安心の程度、三帰依文

ご隠居 今回から次号にわたり、昔ある本に掲載された記事を抄録
して紹介してみようと思う。
「凡夫(ぼんぷ)の安心(あんじん)とはどのようなもの」という
タイトルで、ある一人の仏教徒が、学識ゆたかな僧侶に、次のよう
に質問している。
 問。聞くところによれば、一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有
   仏性(しつうぶっしょう)は如来(にょらい)金口(きんく)
   の説法であるとか—-。

寅さん ちょっと待ってください。
 それは何の説法です?
ご隠居 金口、つまり黄金色のお口を持っていらっしゃるお釈迦さ
まが、生きもののことごとくは、すべて仏になれる資質をそなえて
いると言われたわけだ。

 一仏教徒の質問をつづける。
 もしそうなら、私ごとき者でも当然その仏性(ぶっしょう)をそ
なえているはずですが、情けないことに、私には自分自身の仏性の
在り処が判然としません。
 仏教のありがたさを深く感じれば感じるほど、せめて悟道(ごど
う)へ至るとば口ぐらい見つけたいものと努力しておりますが、な
にぶんにも凡夫中の凡夫ゆえ、道に迷って難渋しています。
 そこで、どうすればより早く悟道に達する近道を見つけることが
できるか、そのことをご教示いただければ幸甚です。

答。お訊ねの趣旨は、ひとり貴方の願望(がんもう)だけでなく、
いやしくも仏信徒たるもの、皆ひとしく抱いている願いではないで
しょうか。
 およそ心の平安とか安心とか、充足感とか、満足感とかは、人に
よってそれぞれ受けとめ方が異なり、程度の差がある。
 つまり、個人個人の心ばえとか、日常のおこないを逐一通してみ
たとき、どのような時であっても、どんな場所に居ようと、また、
どんな場合であろうと、つねに仏界、菩薩界、声聞縁覚界に安住す
る人もいれば、天上、人間、阿修羅界の段階にあそび、それで十分
満足している人もいる。
 かと思うと、四六時中、畜生、餓鬼、地獄の三悪道のごとき救い
ようのない世界で、自らの貪欲と瞋恚(しんに)、猜疑(さいぎ)
と憎悪(ぞうお)と背信(はいしん)をほしいままにして、それで
当たり前といった、まるで反省のない者もいる。

 このように人それぞれ、心のあり方や願望は一様でない。したが
って、人には各人の生き方や環境に応じて、その人の願望を充たす
満足とか安心の程度というものがあるはずだけれども、人の心は、
そのとき、その場合に応じてつねに変化する。
 たとえば、手もと不如意(ふにょい)で食べるに事欠くような暮
らしをしているときは、どんな粗末なものを食べても美味しいし、
それで十分満足できるが、すこし金まわりがよくなり、毎日食卓に
ご馳走が並ぶようになると、口ばかりか、心のほうも奢(おご)っ
て、少々のご馳走では満足ゆかなくなり、それ以上の美食を望むよ
うになる。

 これらはわれわれの衣食住全般もそうだし、仕事についてもそう
だ。人間であるかぎり、商売していればいま以上にもっと利潤を上
げたいだろうし、サラリーマンならいま以上の地位を望むのが人情
というものだろう。
 しかしながら、人にはおのずからもって生まれた才能、資質とい
うものがある。
 人はみな、己れの才能や資質を超えて、それ以上のことはできな
いから、どれほど身を粉にして働いても大富豪や大会社の社長には
なれないし、どれほど勉強してもノーベ賞はもらえないかもしれ
ないが、高い志をもって世のため人のためにひたむきに精進したい。

 だから、人たるものは、あらかじめ己れ自身、身のほどをよくわ
きまえて、自分の分限以上のことをみだりに妄想せず、責任転嫁せ
ずに、日々を勤勉に努めて、仏の加護を得るのである。

横並びの安心

ご隠居 冒頭、質問者が訊(たず)ねたように、自分の有する仏性
(ぶっしょう)の容量にたいして懐疑的(かいぎてき)な者にも、そ
の仏性にふさわしい安心悟道の近道があるのではないか、といった
素朴な問いかけに対して、回答者である僧侶が次のように言った。

 私などもとより一凡僧にすぎないから、高僧知識のようなふりを
して、安心悟道のことなどとても人さまに説いたり授けたりするこ
とはできない。
 たとえ聖人賢者を気取って、深遠な安心悟道の方法を語ったとし
ても、己れ自身おこなうことのできないことを他人に授けるのは、
己れを欺(あざむ)き、他をまどわす妄語(もうご)を吐き、罪障
となるからである。これはけっして謙遜でも辞譲(じじょう)でも
ない。
 本来の自分をかえりみて、己れに三毒も五欲もあることをよく自
覚しているからである。

寅さん 三毒、五欲というのはどのようなものですか?

