塔婆の話

ご隠居
毎日暑い日がつづくが、元気にしているか?
寅さん
おかげさんで。元気だけが取り柄みたいなもんですから。
ご隠居
そろそろお盆がやってくるので、きょうは卒塔婆(そとうば・塔婆)の話でもしてみようか。
寅さん
卒塔婆というのは、お墓のそばに寂しげに立っている板っきれのような、あれですか?
ご隠居
板きれ、というやつがあるか。卒塔婆はサンスクリットのストゥーパの音写語で、卒都婆とも書き、塔婆ともいう。
もともと古代インドでは、土饅頭型(どまんじゅう)に盛り上げた壇や墓、塚のことを指していたようだが、お釈迦様のご遺骨をこのストゥーパに納めたところから、もっぱら佛舎利塔をストゥーパというようになったということだ。
日本では三重、五重の塔がこれにあたる。そして鎌倉時代になると、細長い板に「五輪塔(ごりんとう)」を模した切り込みをつけ、そこに梵字や経文、戒名や忌日などを記した塔婆をお墓の傍(かたわら)に立てるようになった。
これを板塔婆といって、日本でいま卒塔婆といえば、一般にこの板塔婆のことを言うようだ。
寅さん
五輪塔というのは?
ご隠居
五輪塔は、上から、球、半円、三角、円、四角、この五つの形を積み重ねてつくった塔のことだ。
この五輪は、五大、つまり宇宙のすべてを構成する五元素のことで、空・風・火・水・地を指す。その塔に、五大を意味する「去伽羅婆阿(きゃからばあ)」と、漢字か、梵字で文字を書いてお墓とした。昔からお墓はこのかたちが正式と決まっていたが、ほら、高野山の奥之院にびっしり並んでいるお墓のかたち、あれだな。
真言宗では、この五輪は佛体でもある。そのご佛体とは、ほかでもない大日如来のことだ。
密教では、地・水・火・風・空・識を六大といい、これを六大法身(ほっしん)としている。
この六大は、法界のすみずみにまでゆきわたっていて、全宇宙をかたちづくっている。そのうち五大(地水火風空)は「理」、そして識大は「智」であるとする。
五大は形があるが、識大は形がない。かたちが無いが、「識」とは、ものを感じたり、識別したり、あるいは認識するはたらきがあるから、その作用によって、ものが、はじめて物体として、そこに存在していることが分かる。その五大(理)と識大(智)をひとくくりにして六大というわけだ。
私たちの心身は、この六大によって構成されており、この世界もまた六大によってかたちづくられ成り立っている、とする。
しかし、それを形にして示そうとしても、識大はかたちにしようがないので、これを五輪の形にしてあらわし、それに空風火水地の文字を記すことになったという。
――五大と五佛(ごぶつ)――
寅さん
そんなもんですかね。
ご隠居
地水火風空とは、また、五佛五智のことでもあるな。
寅さん
へえ、それにしても五大は応用範囲がひろいんですね。
ご隠居
五佛は、中央に大日如来、東に阿閃(あしゅく)如来、南に宝生(ほうしょう)如来、西に阿弥陀如来、北に不空成就(ふくうじょうじゅ)如来であって、五智はこれら五如来のそれぞれに配当される智慧(ちえ)のことだ。
大日如来から順に、法界体性智(ほっかいたいしょうち・清らかで明確な絶対真理の世界)。 阿閃如来の大円鏡智(だいえんきょうち・鏡にものが映じるように、あらゆるものをありのままに認識する清浄なる智慧)。
阿弥陀如来の平等性智(びょうどうしょうち・自他や対立するもの、一切の諸事象の平等をさとり、大慈悲と結びつく智慧)。
宝生如来の妙観察智(みょうがんざっち・あらゆるものの区別を詳細に正当に観察する智慧)
不空成就如来の成所作智(じょうしょさち・自己と人々を利益(りやく)するために種々にはたらきかける智慧)というわけだ。
だから、五輪の切り込みのある卒塔婆には、五佛五智を拝むのとおなじ気持ちで接することが大切だし、それに漢字か梵字で書かれている「去伽羅婆阿」は、地水火風空の五大の意味であることを知るべきだな。
寅さん
ご隠居の話の腰をおるようですが、近頃はあまり卒塔婆を見かけませんね。せいぜい時代劇か何かで、うらさびしさを感じさせる村はずれの点景ぐらいの扱いになっています。
ご隠居
たしかに最近、卒塔婆を見ることは少なくなったな。
昔、お墓に卒塔婆をたてて供養していたころ、そのなかには我が家は日蓮宗だ、浄土真宗だからと、卒塔婆に「南無妙法蓮華経」とか「南無阿弥陀佛」などと、思いおもいに書いていたが、あれは自分の家の宗旨にこだわっているだけで、正式ではない。
寅さん
どう、正式でないので?
