ご隠居 今回は、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)について話してみようか。
寅さん その善無畏(ぜんむい)三蔵さんというのは、どういう人なのですか?
ご隠居 「大日経」を漢訳した学僧だ。善無畏三蔵(六三七-七三五年)は、
東(中)イ ンド・オリッサ(烏荼)国の王位を捨てて、仏門に入ったと
いうから、どこか釈 尊を彷彿(ほうふつ)させるところのある人だな。
インドの最古の大学ナーランダ寺で学び、玄宗皇帝の開元四(七一六)
年に唐へ入り、密教典四部十四巻を翻訳され、そのなかの「大日経」一部
七巻は真言密教の根本経典の一つとされている。
このお経は一般に「大日経」と呼ばれているが、正しくは「大毘盧遮那
成佛 神変 加持 経(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)」
という。お大師さまはこの長い名をもつお経を、手っとり早く「大日経」
と呼ぶことを好まれたそうだ。
ところで、その玄宗の開元年中(七一三-七三五年)は、金剛智、
善無畏、そして不空三蔵といった巨師がインドから次々に来唐した時代だ
から、当然のことながら唐の都長安における密教の人気はたいへんなもの
だったようだ。
寅さんも金剛智や不空の名前くらいは知っているだろう?
寅さん どこかで耳にしたことはります。
ご隠居 大日如来-金剛薩タ-竜猛-竜智-金剛智-不空-恵果-空海。これは真
言密教の「付法の八祖」だが、ここにある金剛智三蔵がその第五祖、
不空三蔵は第六祖にあたる方だ。
「伝持の八祖」とは、竜猛菩薩、竜智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、
善無畏三蔵、一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)、恵果和尚、
空海(弘法大師)である。
恵果和尚は、日本へ帰国する自分の正嫡の弟子であるお大師さまに、
インド伝来の聖教、曼荼羅、法具などを授けているが、それらの中に、
金剛智阿闍梨影、善無畏三蔵影(京都東寺現蔵。国宝)の仏画も含まれて
いた。
準提(准胝・じゅんてい)観音さま
ご隠居 この善無畏三蔵の翻訳になる『虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)』一巻、
「七仏倶胝仏母心大準提陀羅尼法」、それと「七倶胝獨部法」というのがあ
る。
「七仏倶胝仏母心大準提陀羅尼法」、このお経は古来、出家はもとより、在
家の人々にも通ずる大慈悲門であるから、なにびと といえども、この法を
聴くときは、これを修してみたくなるおもいを起こす、と古くからいわれて
いる。
まず、本文のほうからみることにする。
—-そのとき仏、舎衛国の祇樹給孤独国に在(いま)ししが、この時に世尊思惟(しゆい)観察して、未来もろもろの衆生をあわれに思いたまうがゆえに、この七仏倶胝仏母心大準提陀羅尼法を説きたまいき。
すなわち咒(じゅ・準提陀羅尼)を説いてのたまわく、
南無颯多南(ノウマクサッタナン)
三藐三没駄 倶胝南(サンミャクサンボタ クチナン)
旦姪他(タニヤタ)
奄者礼(オンシャレイ)
主礼(ソレイ)
準提(ソンデイ)
莎婆訶(ソワカ)
もし、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷ありて、この陀羅尼を受持読誦すること八十万遍に満ちれば、無量劫よりこのかた造るところの五無間(むけん・地獄)等、一切もろもろの罪悪ことごとく滅して余りなけん。あらゆる生処には皆諸仏菩薩に合い遇うことを得ん。あらゆる資具は具にしたがい意にしたがって満ち足りなん。
生生つねに出家を得て、つぶさに菩薩の律義(りつぎ)、浄戒をたもち、恒(つね)に人天に生まれて、悪趣(あくしゅ)に堕ちず、常に諸天の為に守護せらる。
もし在家の善男女ありて、これを受持読誦すれば、その家から災難、病苦のわざわい、悩みがなくなり、することなすことすべて思いどおりで、人々の信望を集める。
ご隠居 以下、さらに、加持(かじ)の修法、受持(じゅじ)の功徳(くどく)な
どが説かれているが、その功徳の大半にわたり、
現世利益(げんせりやく)に関するものが多いようだ。
二、三それらを紹介してみる。