ご隠居 三毒とは、人間の善い行為をそこなう三つの毒、つまり貪
(むさぼ)り、瞋(いか)り、癡(おろか)さのことだ。
 そして五欲というのは、人間の五感から生ずる色欲、声欲、香欲、
味欲、触欲のことだが、それよりも、もう一つの解釈の、財産に対
する欲望、色欲、飲み食いに対する欲望、名誉欲、それに睡眠に対
する欲望のことと考えるほうが素直なような気がするな。

 本文にもどる。
 残念なことに私は、いまだ三毒五欲から脱却できえていないから、
これのはなはだしい者と比較して多少なりともそれらが希薄である
ことをこい願うのみである。
 そういうわけだから、それぞれ自分が具備していると思える仏性
の質と量に対して、いささかの疑問なり頼りなさを感じている者も
まわりを見れば、おたがい似たりよったりの月並みの人間ばかりだ
から、自分一人だけ仏性がとぼしかったわけではなかったと、ほっ
と胸をなでおろすような安心感が生じるはずである。

 この凡夫相応の「安心」が定まったからには、凡夫相応の起行が
なければならない。起行(きぎょう)とは修行を始めることである。
 私はこれを安心起行と言わず、信解行入(しんげぎょうにゅう)
という。

寅さん 信解行入?

ご隠居 一切のものは生じたり無くなったり、変わったりして、決
して一定ではないという意味の生死(しょうじ)無常、そしてわれ
われ衆生は、過去、現在、未来の三世(さんぜ)にわたり因縁(い
んねん)と果報によって結ばれているという三世因果、それに六道
輪廻(ろくどうりんね)。
 この三条をよく観じなければならない。また、行入とは、至心懺
悔(ししんさんげ)、帰依三宝、受持五戒の三条を肝に銘じて実践
しなさい、ということだ。
 五戒は、殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、飲酒の五つの
仏教のいましめで、これを破ることなく、みずから責任をもって実
行しなさいということだ。

 まず、人間として生死無常の道理を信解しない者は、常見(じょ
うけん)におちいって、人の世が夢幻空華(くうげ)のごとき世界
であることを知ろうとしない。

寅さん 常見というのは、どういったことでしたかね?

ご隠居 常見とは、この世のすべての物事は、時々刻々に生じたり
滅したりして、少しのあいだもやむことがないのを知らず、目の前
のことや、自分のことのみに執着して、過去世のことも未来世のこ
とも、いっこうに気にもかけない種類の人のことを常見という。

 また、空華というのは、たとえば、かすんだ目で空を見上げたり
すると、ちかちかと花の形状のようなものが見えることがあるだろ
う? そのように煩悩によって起こるさまざまな妄想を、空華と表
現しているわけだ。

 話をもとにもどす—-。
 また、人として三世因果(さんぜいんが)の道理を信解しない者
は、断見に堕(だ)して過去から未来におよび善悪応報が歴然とし
てあることを知らない。

寅さん すみません。断見とは?

ご隠居 断見とは、人生は一回こっきり、その心身は現在だけの
ものであり、過去も未来もなく、肉体が滅すると同時に、精神も
ともしびが消えたように影も形もなく魂がどこかに消滅してしまう、
という考え方を断見という。

断常二見について

ご隠居 この断見の考え方を敷衍(ふえん・分かりにくい意味をか
みくだいて説明)して、ある人はこう言っている。
「人間の肉体は、生命や精神に仕える道具以上の何物でもない」

 また、ある人は次のように言う、「佛教では、人間の肉体と精神は
五つの要素、五蘊(ごうん・色受想行識のことで、色は物質および
肉体、受は感受作用、想は表象作用、行は意志や記憶など、識は認
識作用や意識のこと)より成っているとされる。人間の生命とは、
その五つの要素が仮に結合しているにすぎないとするあたり、現代
の科学的な生命観に近い。