ご隠居
五佛いらっしゃるのに、一佛だけ、えこひいきすることになるからだ。かといって、卒塔婆に真言宗の思想、五佛五智五大を表記するからといって、それを真言宗の専有と考えてはいけない。
お念佛やお題目が浄土真宗や日蓮宗などの専有でないのと同じことで、「念佛」というものはすべての宗旨が共有するものであり、「座禅」もまた、禅宗の専有物ではない。
したがって卒塔婆には、何々の宗旨に関係なく五佛五大を表記して諸佛を供養し、あわせてご先祖のご加護をほとけさまにお祈りするのが正しい、とされている。
そして、ご先祖の冥福(めいふく)をほとけさまにお願いするのだから、梵字の筆格もよく知らずにあやふやに書いたり、なぐり書きの漢字で書いたりせず、「空風火水地」もしくは「去伽羅婆阿」と、きっちり楷書で書き、そのあとにお経の文句や法名戒名を書くべきだとされている。
このようにして昔は、本地法身法界塔婆(ほんじほっしん・ほうかいとうば)であるところの佛体を作って、ご先祖の供養のために建立した。
ご先祖はその功徳(くどく)によって、苦界にあるものは苦界を脱し、極楽にあるものは、ますますその楽土が荘厳されて、かぎりない佛果を得ることができた、と卒塔婆の功徳をたたえてきた。
――一切経を百遍転読(てんどく)――
寅さん
つまり、ご先祖の墓の横に卒塔婆を建てて、ほとけさまを誘致した、こういうことで?
ご隠居
そのとおり。「法華経」の方便品(ほうべんぼん)にも、「もし曠野の中において、土を積んで佛廟(ぶつびょう)と成し、乃至(ないし)、童子の戯れに沙(すな)を聚(あつ)めて佛塔を作る、かくの如きの諸人等、皆すでに佛道を成(じょう)じたりき」と説いているように、たわむれに作った佛塔ですら、このような功徳があるとすれば、厚い信仰心で塔を建てて供養する者は、どれほど功徳があるかはかりしれない、とされている。「大日経」には、「一見卒塔婆、永離三悪道、何況造立者、必生安楽国」とある。
意訳すると「ひとたび卒塔婆を見れば、永く三悪道を離れる。いわんや、それを造立した者は、必ず、安楽国に生まれる」とあり、また、尾張の諦忍(たいにん)という僧が書いた「卒塔婆用意鈔」には、こうある。
「いま世間の寺院において用いる所の卒塔婆は、もと真言家に拠る。覚鑁上人(かくばんしょうにん)の十種の釈に曰く、卒塔婆の大日遍照は一身、十方諸佛の共体(ぐたい)なり。ここに因って造立し供養する人は、功徳法界に満ちて善根虚空に遍(あまね)し」
つまりこれは、覚鑁上人が密教の理趣(りしゅ)によって五輪塔婆の功徳を書かれたものだ。おもなものを要約して紹介すると、
  • 一つ、五輪塔婆は、五佛五智の諸尊の形を造立することであるから、つまりは大日如来と十方諸佛を供養することになる。
  • 一つ、卒塔婆はすなわち法界の塔であるから、十方諸佛の舎利塔を建立供養したことになる。
  • 一つ、いずれの宗旨も、ことごとくこの五輪の中におさめられているために、あまねく十方三世、顕密大小(顕教と密教、大乗と小乗)一切の佛法を流布することとなる。五輪はまた、去伽羅婆阿つまり五大のことでもあるから、もしこれを一遍誦(じゅ)すれば、すなわち一切経(いっさいきょう)を百遍転読したにひとしい。
  • 一つ、自利利他(己を利益し、人々に功徳利益を施して救う)の因、身口意三密の修行はすべてこの一法に集約されているので、卒塔婆の造立は、一切衆生を利益し六波羅蜜を修めることになる。 
  • 一つ、この卒塔婆は、法界にまします諸佛の拠る地でもあるから迷わず十方の浄土に至る道を示し念願どおりに往生できる。
  • 一つ、頓(とん)に三妄をたちすみやかに五智を証す。五佛は五智であり、五智はよく無明を断つ。
卒塔婆を建立供養すれば、かくの如き功徳をすみやかに成就する。小さな善行で大果を得る要諦(ようたい)である、としている。
寅さん
なるほど。ご隠居の話だと、卒塔婆は死者をとむらうというよりも、むしろ、ほとけさまの供養のほうに重点がおかれていたわけですね。
――天人になった長者とその妻――
