ、此ノ十善ニ在ルジャ、人タル道ヲ全クシテ賢聖ノ地位ニモ到ルベク、高ク仏果ヲモ期スベキト云フコトジャ・・」。
寅さん  それにしても「十善法語」というのは、「在るじゃ」とか、「云うことじゃ」などといった、生の話し言葉で諄々(じゅんじゅん)と説かれているようですが、それは何故なんです? 何かわけがあるようですが。
ご隠居  うん、それはこの書物の成り立ちに秘密があるようだ。「十善法語」が一冊の書物として誕生する機縁というのは、慈雲尊者の尼弟子ら数名によってであるといわれている。
 その尼弟子らは、おそらく公家の子女か、それとも京都御所の官女ででもあったか、いずれにしても、そういった人たちの人間関係によって、いつしか桃園天皇の皇后とそのご生母が慈雲尊者に帰依(きえ)せられ、これらの人々の発願(ほつがん)によって「十善法語」ができたという。
 当時、慈雲尊者は京都の西京、阿弥陀寺に在住しておられ、齢五十六歳であったというから西暦でいうと一七七〇年代頃のことだ。
 慈雲尊者は毎日、一人の篤信者を前に座らせ、あたかも法話を説き聞かせるごとく、十善戒の戒相や護持(ごじ)の心得といったものを口述筆記させていった。
 このようにして完成したのがこの「十善法語」だ。それを慈雲尊者の高弟、護明、法護、諦濡という三人が補筆整理し、さらに尊者ご自身がきわめて細心に推敲(すいこう)を重ねたすえに、まとめあげたものだという。
 このような編集過程一つみてもこの「十善法語」が、慈雲尊者の生き生きとした語り口や息づかいを大切に保存しようとして、あえて口語体と漢文を使用した事情がよく分かるだろう。
邪見の克服
ご隠居  話が横道にそれたが、「十善法語」に戻ろう
寅さん  正知見トイフハ甚深ナレドモ・・のところからです。
ご隠居  正知見(しょうちけん・解脱(げだつ)したことを自分自身、顧みて確認すること)というのは、奥深くて難しいから、とりあえずはこう考えなさい。
 仏・菩薩も、賢人、聖者も、そしてもちろん目には見えないが、天の神、地の神も存在する。
 だから仏の教えを心に固く信じて善行をすれば、その報いが必ずあるし、悪業をすればその報いがある。
 このように信じれば、不邪見戒を全うすることができる。この邪見の罪は軽くないから、以上のことを、まず思うことだとな。
「—-通途オシナベテノ者ヲ凡夫ト云フ。凡ハ凡庸(ぼんよう)ノ義ニテ、世ノツネト云フコトジャ。夫ハ、士夫ニテ男子ノ通目、ナミナミノ者ト云フコトジャ。コノ凡夫ガ人間界ニ在ル、生レシ朝ヨリ死ヌル夕ベマデ、カウジャ。此ノ身有リ、此ノ鼻孔、耳聞、口門有リ、世界ニ識有リ、声有リ、香有リ、味有リ、男子女人アリ、貴賤尊卑アリ、苦楽憂喜アッテ、皆心ニ適フト適ハヌト差別ス。
 心ニ適フ境界ニ、貪欲ヲ生ジ、心ニ適ハヌ境ニ、瞋恚ヲ生ズ。又、斯ク形ガ別々ニ見エ分レテ有レバ、此レト彼ト相対シテ、人ニ勝リタシト思フ。
左伝(さでん)ニモ血気有ル者ハ、必ズ相争フトアリ。コレラヲ貪欲、瞋恚、愚痴、驕慢等ト名ヅク。コレガ誰レ教フルコトヲ待タズシテ、生レシヨリ、コノ心身ニツキソヒタル煩悩ナレバ、倶生ノ惑(わく)ト云フ。コノ煩悩ガ、人間、天上等ノ生死輪廻トナル。浅間(あさま)シキコトナレドモ、一切凡夫ノ当リマヘナレバ、悪趣(あくしゅ)ニハ堕(だ)セヌト云フコトジャ・・
寅さん ? ・・ははぁ。
ご隠居  つまり、こうじゃ。
 一般的にいって、たいがいの人間というのは凡夫といってよいだろう。つまり、どこにでもいる平凡きわまる並みの者ということだ。
 そういった人間が、世間の大半を占めていて、生まれては死に、生まれては死ぬことを繰り返している。
 こういったごく普通の凡夫もひとしなみ肉体を有し、鼻も耳も口など五感を有している。そして、この世間は時代時代の考え、風潮のようなものがあり、その時代のかもし出す声やにおいや雰囲気、さらに男と女の性差がある。士農工商という身分階級もある。喜びも苦労もあって、とりあえず今の境涯に満足する者がいるかと思うと、不満たらたらの者もいる。
 なに不自由なく自足していればそれで満足すればよいはずのものだが、さらに欲を起こし、意にそわねば見境もなく怒る。