 仏教のことばで「五蘊宅」というのがあるが、人間の生命と肉体
をさす。「五蘊」という建材の寄り集まった建物にすぎず、生命は
絶対的な実体ではない、とされる。「五蘊」は皆空であり、死ねば解
体して空に帰する。

 本来の仏教には、遺骨や遺髪、まして墓石に霊が宿るという信仰
はない。霊魂すら認めない。
 死ねば何ごとかが残るだろうと考えたいが、本来の仏教は酷烈で、
そういう甘ったれから解脱するのが仏教だとする—-。
 それはともかく、この断常二見断見も常見いずれもかたよった考
え方で、仏祖の正見ではないとされているが、私などにはとても難
しくてよく分からない、というのがほんとうのところだ。

 本論に話をもどす。
 また、人として六道輪廻(りんね)の道理を信解しない者は、と
うてい人間としての道をまっとうすることはできない。
 正しい人生を送ろうとするなら、この世が夢幻空華であることを
知り、三毒五欲をほしいままにしてはならないことをわきまえれば、
おのずからその身が修まり、心を慎むようになるはずである。
 さりながら、われわれ衆生の身には種々無量の差別(しゃべつ)
があって、善人に不幸のかさなることもあり、悪人に幸運のめぐり
きたることもあって、いちがいに勧善懲悪のすじみちを明らかにで
きない場合もある。
 そのように公平を欠いた不条理をも人生とわきまえて、人間相応
のおこないに徹すれば、いとうべき三悪道に堕ちることなく、生生
世世(しょうじょうせせ)まちがいなく人間に生まれてくることは
必定(ひつじょう)である。

 私(答弁者である僧侶)はあえて他方の極楽往生を望みはしない。
 ゆえに、人を天上界に、また、仏菩薩たらしめようと望んでいる
わけでもない。ただ、人をして、生生 世世 人たらしめんと欲して
いるだけにすぎないのである。

 とはいえ、私はかならずしも、人をして往生作仏(おうじょうさ
ぶつ・現世を去って極楽浄土に生まれて、ほとけになる)を否定し
ているわけではない。
 往生作仏への道程は、おのずから正しい人の道を践(ふ)みおこ
なうことのなかにあるものであって、人の道をよく践みおこなうこ
とのできない者が、どうして往生作仏できようか。いわんやどうし
て見性悟道(けんしょうごどう・一切の妄念を捨て去り仏道の真理
を悟る)が果たせようか。

 以上のごとく信解(しんげ・生死無常、三世因果、六道輪廻)が
定まれば、つぎは行入(ぎょうにゅう・実行)に移らなければなら
ない。では、何をどうすればそれらを実行できるのか。それはただ
人の道を正しくまっすぐに践みおこなうことである。つまりそれは
身口意(しんくい)の三業(さんごう・身口意によってつくる善悪
のおこない)を善にみちびくことである、、、と。

ご隠居 観音院の「まことの道」の十善戒には、わたし達の身口意
の基準が解りやすく示してあるのでよく読んで生きる規範としたい
ものだ。ところで、こういうのを寅さんは知っているかな。

 自ら仏に帰依(きえ)します。
 まさに願わくは仏の歩いた道を 体得して無上の悟りを得たいと
 心を起こしますように。
 自ら法に帰依します。
 まさに願 わくは深く経蔵に入りて、海の ように大いなる智慧
 (ちえ)が 得られますように。
 自ら僧に帰依します。
 まさに願 わくは仲間(僧伽=サンガ、僧の集まり)と和合して
 何事にもさまたげら れない心を 得ますように。

寅さん 何ですか、それは?
ご隠居 これは三帰依文(さんきえもん)といって三宝に帰依する
文章だが、この三帰依文を読む前にかならず読誦するという、たい
そう含蓄のある言葉がある。

 人身受け難し 今すでに受く
 仏法聞き難し 今すでに聞く
 この身今生(こんじょう)に
 向かって度(ど)せずんば
 さらにいずれの生(しょう)に
 向かってこの身を度せん

 人間に生まれてくるのは至難なことだが、我々はさいわいにも人
間として生きている。
 しかも仏法(ぶっぽう)というありがたい法雨にも浴している。
そういう現在ただいま、の得がたい機会をのがして、次にどのよう
な悟りの機会があるというのか—-。

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