心と仏と衆生は一緒

もう一つの三界(さんがい)
ご隠居  前回話した「三界唯一心心外無別法 心仏及衆生是三無差別」というあの文言のことだが、あの「三界唯心(ゆいしん)」の仏説というのは、あとで調べてみて分かったのだが、どうも釈尊みずからがお説きになった言葉ではないらしい。
寅さん  へえ、お釈迦さまの言葉でなくても「仏説」ということになるんですか?
ご隠居  釈尊のお心にかなっていれば、仏説としていっこうにかまわない。三界唯心の仏説は、華厳経の離世間品、楞迦経(りょうがきょう)のなかにあって、覚林菩薩という方がお説きになったものだそうだ。しかし、たとえそうであれ、菩薩もお経も、釈尊あっての菩薩であり、お経である事実を考えればまったく問題はないわけだ。
 とにかく、三界唯心は、釈尊のお心の顕現発露(けんげん・はつろ)したお言葉であって、これこそがわれわれ衆生(しゅじょう)にいちばん伝えたいことではなかったのではあるまいか。
 さて前回は、その釈尊の教えにのっとって、三界とその他のありとあらゆる存在は虚仮(こけ・うそいつわり)、不実であって、夢幻空華(むげん・くうげ)のごときものにすぎず、それらはただ心が、己の思っているように都合よく映像をむすび、恣意(しい)的に映し出したものにすぎないという話をした。
 その意味において三界は心をおいて以外に、そのほかの何処にも存在しないから心外無別法(しんげむべつほう)という。
 このように三界にどっぷり身を浸した衆生は、眼に映じるあらゆる存在を、たしかに有る、と妄見(もうけん)する。つまり不正常な衆生の眼をもってすれば、空華の如き万法(あらゆるもの)が見えるが、健全で正常な活眼(かつがん)を開けば、その空華が消滅して虚偽の万法を見ることはない、とされる。
 しかし、それは、あくまでも三界出離(しゅつり)を目的とする声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)の見解によって、三界唯心を論じたものにすぎない、というのが前回までの話で、如来のいわゆる三界唯心 心外無別法は、決してそれだけに止まるものではなく、けだし、泉と勘違いして、髑髏の溜まり水を飲んだ元暁法師の「三界唯心、豈(あに)われを欺かんや」といったようなことは仏法の初門を終了した程度にすぎない。
 もし仏眼(ぶつげん)を見開いてこの三界をつぶさに観ずるときは、三界のそのままが我々みんなの前に厳然としてあり、そこから出るべきものでもなければ離れなければならぬものでもない。
 故に法華経にいわく「今この三界は皆これ我が(仏)が有(う)なり。その中の衆生は、悉く(ことごとく)これ吾子なり」と。
寅さん  あれれ、妙な話になってきましたね。三界はただ心の所現だったはずですが・・。
心はみんなの心
ご隠居  まあ黙って聞きなさい。
 これの言わんとする意味は、三界はみな如来の所有であって、この三界の中のありとあらゆる衆生は、すべて如来の子であると、はっきり言われているわけだ。
 こういうと、いかにも如来が高みから我々衆生を見くだし卑小化しているような感じだが、実はさにあらず、我々凡夫といえども、仏眼を開いて三界を見るとき、それはことごとく我が所有するものであるはずだというのだな。
 この場合の「我」とは何かというと、これは我と他人といった相対的な関係にある我のことではなくて、法界(ほっかい)・・万有の実体の真我であるとする。そしてその真我はすなわち唯心なのだという。そして三界は唯心の所現であるがゆえに我が所有であり、その三界に存在するありとあらゆる衆生は、みなその父なる本体の真我、すなわち、唯心から生みだしたものであるので、仏は衆生を吾子であるとお説きになったのだ、とされている。
 このように唯心とは、己一個人の専有物ではなくて、一切衆生が共有しているものを総称して一心と説き、唯心と説かれたものであるという。したがって、一個人における唯心も、自分以外の人々の唯心も結局のところ一つであって、差異はない。
