善に執着するは悪事を為すよりはなお悪し

この一年は激動の年でした。今年も沢山ありそうで。高速道路が安くなて、やがて高くなって、子供手当てが貰えるようになって、財源が何処にあるのか分からない。米国との安保条約は前政権の約束したものだから、現政権は関係無いと言わんばかり。アメリカも大変だ、最近は、迷走する政権が世界のあちこちにあって。各国がこんなにごった煮になると、国連もいっそのこと解散すれば円満かも。約束を破るのは泥棒の始まり。どこの国も借金だらけ、返済出来ないと嘘吐きの始まり。外国のことはさておいて、民主党はこんなに支持率下がって政権維持ができるかなあ。影の首相?の小沢さんは検察審査会で起訴相当と決め付けられて、これで参院選は上手くいくのか–。本当に訳の分からない馬鹿な事がまかり通りまして、ほとほと感心しております。
観自在編集部
 最近も百貨店入り口あたりで「お願いします、□□のために」と立ち塞がるように呼びかける寄付金集めのグループがいるけど、この人たちも率先して寄付の幾許かしてるのかと疑問を持ちます。街頭寄付金集め、街頭署名は禁止して欲しいですね。無視するのも気がとがめるし、あんなに再三やられていると、普通の通行人には迷惑。

 最近はインターネットと言う便利な道具もあるのだから、そちらに切り替えても良いのでは。入金支出も明確。

 ハイチの地震、チリの地震、法主さはその都度応じておられましたが、チベット地震で息が切れられたようです。

 寄付を集める組織は、公認会計士の監査した会計報告すべきと言われます。

 臓器移植の寄付金集めて夜逃げした幹部もいますし、街頭募金や署名はよく用心するようにしましょう。

 定款の無い会、会計を公開しない会、議事録が無い組織はインチキです。

 話は変りますが、霊園商法は一つの寺を維持するには最低五百戸の檀家が必用です。墓が四百くらい設置されていたら大丈夫でしょうか。それ以下だと毎年厖大な赤字、借金苦でその寺の僧侶は胃潰瘍か何かで苦しんでます。

 観音院は毎日三座法要を執行しています。拝まない僧侶は悪魔の手先、日常の過ごし方の相談に乗れない僧侶は僧侶の素質も知恵も無い偽坊主です。

 観音院は住職が日切地蔵さまの前の参籠堂を永代供養をする家族に恵まれない方の納骨供養堂を建設されるとか聞きましたが、寄付は求めません。

 永代供養三十年で十万円というような商売と紛らわしいことはしません。

 観音院には定価の付いた物は一切ありません。月刊「観自在」は年間二千円とされていますが、ご祈願ご供養料に含まれています。

 若し二千円で販売すれば完全に挫折します。「観音院での供養と祈願のご報告」として配布しています。これ何とか外したいと考えていますが、第三種郵便物の必用な要件なのです。配達料が定価を記入しないと六十五円から百八十円になります。購読料なんて問題にしていませんが困った問題です。

 観音院は経理を公開し、運営は信徒さんと相談して決めます。おかしなことをしたら法主さんの逆鱗に触れます。

 先日、心臓の精密検査をしたら血管が細くなって、手首の動脈からステントを入れる手術をされましたが、心筋梗塞を防ぐ予防的措置です。もし医師からステントを入れることを勧められたら、怖がらずに手術を受けて欲しいと話しておられます。一日くらい両手が不自由でが、痛みは皆無です。三泊四日のメンテナンスです。これで二十年は寿命が延びたかなと言っておられました。病室には胎蔵界と金剛界曼荼羅が祀られていました。

 法主さんは必要があればみ仏さまの御心のままに、と安心しておられますから、怖いものが無いのでしょう。

 若しこの浮世から去ることがあれば、「所願成就の縁日」にせよと仰せです。葬儀無用、日常法要の一座で送れと申されていて、住職さんの日切地蔵さまの前に新設される合同合祀の墓に入れららることを願って居られます。

 これは日常法要を軽く見て居られるのでは無く、日々の法要を大切に執行されることを願っておられるからです。

 あの世に行って、万一迷うようなら私が逝くのを待ちなさい。知ってる人が全部「密厳浄土」に逝かれるのをお待ちしてご案内して、一番最後に自分も赴くと言われています。

 死んで「お花畑」に往生したいと願われる人もいますが、これは造花のお花畑です。「花」が綺麗に咲くのは実をつけるためです。

 ハップル望遠鏡で観察しても、地獄も極楽も有りません。つまりは、来世もこの世にあると考えておられます。転世輪廻をより良く保証したいと願われています。人を愛することも、子孫繁栄を願うのも、愛国心も現世を大切に思う事から生まれて来ます。
「密厳国土」は大日如来を教主とする極楽のことで、大日如来は太陽を顕しているみ仏さまです。

