密教と山岳修行

薄紅に咲く秋桜の姿、通りに漂う金木犀の香り、夕暮れ時に奏でられる虫たちの合唱など、どこか物悲しく、物思いに耽るのにも、丁度良い季節になってきました。
 気候も涼しくなってきて、かいた汗も秋の風に吹かれて少々肌寒く感じるこの時期には、運動会や野外活動、登山など、各地で様々な行事や行楽が営まれます。
 連休を利用して、泊りがけで寺院巡拝や山野を歩く修験や回峰行に参加する方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 お大師さま、弘法大師 空海は、大学の明経科で学んでいた十八歳の頃、仏教の教えを深く理解したい一心で、仏門に入りました。 そして、一人の沙門(しゃもん・一説には勤操僧正)から授けられた「虚空蔵菩薩 能満請願 最勝心陀羅尼 求聞持法(以下、虚空蔵菩薩 求聞持法・ぐもんじほう)」を修法したり、巡拝し、過酷な行法を重ね、約十二年間もの長きにわたり、山岳での修行に励んだといわれています。
 未開の山野を歩き回るのには、相当の体力と強靭な足腰が必要だったことは想像に難くありません。
 虚空蔵菩薩 求聞持法 は、百日(または五十日、七十日とも)の間に、虚空蔵菩薩の御真言(ノウボウ アキヤシヤ キヤラバヤ オンアリ キヤ マリボリ ソワカ)を百万回唱えるという荒行で、途中で挫折すると命を落とすとまでいわれていました。
 また、成就(じょうじゅ)すれば、すべての経典を読誦したことと同じ知識を身につけることができるともいわれています。
 一日一座、一万回御真言を唱え、おおよそ六時間かかるといわれています。
 不動の信心と厳しい修行で培われた精神と、鍛え抜かれた身体をもってして、空海は土佐国(現在の高知県)の室戸岬の崖上で、見事にこの行をやり遂げました。その際、明けの明星(金星)が口の中に飛び込んでくるという不思議な体験をされたそうです。

 山岳修行といえば、役小角(えんの おづの)が始めたとされる修験道の行者たちが主に行うことで知られています。
 お大師さまと役小角は深い交友関係にあったという説もあります。後に、修験道と真言密教は習合し、独特の山岳修行、修法体系を形成していきました。
 修験道の根本道場である大峯山は、役小角が三十三度登拝した際に悟りの境地に至ったといわれています。
 また、今年の七月に中国蘇州で開かれていたユネスコの世界遺産委員会で、世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」の中の山々に「高野山」が共に含まれています。
 お大師さまが、当時の世界最大の先進国、唐(中国)での修行を終えて帰国の途に着く際のことです。密教を流布(るふ)するのに相応しい地を示し給えと祈念して、日本に向き東方の空に三鈷杵(さんこしょ)を投げました。
 入唐(にっとう)より無事帰国されたお大師さまが、修行道場を求めて大和国(現在の奈良県)の山谷を歩き回っていた時、二匹の犬を連れた狩人(狩場明神・かりばみょうじん)に会ったそうです。その彼の犬に誘われて訪れた地が高野山だったといわれます。
 嵯峨天皇から高野山を下賜され、伽藍(がらん)の建設にあたり、周囲の木を伐採している時、不思議なことに、大きな松の枝に、唐で投げたはずの三鈷杵が引っかかっているのが発見されたそうです。その松は、「三鈷松」の伝説として語り継がれています。
 四国の山々の霊所をめぐる四国遍路然り、真言密教と大自然と深く結びついているように感じます。

 山岳修行とまでいかないまでも、安全な低山をトレッキング(山歩き)をすることは、健康的にみても良いことだと思います。
 日頃の喧騒を離れ、空気の澄んだ、季節感溢れる色鮮やかな自然の中をゆっくりと歩くことで心身ともにリフレッシュできることでしょう。緑や紅葉、清流に目をやり、仲間と楽しく会話を楽しんで登ったり、頂上へ立った際の達成感を味わうことのできる、至福の時間を過ごす事ができるでしょう。

 秋の山歩きでは、天候の急な変化に対応できるように、防寒具や雨具を用意し、また、スズメバチや野生動物への警戒も怠らないようにしましょう。
 自然の力を甘く見て油断をしていると、最悪の場合、命を落とす危険性があります。
 体力に自信がある方でも、思わぬ怪我をされることがあります。事前に山道の情報を調べてたり、先達にアドバイスを受けたりして無理なく行動しましょう。

 お大師さまは、山々を巡っていた時、何を思っていらしたのでしょうか。
 仏法を、遍(あまね)く私ども衆生に広めるための案をめぐらしていらしたのでしょうか。

 人生は、よく山登りに例えられます。なだらかな坂道もあれば、急な斜面もある。しばしば、分岐点に立たされ、選択を迫られる。選んだ先が行き止まりで、引き返さなければならないこともあるでしょう。
 上空を旋回する鳥たちを憧れ、それでも一歩一歩踏みしめて登っていく。やがて頂上に到達し、歩んだ道を省みた時、達成感とともに、ある種の疑問を感じることでしょう。自分の来た道は、正しいルートだったのか。自分の選んだ山は、他人が登っている山と比べて優れていたのだろうかと。

 山登りでは、登りよりも降りの方が疲れます。意気揚々と頂上を目指している時と違い、来た道を名残惜しみながら、麓(ふもと)へと向かう足取りは重く、心身ともに負担がかかるでしょう。
 到達した頂上の高さや足の速さを競うよりも、いかに降るか、といったことが大切ではないでしょうか。終着点に近づいた際、周囲を見渡して、いったい何が残っているのでしょうか。
 それは、お金や名誉などではないかもしれません、どれだけ人に幸せを与えられたか、という事実に尽きると思います。
 もしも、人生の頂上付近にいるとお考えの方がいらっしゃったら、残りの道は、どうぞ世のため人のために歩んでみてください。誰かのために役立っていると感じることで、ちょっと憂鬱な帰り道も、足取り軽く、有意義に過ごすことができることでしょう。

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