 だから一切衆生、生きとし生けるすべてのものは、その境遇変化のうえにおいて、六道四生(ろくどう=善悪の業により往く–天上、人間、修羅、鬼畜、餓鬼、地獄。ししょう=生まれ方–胎生、卵生、湿生、化生)それぞれ行きつくところの違いはあるにしても、その本源を質す(ただす)ならば、みな同一なる唯心にして、同じ真如(しんにょ)・・あらゆる現象の本体で、永久に変わらない真理であるといい、これを法性(ほっしょう)とも、仏性(ぶっしょう)とも、自性清浄心(じしょう・しょうじょうしん)とも、法界とも妙法とも、そしてまた、大日法身(ほっしん)ともいうそうだ。
 華厳経には「仏子、一切衆生として如来の智慧を具有せずということなし」といい、涅槃経に「一切衆生 悉く 仏性(ぶっしょう)あり、如来常住して変易あることなし・・」というのは、これらはすべて同一真心、同一法性であることを教えたものだと考えてよいだろう。
 釈尊はこの道理を、透徹された仏眼でもって三界唯一心、心外無別法とお説きになったわけだ。
 釈尊が説かれたいわゆる唯心というのは、三界衆生の等しく具有する唯心というわけだから、尽三世(じんさんぜ)にわたり尽十方(じんじっぽう)をきわめ尽くしていて、三界でないところはないことになる。
 だから、三界を出るといえども唯心を出(いず)ることあたわず、十方の浄土に往くといえども唯心を離れることあたわず。
 唯心の三界であり、唯心の浄土であるから、六道四生おのおの境遇を異にしても、いまだかつて唯心の範囲を逸脱することがない。
 故に心外無別法というわけだ。
 そして心外無別法であることが理解できれば、法界(ほっかい)のことごとくを、己が心身とすることも可能だし、全世界を己の安息所と考えることも可能だろう。
 この世も法界さえも、同じく唯心とするならば、一法として捨てるべきものもなければ取るべきものもない。
 つまりすべてのものは、唯心の所産であって、一心即万法、万法即一心だから、ここには自もなければ他もない。
 迷いを離れて悟りを得るとか、穢土(えど)を捨てて浄土へ往くとか、生死(しょうじ)を厭うて涅槃を願うとか、煩悩を除いて菩提(ぼだい)を求めるとかいうのも、すべてこれらは唯心所現の法でないものはない、と説く。
 そして、これに迷うものは三界(さんがい)の苦境に呻吟(しんぎん)し、これを悟るものは寂光の楽土にあそぶ。
 以上のごとく苦楽の二境を超脱し、浄穢(じょうえ)の二土(にど)を忘却したとき、はじめて、三界唯一心、心外無別法の極意を感得(かんとく)するであろうと、教える。
心と仏と衆生は一緒
ご隠居  また、心外無別法が了知(りょうち)されたならば「心仏及び衆生是れ三無差別」の意味もまた、おのずから明らかになるはずであるという。
 つまり三界は唯心の所現であって、心の外に法・・ものは存在しない。そして仏と及び衆生は皆、心の変相であるから、是の三つは無差別とお説きになった。
 そもそも釈尊がこの世に現れてそれまで誰も説くことのなかった大道理の教法をうちたてられ、此の一心を大悟してその妙理を顕現(けんげん)された。
 そして此の一心を悟るものを仏といい、此の一心に迷う者を衆生という。迷うのも心のなせるわざであり、悟るのもまた心である。心を離れて迷も悟もありえないから、是れの三つは無差別である、というわけだ。
 此の心は有無をよく融通し、染浄(じんじょう・汚いものと清らかなもの)を兼ねあわせ、迷悟、善悪、正邪等を含有するものであるから一切の万法が生ずる。
 釈尊は、そういった染浄、有無、迷悟、真妄、依報(えほう)・正報にいたるすべてのものを一括して一心といわれた。
 「心とは、明らかにこれ山河大地日月星辰なり」とあるように、山河も日月も、すべて心がその形を現じ映し出したものにすぎないと。
 一心は純一なものであり、万法(すべての存在)は複雑きわまりないが、その複雑な万法も純一な一心によって発現したものとするならば、これを演繹(えんえき・意味を推しひろげて説く)すれば万法であり、帰納(きのう・個々の具体的な事実から一般的な法則を導きだす)すれば一心になる。
 一心と万法は異なっているようであっても、それは一体であり同体であるから、名づけて一心法界である、とされる。
