愛別離苦も怨憎会苦も考え方次第

愛する人と別れる、役に立つ人が他所へ行く、嫌な人に会わなくてはならない、四苦八苦するのが普通ですが、ものは考えようで、苦しみから解脱することも出来ます。生きている人は必ず老いて、そして死に別かれるものです。そう思えば納得が出来ますね。ですが、嫌な人、憎しみをもっている人と会わなくてはならない、これも考え方次第で、自分の場所を変えれば避けれる苦しみ、多くの苦しみは現在に執着することから生まれているようです。鈴之僧正さまのお話を要約。田川純照 記

大概の苦痛は考え方次第 借金苦は相手があるので大変

四苦八苦とは生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合せたもので人生の苦の代表的なものです。

生が何故に苦なのか、僧侶の立場を別にすると良く理解出来ません。老は現在体験中ですが、知り合いに死なれるのは淋しいこと、手足や頭脳の劣化は私も周囲も納得ずみ、美味しいものが沢山は食べれないけど不満は無い。夜寝る前は今日一日に感謝し、朝目が覚めると生きていたことに感謝することも無く一日が始まります。

病苦は四十肩も五十肩も知らずに済んで幸せ、これには現代医学のお陰もあって良い医者と薬に恵まれました。視力や消化力、聴力の劣化も不自由を感じない程度。

痛いことと言えば骨折とか、多少の怪我、虫歯の痛みは抜歯で大体治まりました。これまであまり辛い思いはしていないのです。

生きると言うことで面倒なことは人間関係ですね。親は選べないし、子供も思うようにはならないもので、このようなことは苦痛の中に入れてはいけません。

大人になって、信心の無い人と向上心の無い人との付き合いは多少苦痛でした。共通する話題が無いし、一緒に目標を立てることも出来ない。明確に言えば勉強する人が好きです、御佛様を良く拝む人が信頼出来ます。

過去のことは話したく無いですね、過去を語れば他人を傷つけるのみならず、私も傷つきます。でまあ、現在六十七歳と少しだが、将来を語る、これも問題がありますね。明日をもしれない生身ですから、慎みましょう。

六十七年間で迷惑を掛けた人も有ると思います。私はむしろご恩と受け止めていて、報恩感謝の祈りを捧げたいと願っています。

ご霊験のおかげ話 私の体験で話ます

    

中学生のころ、師匠の寺に住み込みで下働きをしていた頃の古い話で恐縮ですが、一話。

師匠の師匠寺に手伝いに行かされまして、日の暮れがかり、山から麓に降りることになりました。みるみる内に日が暮れて、驟雨となりました、周囲は真っ暗闇、山道の側には谷川があって、ごうごうと音を立てて水が流れます。真っ暗闇になると自分の手も見えません。進退窮まって立ち往生といったところでした。階段の場所では手で確かめ、曲がり道では四つ這いになって、少しづつ進む、怖い思いでした。

その時に足元が蛍光のような光で幽かに照らし出され、先方にお坊さまが歩いておられる、阿弥陀傘を被って、錫杖(しゃくじょう)を持たれ、杖の頭部の鐶の鳴る音まで聞こえてくるのです。黒い衣の袖が揺れているのまで見えました。修行大師のお像が歩いておられるように思いました。夢中で後を追って、麓に辿り着いて、町の街灯の明かりが見えるようになって、ふっと安心しますと、お坊さんの姿は見当たりません。幻影、幻覚、幻視と疑う以前に有り難く思いました。

このような体験をすると、その後の人生観が一変するものです。私の先代は常に私の無事を願っていてくれましたので、このようなご加護があったものと思います。

その後も極めて合理的に物事を考える私自身が説明出来ないような有り難いご加護が沢山ありました。俗に言われる七難八苦を避けることが出来ました。死んで当然生きていたのが不思議と言うようなことも何度かありました。

その都度、真っ暗闇を導いて下さった墨染めの衣を着られて道案内をして下さったお坊さんのお導きがあるように思われます。

不老不死では困ったことで子供はいない 何でも思うようにしてはならないと悟ること

生老病死は四苦の代表的なものですが、医学が発達して人間が死なないようになると子供も生まれなくなります。孫の顔が見たいなら適当な時に去るのが善いです。

病む人が居なくなれば医者も病院も不必要、嫌な人も苛めた人も適当に病気になって死ぬのを待つと言う穏当な解決が出来なくなる。

皆さんが公序良俗を守り、法律を遵守すると警察も裁判所も検事さんも判事さんも不用になり、刑務所も不要と言うことになると、大学の法学部も無くなるかもしれない、沢山の人が不必要になる、宗教も無くなるでしょう。

世の中が成り立つためには、善人も悪人も欠かせないようです。愛している人が死んだり、逃げたり、行方不明になると誰でも苦痛です。出会った人には必ず別離の時が来ます。去るものを追わず来るものを拒まず、観音院の基本方針ですが、その時々の人を大切にして執着しないと苦痛が激減するようです。愛別離苦はこのようにして解脱して下さい。死んだ人に取り縋って泣き崩れることは、亡くなった人の後ろ髪を引っ張るようなものです。お気持ちは理解出来ますが、速やかな往生を願うためには、三宝を大切に供養するのが一番大切なことです。