もし辛い病をわずらっていれば、咒(じゅ・真言)をもって病患を払うと、病を除いて根治する。
他出するさい、この咒を誦念すれば道中無事である。また、つねにこの咒を受持していれば、たとえ訴訟ごとがあろうとも勝訴する等々—-。しかるのち 経は説く。
この陀羅尼法は、過去の一切の諸仏も、現在の諸仏も、今また、我もかくのごとく説く。
一切衆生を利せんが為の故に、無上菩提を得るが故に、もし薄福の衆生ありて少しの善根も有ること無きもの、根器有ること無きもの、善根の分有ること無きもの、もし此の大準提陀羅尼の法を聞くことを得ば、すみやかに阿耨多羅三藐三菩提を証得せん。もし人ありて、此の仏母心大準提陀羅尼を憶持誦念して常に懈怠(けたい)せざる者は、無量の善根皆成就することを得ん云々・・と。
身密・語密・意密
では次に「念誦獨部法心得」をみてみよう。
まず、夜明けに手を洗い、口を漱(すす)いで仏前に坐し、準提陀羅尼を毎日、百八遍より一千遍まで、意にまかせて唱える。
百八遍誦すあいだ、その途中において人と話してはならない。また、何遍まで数えようと意識して数を数える必要はない。
奄折戻 主戻(オンシャレイソレイ)より下句を唱えるもよし。
もしまた、仕事が忙しければ顔を洗い終えて、その場所で東方に向かい、合掌し、南無大聖準提王菩薩を三遍唱えるべし。ただ一真念慮の動かざることによって霊験があるのである。
手を合わすのは身密である。真言を唱えるのは語密である。一心に念ずるのは意密である。
法華経のなかに、手を合わせ、頭(こうべ)を垂れる行為じたいを善として、仏道を成ず、と説かれている。いわんや三密具足して所願成就(じょうじゅ)せずということがあろうか。
もしまた、時間に余裕のある人は、早朝と同じように、暮方にも以上の要領でつとめるべし。たとえ不浄の身であっても、一日たりとも怠ることなかれ。
つぎに、一字金輪王真言を誦すべし。
曩莫 三満多没駄(ノウマクサンマンダ ボタ)
南(ナン)
奄(オン)
歩魯奄(ボロン)
これを百八遍を目標に意にまかせて唱えること。この真言は、前述の真言に力を添えて、その願を早く成就せしめ、別して末世の衆生に大利益をもたらす真言である。
つぎに心中の諸願を祈るべし。
信心の人は、娯楽に興じ、酒宴の場にあろうとも、あるいは道を歩き、また寝床に臥(ふ)していようとも、あるいは悲しくとも、心が乱れていようとも、つねに珠を持して数を定めず、間断なく誦(じゅ)すもよし。真言を高声に唱えれば、他人の悪を滅して善を生ずる—-(後略)
陀羅尼の功徳
—-準提の真言には、佛教のあらゆる真言が網羅されている関係からか、他の真言にくらべるときわめてゆるやかである。
在家の人が魚肉を食し、妻子を帯するとも、この準提を祈れば、所願成就せずということはないと経文ははっきり説いている。
仏は妄語したまわない。すなわち準提菩薩は諸仏の母にして、その慈悲深さは、世間の母親が赤子を慈育するのと同様であるので、少々のけがれもおいといならない。
しかしながら、内に淫欲に耽り外には我が身の分を忘れて、奢り昂(たかぶ)り、みずからの利欲のみにはしり、人の道に背くような生き方をして、どうして大悲のご守護を得られよう。
霊妙の心を失い、ひとたび迷いの世界にふみだせば、幾千万年経たとしても、もとに還(かえ)ることはできない。
一度悪因の種子を播けば、土が雨露を吸収するように、たちまち現世に悪をはびこらせて悪報をうける。今世の苦報はそれでもごく短いものにすぎないが、その苦は次の世にも報い、また次へと未来にわたって延々と継続する。
この悪因の種子を消滅させるには、まさに真言陀羅尼の功徳に超えたるものはなし。このゆえに、この準提陀羅尼を、至心に誦して十万遍に満ちれば、夢中に仏菩薩、声聞、縁覚を見るだろう。(中略)
そのとき、前業(ぜんごう)が滅して諸願が成就するのである。
富貴を求めるものには富貴が与えられ、智慧(ちえ)を求めるものには智慧が与えられ、短命な衆生には長寿が与えられる。(中略)
この陀羅尼を受持すること九十万遍に満ちれば、無量劫来五無間等、一切もろもろの重罪ことごとく滅し、所在の生処、みな諸仏にあい遇うことを得ん、と・・。
準提観音の利益霊験
昔、長崎のある寺に、越岸(えつがん)と呼ばれる和尚がいた。
元来、豊前の国の人であったが、長崎において剃髪染衣(ていはつせんえ、ぜんね)した。
越岸和尚は年来、腹に持病があり、時と所をかまわず襲いかかる腹痛にいたく悩まされていた。
