四月末からの五月連休は多忙な憂鬱

法主さんはとても優しい人です、相談にも丁寧に乗られます。連休中には転職したいとか、死にたいという相談は大変な人数です。それでなくても、死にたい相談は常時三百人は抱えておられます。親族の心配も悲痛も虚しく約二十人は本当に自殺されます。相談を受けると電話を受けられると、即座に面談に行かれます。お会いして面談でないと、確実に相談に乗り、前途に光明を点すことは困難だそうです。

 観音院の信徒さんは約十万人ですから、千人に一人は現世に絶望しておられる人で、日本全体では年間三万人を超える人が自殺されるそうですから、法主さんは世間のお役に立っておられるのかも知れません。

 欝気味、引きこもりで実際に自殺される人は少ないそうです。失業、倒産や脱税、セクハラの関係者の急に思い立たれた自殺願望が危険だそうです。

 人は、一生涯に一度や二度は自殺を考えるような事は誰でもあります。

 さりとて日々三百人の自殺の相談がある訳ではありません。お話をすると止(とど)まられる方が多いそうです。

 法主さんのお話は「生きていれば、必ず良いこともある」というのが結論ですが、お会いしただけで相手に安心されるような何かをお持ちなのでしょう。

 観音院の職員には守秘義務がありますので、話の内容は絶対に伺い知ることは不可能です。何も存じません。

 夕方から朝まで祈願を続けられる事も珍しくありません。法主さんはみ仏さまのご加護を願って居られるのです。

 朝夕、深夜には気温もまだ相当冷えますのでとても心配します。

 毎日主治医のところへ通われて注射を受けておられるので医者頼みです。

 お食事は質素に原則ご自分で作られます。掃除、洗濯などもご自分のことは自立してなされます。

 法主さんの特筆すべき事は、決断が早いことです。物事を「仏縁」で考えておられるらしく、仏縁が無いと思われると大切な物でも大切な人間関係でもバッサリと記憶から削除されます。

 融通無碍、自由自在ですが、仏縁の範囲内です。優しさも仏縁の範囲内でしか有り得ません。

 物欲は全くお有りではありません。五十二歳で住職を引退されたのはその良い例です。物を紛失しても、警察に届けられません。調書や裁判に出られることを、時間の浪費と考えられているからです。

 必要な物は、何故か、何時の間にか、調えられてています。不自由を感じない環境です。だから物欲はありません。

 お寺は浄財で成り立っています。皆さんのご支援で護持されています。

 法主さんはメールで祈願を依頼されても一心に拝んでおられます。浄財の有無には拘泥されません。

 お金をご自分で扱われることを嫌悪されています。

 外出から帰られると、両手を捲り上げて、薬用石鹸で外科医さんの手術前のようにゴシゴシ洗われます。嗽(うがい)は日常的な行為です。

 ビニル手袋は日常携帯品で、汚れを見つけると、即座に綺麗にされます。観音院のトイレは常に日本一綺麗であれと言われます。

 台所の配膳の際も直前に両手をよくよく洗わないと、食事をされません。

 外出の際には、除菌ティッシュやビニ手が必携です。

 ご自分のことは、出来る事は何でも自分でされる、他人や身近な人の手を取らない生き方をされます。

 さりとて執着もされません。例え、善事であっても執着することは、悪事をする事よりも悪いとお考えですから、自然体です。

 テレビのニュースは朝夕の七時頃、CNNくらいを見ておられます。連続ドラマは見られません。テレビに拘束されるのが困難なのです。それに夜は九時には休まれますので、それ以後の番組には無縁なのです。

 今年度から職員の就業時間を朝九時から夕方の四時にされました。受付は九時から午後四時となります。

 受付のシャッターは、朝八時に明け、六時に降ります。年中無休ですから、体力の限界を考えられたのでしょう。年中無休では健康が保てません。

 もちろん枕経、通夜や葬儀は何時でも受付ます。緊急な事は先ずお電話ください。ご協力をお願いいたします。

 法主さんは無一物です。家族も親戚付き合いもありません。唯一、子供のころから可愛がって下さった叔父さんだけです。

 他は信徒さんと全く平等です。去る者を追わない、特定の人に執着されない、特別な関係は持たれない、信徒さんにとても優しいのに、見事なほどに個人的な付き合いを避けておられます。

 知り合いの自慢、関係する力などに支配されておられません。

 み仏さまと同じです。仏像とあまり大きな相違はありません。法主さんはみ仏さまとの中で存在されています。

 花見とか湯治、お正月など民間で行われる日常生活と根本的に異なります。

 祈願とか供養とか、そのような依頼は命がけで受けられます。人様との付き合いはその範囲です。世間話には全く関心を持たれません。

 交際を発展させようとか、信徒さんを増やすことには関心がありません。

 世のため人のためにならない寺院は存在する必要が無い、僧侶についても全く同じ考えです。

 頼りたい人、好意をもたれる人は、口に出したら、お仕舞いです。心ので思われるのが宜しいかと存じます。

 寺の維持運営とか、大きな寺を建てよう、そのような発想は聞きません。

 時に似たようなお話をされますが、想像を超えたご希望ですから、話題が続きません。

 本当の慈悲とは、このようなものかと思うこともあります。

 喜怒哀楽怨讐の感情はお持ちでありません、平等とか、愛はこのようなものかも知れません。

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