怨んだり憎んでいる人と一緒に仕事をしたり、況や家族や兄弟が啀(いが)み合うような事態になると残酷無慈悲なことになります。

これは、思い切って一切の怨み憎みを水に流す、許す、忘れる、時間が経つのを待つ方法で逃れることが出来ます。但し、相手のあ ることですから、特に借金をしている場合は破産しても心情的な怨憎は残る場合が多いようです。他人を傷つけていて怨憎が自分に向けられていて、同一の家族とか職場であると、その人の怨憎を解く努力が必要で、どうしても許されない場合は自分が怨憎の人から見えないよう場所替えが必要です。長い目で見ると怨憎を受け止めて上げる方が正しいと思います。

近親憎悪は雑草のように永遠に生え続けるのでしょうか。

求不得苦は周囲と比較さえしなければ何でも得られる世の中で多くを求めず、必要最小限で満足すれば気分は楽です。欲しいものは優れた配偶者とか、地位、名誉など幾らでもあり、現在の自分が多くの人に支えられて生きていることに感謝すれば良いのですが、起きて半畳、寝て一畳の境地にはなり難しですね。善事に執着することは悪事をなすよりも尚悪しという場合もありますのでご注意を。

立派な人になろうと願ってもなかなか思うようになれない。向上心は求不得苦ではありませんから安心して努力して下さい。貯蓄も同様です。宝くじや競輪競馬競艇は求不得苦を実感させるものなのですが、嵌ると抜けられない。酒煙草の嗜好をもつ人が禁酒禁煙をを成功出来た場合、これは求不得苦の一つを解脱したことに。

四苦八苦から解脱するためには手の届く範囲に目標を置き、正直に誠実に、約束を守りながら、無理をしないよう、見栄を張らず、周囲の人の立場で考えておれば先ず解脱出来るでしょう。

五陰盛苦の陰は「蘊」のことで梵語(skandha)集合体の意味で、現象界の存在の五種の原理。色・受・想・行・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色は物質および肉体、受は感受作用、想は表象作用、行は意志・記憶など、識は認識作用・意識のことです。一切存在は五蘊から成り立っており、それ故、無常・無我であると説かれています。

これは難しい考え方で「生きて行くことは辛いなあ」ということですから、四苦八苦の纏めみたいなもので、十善戒を守り、八正道を歩めば解脱出来ます。

但し、この世を穢土(えど)とみなして、確かに三界六道の苦しみのある世界ですが現世を如何にして良くして行くかは重要な考え方で、苦しいから厭離穢土とは受け止めてはなりません。

努力もせずに現世を嫌い浄土を求めて生命を賭けると浄土の以前に閻魔さんが駄目だと通してくれないことになっています。

目まぐるしく変化する日常 明日は今日とは違い動き行く

私たちは明日は今日の延長だと思って計画を立てています。

同じようでありながら変化の速度は私たちの予想を上回っています。二十五年前に観音院に導入したワープロは大きな机ほどもありながら固定ディスクは五十メガ、それが現在では重さ二キロで二十ギガ、価格は三十分の一です。

電算機はそれほどでもありませんが、パソコンは日進月歩で、昔のスーパーコンピュータに相当するような製品が観音院でも四台くらい動いているでしょうか。

情報処理技術も寺の中が格段の進歩を遂げ、ドメインを三百くらい収容出来るサーバを動かしています。観音院のホームページは更新すると一日二十万件のアクセスが続くこともあります。サーバを管理しておられる西村さんのホームページは一日百万件のアクセスがあります。寺はその時々の文化や芸術、技術の変化に応じて、それを展示保存する場所でもあります。最先端の技術を持つことにも何ら不思議も矛盾もありません。

観音院の信徒さんは二十年間で約五百倍になりました。寺のような保守的な環境でもこのような大変化が起き得るのです。

日常生活の中でも信頼していた制度が崩壊したりしてますね。保険会社が崩壊したり、老舗の百貨店が縮小したり、株価が乱高下したり、まさに無常として言えないような出来事が続きます。

天災も無常の内です。災難は善悪を選ばす襲います。日本列島は地震の活動期に入ったと言う説が有力です。世界の各地で洪水が多発しています。これが普通なのか異常気象なのか、怖いことですね。

日々安穏であっても、予想も出来ぬ事態に巻き込まれる。可能な限り慎重に、心を平安に保ち、公序良俗を大切に次代へ伝え、世の中が平和であるように祈りたいと願っています。

二十一世紀が平和な世の中になりますように、御佛様のご加護に包まれて、無常の中にあっても、出来るだけ平安に、健康で、無事故で過ごしていただきたい。そのように願いながら年中無休三座の法要を執行致します。

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