ほうぼうの医者にかかって診てもらい、また、鍼を打ち灸をすえて、百方治療に手を尽くしたけれども、さらに効験(ききめ)がなかった。
ここに至って最早この病は、医術や鍼灸などではとうてい治癒するものではない、と確信した和尚は、それからはもっぱら準提観世音菩薩にお縋りすることとした。
毎日準提陀羅尼の真言を一千遍ずつ誦(ず)しつづけ、いかなることがあろうとも一日として怠ることがなかった。
おなじ長崎のある庵に居た頃のことである。例によって越岸和尚はひどい腹痛におそわれて眠れないままに、ひとり黙然と準提菩薩像の前に座していた。
「私はみずから信心を発し、真言を誦持すること多年にわたりますが、いまだはかばかしい効験をみることができません。どこか私にいけないところがあるのでございましょうか?」と、菩薩に無言の問いかけをしているうち、ついウトウトとしてしまった。
すると睡夢の間(かん)に一人の神人(しんじん)が忽然と現れて告げた。
「我いま汝の疾病(しっぺい)を治すべし」と、
神人は六寸ばかりの金の針でもって臍の上あたりを刺したようにおぼえた。
夢が酲(さめ)めて、その痛みがかすかに残っていたが、それからのち身体がなんだか軽くなって、あれほどひどかった宿痾(しゅくあ)の腹痛が嘘のようになくなったのである。
この話を聞いた多くの人々は、さっそく準提講社というのを組織して尊礼崇奉したそうである。
竜樹菩薩は「大智度論」の中で「仏法は信をもって能入となす」と説かれ、せっかく信じてこの道に入ったのだから、克明に日記をつけ、年の終わりに一年の善悪を数え、過ちした分と善を積んだ分とを知るべし。これ、人を利する一端、法を興す基である、とお説きになっている。
光明真言(こうみょうしんごん)
法要で最もよくお唱えされるの
が大日如来の真言と光明真言です。
(まことの道 百十五ページ)
そもそも、われら 生きとし生けるもの、生まれながらにして、みほとけの心を持てり。
されどあさましき欲望に身をこがし、われ 本より ほとけなるを知らず、遠く みほとけを求めて、永遠に生死の苦海をさまよう。
生きとし生けるもの、ありとあらゆるものをあまねく照らし、羽包み育てる真言の教主大日如来は一切の みほとけの根本にして、われら衆生の み親なり。
「光明真言」はこの大日如来の御真言にして、一切の苦悩を 解脱(げだつ)せしめる。
初めに「おん」と唱えるは、一切の みほとけに 身と心の誠をつくして 信じたてまつることをお誓いし、香華 燈明 飲食を供養したてまつる。
「あぼきゃ」は不空と訳したてまつる。みほとけの自ら悟り、世のすべての迷えるものを導きたまう徳は広大無辺にして空しからず。
「べいろしゃのう」は毘盧遮那にして光明遍照と訳し、大日如来の常恒説法の徳を表す、一切の みほとけの光明あわせたり。
「まかぼだら」は訳して大印という、生仏同体を表す不ニの印にして、薬師如来の慈悲を表す。光明真言を唱うる人の 辛き病を救いたまうはこの真言の力なり。世の人の苦しみ悩みを除く大いなる働きあり。
「まに」は この世とやがて往く世の幸いを 意のままになさしめる如意宝珠のことにして大日如来の福徳を円満せしめん誓いを表すなり。
「はんどま」は西方浄土 阿弥陀如来の心中秘密呪にして、世の人々のすべての罪と過を消し、人本来そなえ持つ みほとけの心を開かせしめて浄き土に導きたまうなり。
「じんばら」は光明にして、一切世間の闇を照らし行く釈迦如来の徳を表す。
「はらばりたや」は苦しみを転じて悟りを開かしめる働きあり、かくて世の人々は多くの汚れを捨て去りて浄き人々となり、すべての三世を浄め行く。
終わりの「うん」字は、地獄を破りて浄土となす大力を有し、恐怖を除きて、幸いを与える功徳そなえり。
世の人々の悟りを求める心を守り、迷いと災いを除いて、みほとけ成らんと欲する願いを満たす力あり。
善きかな、光明真言とともに生き行くものよ。
されば、罪深く業重きと自覚ある人といえども、この光明真言の功徳を信じて唱えるときは、大日如来のすぐれし智恵の光明に浄められ、一切の罪障を消滅し、福徳智恵増して、わが世たのしく生きることを得べし。
特に、今は亡き人々の菩提(ぼだい)を弔(とむら)わんがために、光明真言を唱うるならば、必ず 無量寿如来が表れて 極楽浄土に導きたまう。
光明真言
おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まに はんどま
じんばら はらばりたや うん