 このように人それぞれ、環境や生きざまが異なっているようであるが、それでもこちらとあちら、彼我を比較して、できるだけ相手に勝りたいと思う。
 春秋左氏伝にも血気盛んな人間は必ず相争うといっている。なぜ争わなければならないのか・・。
 つまり、人間が有する欲深さ、憎しみ、愚かさ、おごりたかぶりのせいである。
 こういったものは、誰が教えたわけでもなく、生まれてきたときから、すでにこの心身に付属した煩悩であるから、これを倶生(くしょう)の惑という。そしてこの煩悩こそが人間、天上などの生死の輪廻となるのである。
 だけれども、安心するがよい。大方の凡夫は、当たり前の人生を送りさえすれば、まず悪趣(死後におちてゆく苦悩の世界)には堕ちぬだろう、というのだな—-。
分別起(ふんべつき)の惑(わく)
「・・生レシ後、成長シ、智恵ツキタル時、或ハ、邪教師ニ従ッテ其法ヲ受ク、或ハ、自ラ邪思惟分別シテ断常ノ二見ヲ起シ、甚シキハ、殺生偸盗等ニ怖レナキヤウニナル、父母師僧(しそう)ノ教ニ違背スルヤウニモナル 神祇ヲモ畏レヌヤウニナル、聖賢徳者ヲモ蔑ロニスルヤウニナル 因果ヲモ信ゼヌヤウニナル、義理ヲモ廃スルヤウニナル。
 是ハ生レシママノ凡夫分際ヨリハ一段長ゼシ煩悩ナルニ因ッテ、コレヲ分別起ノ惑ト云フ。此類ノ者ガ悪趣ニ堕スト云フコトジャ。此ノ倶生ノ惑、分別起ノ惑ノ差別アルコトヲ憶念スレバ、実ニ邪見ノ怖ルベキコトヲ知ルジャ。近クハ天命人道ニ順ジ、遠クハ法性ニ順ジテ此ノ邪見ヲ遠離スルガ今日説ク所ノ戒相ジャ・・」
 ・・ おいおい成長して、やがて大人になったとき、邪教の師についてその悪影響を受けたり、あるいは、自らよこしまな考えにとり憑(つ)かれて、断常の二見を起こし、それが高じて極端な者は、殺生や盗みなどなんとも思わぬようになる。
 親の意見や師僧の教えにも背くようになる。聖人賢者をもないがしろにすれば、天地の神々さえも畏怖(いふ)しないようになる。 世の中の道理も道徳もまったく無視して、因果など、あたまから信じない。こういうのは本来の並の凡夫の程度より、もう一段階上の厄介な煩悩であるから、これを分別起(ふんべつき)の惑という。
 まず、このような種類の人間が悪趣(あくしゅ)に堕ちる。
 かくのごとく倶生の惑と、分別起の惑との相違を考えれば、邪見というものが、どれほど怖いものかが実感できるであろう。
 では、この邪見をどのようにすれば遠ざけられるのか。
 とりあえずは、人間として履み行なうべき道をまもること、さらに理想をいえば、仏の悟りそのものにしたがって、そういった邪見を寄せつけないようにすること、これが今日説いたところの戒めである—–。
ご隠居  話が横道にそれたが、「十善法語」に戻ろう
寅さん  正知見トイフハ甚深ナレドモ・・のところからです。
ご隠居  正知見(しょうちけん・解脱(げだつ)したことを自分自身、顧みて確認すること)というのは、奥深くて難しいから、とりあえずはこう考えなさい。
 仏・菩薩も、賢人、聖者も、そしてもちろん目には見えないが、天の神、地の神も存在する。
 だから仏の教えを心に固く信じて善行をすれば、その報いが必ずあるし、悪業をすればその報いがある。
 このように信じれば、不邪見戒を全うすることができる。この邪見の罪は軽くないから、以上のことを、まず思うことだとな。
「—-通途オシナベテノ者ヲ凡夫ト云フ。凡ハ凡庸(ぼんよう)ノ義ニテ、世ノツネト云フコトジャ。夫ハ、士夫ニテ男子ノ通目、ナミナミノ者ト云フコトジャ。コノ凡夫ガ人間界ニ在ル、生レシ朝ヨリ死ヌル夕ベマデ、カウジャ。此ノ身有リ、此ノ鼻孔、耳聞、口門有リ、世界ニ識有リ、声有リ、香有リ、味有リ、男子女人アリ、貴賤尊卑アリ、苦楽憂喜アッテ、皆心ニ適フト適ハヌト差別ス。
 心ニ適フ境界ニ、貪欲ヲ生ジ、心ニ適ハヌ境ニ、瞋恚ヲ生ズ。又、斯ク形ガ別々ニ見エ分レテ有レバ、此レト彼ト相対シテ、人ニ勝リタシト思フ。
左伝(さでん)ニモ血気有ル者ハ、必ズ相争フトアリ。コレラヲ貪欲、瞋恚、愚痴、驕慢等ト名ヅク。コレガ誰レ教フルコトヲ待タズシテ、生レシヨリ、コノ心身ニツキソヒタル煩悩ナレバ、倶生ノ惑(わく)ト云フ。コノ煩悩ガ、人間、天上等ノ生死輪廻トナル。浅間(あさま)シキコトナレドモ、一切凡夫ノ当リマヘナレバ、悪趣(あくしゅ)ニハ堕(だ)セヌト云フコトジャ・・