 そしてこれを理性で論じるならば平等といい、それをものの形で論じれば差別(しゃべつ)という。差別の万法を事相(じそう)といい、平等の一心を理性という。そして心が事相のほうに執着している者を衆生といい、その心が理性に住するものを仏陀という。
 この仏陀と衆生に分かたれる所以(ゆえん)は、その本源であるところの一心に二個の素因を有するが故に、としている。
 大乗起信論に「真如(しんにょ)と生滅(しょうめつ)との二個を為す、その心の妄ならず、異ならざるを、真如と云い、その心の真妄和合するものを生滅と云う、とあるように、一つは不生不滅の心体であり、いま一つは生滅相続の心相である、と。
 したがって、真如のなかにおいては、仏と衆生の区別はないが、生滅の心のなかにおいては、まさしく仏と衆生との間に差別が生ずる。
 つまり、真心(しんしん)が妄心を制するものを仏とし、妄心が真心(真実の心)を蔽うものを衆生とする。
 いわゆる真心とは、覚心であって、妄心とは不覚心である。
 不覚の心を無明(むみょう)といい、覚の心を明覚(みょうかく)という。
 無明の一念が増長するときは三界六趣の衆生となるが、その衆生の心中に、一念明覚の心が生じれば、三賢十地等覚妙覚の仏菩薩となる、とされる。
 このように真如というのは、ゆるぎない仏法本体の絶対真理だが、もう片方の生滅の心には、迷悟、染浄の差別が現れて、さまざまな諸法(ものの存在)が生じる。だから心は巧みな画家のようなもので、画家が一本の絵筆でもっていろんな絵を描くように、心というものも十界三千世界の諸法を際限なく現じ映し出す。
此の一心
ご隠居  大乗小乗をとわず経論の際その引き合いによく用いる言葉がある。「この娑婆世界の山河大地日月星辰は、皆これ有情(うじょう)業力の所感なり」と。
 楞厳経(りょうごんぎょう)も「想の澄めるは国土と成り、知覚するはすなわち衆生なり。衆生の情あるを正報と為し、山河草木の如き情なきものを依報と為す」と。
 これの意味は、明るく照り映える心は太陽として現れ、清浄な心は太陰(月)として現れ、愛心は水となり、欲心は海となり、猛心は火となり、堅心は金となり、柔心は木となり、平心は土となり、高心は山となり、頑心は石となり、怒心は雷となり、烈心は風となり、和心は雨となり、蘊心(おんしん・おだやかなこと)は雲となり、悲心は霜となり、昏心(こんしん・道理にくらいこと)は霧となるというのだな。
 これをみても分かるように三界は唯心がつくりだしたものであり、万法(あらゆる存在)は唯識の所変である、といった意味のことを楞厳経は説き、さらにつづけて、「世界の相続と、衆生の相続と、業果(ごうか・前世でしたことに対して、この世で受ける善悪の報い)の相続して止まざるは皆これ唯心の所現なり」と説いている。
 そしてまた、円覚経のなかにも「情界(正報)器界(きかい・依報)の始終、生滅、前後、有無、集散、起滅の循環往復して、時々刻々に相続して止まざる者は、皆これ生滅の心に因(よ)る者なり」と説かれている。
 このように心というものは有情(うじょう・情けを解する一切の鳥獣、生き物)をはじめとして、木石などの「無情」、そして有形無形にいたるまで、すべてをつくりだす本源なので、心仏及び衆生是れ三無差別であると、お釈迦さまはおっしゃったわけだな。
 前号と今月号の二回にわたり、三界唯心のことについて、三界は夢幻空華のようなものだからと、三界を否定してみたり、そしてまた、いや、この三界というのは、そっくりそのまま私たちの心の中に所有しているものだから、そこから抜け出たり離れようとしたりするものではない、という三界肯定論があったりと、どうやら話の組み立てに首尾一貫しないうらみがあったような気がしている。
 でもしかし、私たちのこの一心なるものは万法(あらゆるものの存在)を生みだす根源であって、われわれと万法とは、同一同根だということを、寅さんや皆さんに納得してもらえれば、ほとけさまも少しは大目にみてくださるのではあるまいか。

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