ご隠居
卒塔婆にまつわる面白い説話が「雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)」というお経のなかにある。それをひとつ話してあげようか。
寅さん
聞かせてください。
ご隠居
むかし、インドの舎衛国(しゃえいこく)という所に一人の長者がいて、塔寺を建立した。
ところが、長者はそれからいくばくもなくして亡くなり、長者の霊魂(れいこん)は天に昇ってとう利天(とうりてん)という天人として生まれかわった。
長者である夫に先立たれた夫人は、日がないちにち、死んだ夫を追憶(ついおく)して深い悲しみに沈んでいたが、いつまでたっても夫への追慕の情と、未練(みれん)を断ち切ることができない。
で、こんなに恋恋とした毎日を送っていてはきりがないと、ふと気がついた夫人は、亡き夫の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うことによって、これからさき生きるはりあいにしようと、生前、夫が建立した塔寺の手入れや掃除に精を出すことにした。
さて、すでに天人(てんにん)になっている夫のほうは、どこへゆくにも飛行は自由自在だし、天眼(てんげん)もそなわっているから、下界の人間たちのことはすべてお見通しである。
いまは未亡人となった妻が、自分が建てた塔寺を丹精こめて守り、塵ひとつなく、きれいに拭き清めてくれる彼女の心根をいとおしく思って、あるとき、妻のもとへ天から降りて言葉をかけた。
「おまえは、亡くなった夫のことを忘れることができないから、そんな悲しげな顔をして、ふさぎこんでいるのか」
「あなたは、いったい、どなたさまです?」
「わたしは、おまえの前世の夫だ。わたしは生前、塔寺を建立したその因縁功徳でもって天に昇り、ありがたいことにとう利天に生まれかわることができた。
そして、天から下界を見ていると、おまえが今もってわたしを追慕し、わたしの菩提の供養のため塔寺の荘厳(しょうごん)に意をもちいてくれているので、いま、こうしておまえのもとへやってきたのだ」と言った。
すると、夫人の憂い顔がぱっとかがやいた。
「そうすると、わたしのまごころが、天にいるあなたのところまで届いたのですね。うれしい。それでは今宵は久しぶりですから、さっそく以前のように一緒に仲良くやすみましょう」
と喜んで、手を取らんばかりに夜具の支度などにとりかかったが天人の夫は首を横に振った。
「それはできない。天界では、人間の身体は不浄なものとして、われわれ天人は人間と接してはならないと固く禁じられているのだ。
しかしながら、おまえがふたたびわが妻になることを望むなら、これからも努めて佛教の僧を供養し、塔寺を今いっそう荘厳して、己が自身、天に生まれることをねがうがよい。
もし、天に生ずることができたそのあかつきにおいて、わたしはかならずおまえをまた、わが妻とすることを約束しよう」
夫人は、天人の夫の言葉を聞いて、それより以後、さらにたくさんの善功徳を積んで、天に生まれることを一心に祈願した。
そして歳月がながれ、夫人は天寿をまっとうしたのち、ついに念願の天に生まれることがかない、夫との約束どおり、天界においてめでたく夫婦となることができたのであった。
あるとき、天上で結ばれたこの夫婦が、ともに手をたずさえて、ほとけのみもとをたずね、われら夫婦に法をお説きください、と乞(こ)うた。そこで、ほとけは、幼い子どもにおとぎ話を聞かせるように、小乗佛教を分かりやすく説いてお聞かせになった。
ために夫婦は、声聞(しょうもん)のさとりの境地を得、喜々として天上へ帰っていったという。
この話は、はじめは夫婦間の愛欲の有漏善(うろぜん・煩悩に迷って、さとりをひらくことができないこと)でもって幸せを求めたが、そのことが「かけ橋」となって無漏聖道(むろしょうどう・さとりへの道)にはいるきっかけとなった説話、とまあ、そういうことだな。
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