寅さん ? ・・ははぁ。
ご隠居  つまり、こうじゃ。
 一般的にいって、たいがいの人間というのは凡夫といってよいだろう。つまり、どこにでもいる平凡きわまる並みの者ということだ。
 そういった人間が、世間の大半を占めていて、生まれては死に、生まれては死ぬことを繰り返している。
 こういったごく普通の凡夫もひとしなみ肉体を有し、鼻も耳も口など五感を有している。そして、この世間は時代時代の考え、風潮のようなものがあり、その時代のかもし出す声やにおいや雰囲気、さらに男と女の性差がある。士農工商という身分階級もある。喜びも苦労もあって、とりあえず今の境涯に満足する者がいるかと思うと、不満たらたらの者もいる。
 なに不自由なく自足していればそれで満足すればよいはずのものだが、さらに欲を起こし、意にそわねば見境もなく怒る。
 このように人それぞれ、環境や生きざまが異なっているようであるが、それでもこちらとあちら、彼我を比較して、できるだけ相手に勝りたいと思う。
 春秋左氏伝にも血気盛んな人間は必ず相争うといっている。なぜ争わなければならないのか・・。
 つまり、人間が有する欲深さ、憎しみ、愚かさ、おごりたかぶりのせいである。
 こういったものは、誰が教えたわけでもなく、生まれてきたときから、すでにこの心身に付属した煩悩であるから、これを倶生(くしょう)の惑という。そしてこの煩悩こそが人間、天上などの生死の輪廻となるのである。
 だけれども、安心するがよい。大方の凡夫は、当たり前の人生を送りさえすれば、まず悪趣(死後におちてゆく苦悩の世界)には堕ちぬだろう、というのだな—-。
分別起(ふんべつき)の惑(わく)
 「・・生レシ後、成長シ、智恵ツキタル時、或ハ、邪教師ニ従ッテ其法ヲ受ク、或ハ、自ラ邪思惟分別シテ断常ノ二見ヲ起シ、甚シキハ、殺生偸盗等ニ怖レナキヤウニナル、父母師僧(しそう)ノ教ニ違背スルヤウニモナル 神祇ヲモ畏レヌヤウニナル、聖賢徳者ヲモ蔑ロニスルヤウニナル 因果ヲモ信ゼヌヤウニナル、義理ヲモ廃スルヤウニナル。
 是ハ生レシママノ凡夫分際ヨリハ一段長ゼシ煩悩ナルニ因ッテ、コレヲ分別起ノ惑ト云フ。此類ノ者ガ悪趣ニ堕スト云フコトジャ。此ノ倶生ノ惑、分別起ノ惑ノ差別アルコトヲ憶念スレバ、実ニ邪見ノ怖ルベキコトヲ知ルジャ。近クハ天命人道ニ順ジ、遠クハ法性ニ順ジテ此ノ邪見ヲ遠離スルガ今日説ク所ノ戒相ジャ・・」
 ・・ おいおい成長して、やがて大人になったとき、邪教の師についてその悪影響を受けたり、あるいは、自らよこしまな考えにとり憑(つ)かれて、断常の二見を起こし、それが高じて極端な者は、殺生や盗みなどなんとも思わぬようになる。
 親の意見や師僧の教えにも背くようになる。聖人賢者をもないがしろにすれば、天地の神々さえも畏怖(いふ)しないようになる。 世の中の道理も道徳もまったく無視して、因果など、あたまから信じない。こういうのは本来の並の凡夫の程度より、もう一段階上の厄介な煩悩であるから、これを分別起(ふんべつき)の惑という。
 まず、このような種類の人間が悪趣(あくしゅ)に堕ちる。
 かくのごとく倶生の惑と、分別起の惑との相違を考えれば、邪見というものが、どれほど怖いものかが実感できるであろう。
 では、この邪見をどのようにすれば遠ざけられるのか。
 とりあえずは、人間として履み行なうべき道をまもること、さらに理想をいえば、仏の悟りそのものにしたがって、そういった邪見を寄せつけないようにすること、これが今日説いたところの戒めである—–。。
ご隠居  この「十善法語」を評して大内青巒(せいらん)居士(こじ)という方は「宗派の臭気つゆばかりもなく、直ちに仏法を丸はだかにして見る心地なり・・」といい、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜と明治天皇に近侍(きんじ)した山岡鉄舟は、慈雲尊者を「今釈迦」と讃えた、という。

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