 太陽の無い世界は、生き物の絶えた永遠のブラックボックスの世界です。

 親鸞聖人が「彼の地には女人はおわさず」と言われた世界を、俗に極楽と称しています。あなたは異性の居ない世界に逝きたいと願われますか。

 阿弥陀如来さまのお慈悲である「変成男子」の法によって全部が男子に成られて極楽に逝かれる、女性蔑視の世界です。全身が黄金になって、永遠に有り難い説法が聞くことが出来る、動物も居ません。時間が無ければ、成長も失敗も無い世界、春夏秋冬もありません。人間関係皆無の世界に仏となって昼夜も無い世界に逝って、このような環境に耐えれる人は皆無です。

 善人も悪人も隔てなく往生できる世界は相当残酷です。望まれるなら各人の信仰は憲法で保証されていることですからご自由に選択して下さい。

 無宗教の葬儀をなされるのも音楽葬も選択の範囲なのです。

十善戒を「幸福の基準」にするのも良いけれど、冷蔵庫に入れて、時々出して賞味するのが宜しい。

 不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見、を守るのは、最高だけど、私なんか、それに加えて禁酒禁煙だから、やったらいけないことだらけ。最高の香の伽羅は毎日焚くより、たまに焚くと何とも言えない幸せに包まれる。

 むしろ、私のやってることは「時々十善」の話をして、「それで善しとする」ことが多いような気がします。

 大の大人が禁酒するだけで、相当に世間が狭くなる。禁煙のほうは最近は社会的には楽になりました。

 アル中は交通事故になったりすると生涯を棒に振る。煙草は火事を起して、付け火で焼け太りという事もあるし、おかしな火事だったらこれは徹底して法律に叩かれる。まあ、保険金なんて貰おうと考えること自体が馬鹿げているな。こんな事は成功しても相当良心が咎(とが)める。

 さりとて、十善戒を守ると、誠実で真面目で、それにガチガチのイメージがついてしまい、煙たがれる。

 十善戒護持・禁酒禁煙なんて、まあ馬鹿の一種ですが、しかしこれを持ち続けることによって「いたわり、慈しみ、思いやり、相手の立場で考える」というような二宮尊徳が出家したような人格になります。

 ある意味では「十善これ菩薩の道」と言われるような深い意味もあります。

▼日本の仏教の堕落は、僧侶が戒律を捨ててしまったことに原因があります。

 戒律を持たないのは、普通の人と何ら変らなくなったことを意味します。「深い慈悲」は「十善を持つ事から生まれる」と言っても過言ではありません。

 いたわりも同様、慈しむ心も同様、思いやりも、相手の立場で考えることも、同様です。

 十善は「人の道」と言っても過言ではありませんが、実行は困難と考えることに、悲劇があります。

 内容は、キリスト教徒の十戒とほとんど変りませんが、これを行動の規範とするか否かが仏教徒とキリスト教徒の相違となるかも知れません。

 仏教徒の緩い、ふらふらとした考えはここらに原因が有るか知れません。

 仏教徒は、ある意味では無宗教の人たちかも知れません。人が死んでも、送るにあたり、無宗教葬やら散骨やら、炉前葬やら、こんなことは無神論者以外はあまりやりません。

 「送られる人」の立場は全く考えられていないような考え方が、背景にあるように思います。

▼先日、心臓の環状動脈にステントというステンレスを筒状に編んで、血管ない経由で腕の手首あたりから入れて、血管を広げて留置すると言う手術を受けました。勿論成功しました。

 日常無理をしてますので、何時心筋梗塞があっても不思議ではありません。

 今月の中旬には大腿部動脈に入れる手術を受ける予定です。右手首の動脈から2mmカテーテル3mmのカテーテルを入れて肩を通って患部に当たると運が良いと、そのままカテーテルを入れますが、場合によるとブロック部分が灰質化してる場合があります。

 この場合はカテーテルがドリルの歯を入れてあなを明け、そこにステントを入れたりすることも考えられます。

 よく手術する医師は、大量の放射線を受けますので、目が白内障になったり、甲状腺に問題が起きたり、命掛けの手術になります。

 私が手術を受けるのは、不殺生の考え方ですが、多分十年か二十年は寿命が延びるでしょう。然し、医師の献身的努力があって実現が可能になります。

 このような手術を勧められた時は、特別なことでは無く、普通のこととして受けとめるのが宜しいですね。

 従前にパルクスという血管拡張剤の投与を受けましたが、足が三十センチ上がらなかったりしていたのが、帰りは杖を忘れるくらい、車の運転ができるくらいに即効的回復をしました。

▼慈悲を考えることは、十善戒を実行することは、宇宙の大きさや時の流れ、各太陽系の観察や比較を考えるくらい複雑で困難なことです。

 然し、この生命体のある地球においてこのような時の流れやら宇宙の大きさ、時間の流れをこえて、かかる考え方が生まれたことは、素晴らしいことだと思います。

 百千万劫にも遭遇することが難しいと言われる現在に生を受けて、無上の甚深たる微妙法に会いて、今、見聞し、受持することができた、のですから、願わくは「如来の真実の義」を得たいものですね。

 観音院の文章はテキストですから、得るに易しく、検索エンジンもほぼ完備しています。

 皆さんも、是非これらの機能を駆使されて勉強し、考えてみて下さい。

 今ほど世間で物事を比較し検討する易しい手段が用意された時はありません。コピーし張り付けて多くの考え方を比較検討してください。

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