合掌は心のあらわれ

寅さん 私たちがほとけさまを拝むとき、ごく自然に合掌しますが、
あの合掌のかたちにはどんな意味が含まれているんでしょう?

ご隠居 人と人が会えば、挨拶(あいさつ)を交わして円滑(えんか
つ)なコミニュケーションをはかる。そして相手を敬う気持ちをより
強く表そうとすれば最大限礼儀にかなった拝礼のかたちをとる。

 その拝礼のかたちが古代インドでは合掌だったわけだ。インドの
人々は右手を神々に通ずる神聖な手とし、左手を不浄な手として日
常生活でも使い分ける習慣が現代でもある。
 その両手を合わせることは人間のなかに在る神聖な面と不浄な面を
合一したところに人間の真実のすがたがあると考えていた。

 仏教では、右手がみ仏さま、左手が自分を表すとして、合掌すると
き、み仏と一体になるような感じ、精神を集中し、戒律を守る心構え
を感じることができる。

 これが中国では、両肘(ひじ)を胸の前で重ね合わせて拝礼する
拱手(きょうしゅ)であり、日本では相手の前で座して、両手を床
か、畳につけて、平伏するのが、昔からしきたりとされている。

寅さん なるほど。合掌が古代インドの礼儀だったから、それでほ
とけさまを拝むのに手を合わせて合掌するわけですか。

ご隠居 だから私たちが日本古来の神様を拝むばあい、ほんらいは
合掌はしないのだが・・・。
 神前ではやはり柏手(かしわで)をうつ。仏教に「拍掌(はくしょ
う)」という作法があるが、神前で打つ柏手の起源でもある。

 合掌は他の宗旨でもなされるが、仏門における恭敬(くきょう)、
この上ない礼儀というわけだ。

 どうして合掌がきわまりなく恭敬かという理由を智者大師(ちし
ゃだいし・天台智ギ・五三八年ー五八七年、天台大師とも称される)
は「観音義疏(かんのんぎしょ)」でこういっておられる。
「中国では、手を拱する(拱手)をもって恭(うやま)いとなし、
外国(とつくに・天竺)では掌(たなごころ)を合する(合掌)を
もって敬いとなす。両の掌を合わせてひとつとなし、それによって
心のみだれをしずめ、専ら一心に至ることを表す。一心相当するが
故にこれをもって敬を表するなり」

 つまり合掌は、心の柔和で敬虔な心情を表し、一心不乱な人間の
美しい姿を最もよく表しているものといってよいだろう。

「釈氏要覧」に、こうある。
「もし、指を合して、たなごころを合わせない者は、心がおごって
謙虚でなく、気が散って精神が不安定だからである。合掌はすべか
らく指掌とも必ず相着けて虚心でなければならない」とな。

寅さん へえ、合掌の仕方ひとつにも、その人の性格があらわれる
とは知りませんでした。

ご隠居 禅宗の赴粥飯法(ふしゅくはんほう)というのに合掌の法
を示したものがある。それには次のように書かれている。
「合掌は指頭まさに鼻端に対すべし。頭(かしら)垂るれば指頭下
がる。頭直(ちょく)なれば指頭も直なり。頭もし少しく斜めなれ
ば指頭もまた少し斜めなり。その腕をして胸襟(むね)に近づける
ことなかれ。その肘をして脇の下に着けることなかれ」とな。

 合掌や礼拝(らいはい)などの儀礼や礼拝作法は、宗派や時代の
変遷とともに、丁重に整えられたり、世間に普及したりしているが、
ようするに敬う心が大事だ。
 合掌は「十二合掌」といわれることもあり、堅実心合掌・虚心合
掌・帰命合掌・金剛合掌などといわれるものがあるそうだ。
 両の指と手のひらをきちんと合わした合掌は堅実心合掌といわれ、
お浄土に咲く蓮のつぼみのような形を表した手指の形の合掌は未敷
蓮華合掌といわれる。
 金剛合掌は帰命(きみょう)合掌ともいわれ、八十八カ所巡礼や
高野山にお参りする時によく見られるが、左右の指先を交差させて
手を合わせ、神仏との結びつきをいっそう強く感じさせる。

仏像の起源

寅さん そのほとけさまですが、いま私たちが目にしているような
ほとけさまのお姿、つまり仏像になったのは、いつごろの時代なん
です?
ご隠居 「釈門事物紀原」という書物によると、「中国の後漢(西
暦二五ー二二〇年)の明帝(めいてい)が夢に金色にかがやく偉丈
夫(いじょうふ)を見た。しかもその頭の頂は日輪のごとき光りを
放っていた。
 不思議に思って明帝が夢のなかで見た金人の話をすると、傅毅と
いう者が、それはきっと天竺において尊い法を説かれた”ほとけ”
というものでございましょう、と言上した。そこで、明帝は使いを
遣わして、ほとけのお姿を写し描かせた」と書かれている。中国に
おける仏像づくりはこれが最初とされている。

寅さん するとインドにはすでにほとけさまの姿を造形した仏像が
有ったことになりますね。

ご隠居 うん。釈尊ご在世のとき、お釈迦さまがある夏、刀利天
(とうりてん)に昇られ、お母さんの摩耶夫人(まやぶにん)のた
めに説教をされている。
そのお姿を優填王(うでんおう)が毘首羯摩(びしゅかつま)に命
じて釈尊の像をつくらせたのが、いちばん最初の仏像とされている。

 一方日本では、欽明天皇十四年(五五三年)夏五月、溝辺直とい
う者が海の中に玲瓏(れいろう)とした樟木が浮かんでいるのを見
た。あまりに美しいので、これを持ち帰って天皇に献じた。よって
工匠(たくみ)に命じて仏像を造らせた、と日本書紀に記述してあ
る。つまり木彫りの仏像だ。
 すこし時代が下がって、「推古天皇十三年四月朔日、天皇、太子
及び諸王諸臣に詔(みことのり)して、共に同じく誓願(せいがん)
を発して、はじめて、銅と繍(ぬいとり)との丈六(じょうろく・
一丈六尺)の仏像各一躯を造らしむ。すなわち鞍作鳥(くらつくり
のとり)といえる者に命じて造仏工となせる—-」と日本書紀にあ
る。これが日本で造った銅の仏像と、布による繍像(しゅうぞう)
の始まりということだな。

ほとけさまの指

寅さん 仏像を拝見すると、だいたい どの ほとけさまも指でいろ
んな形をつくっておいでですが、あれにはいったいどのような意味
が含まれているんでしょうか?
ご隠居 仏法は自らの身口意(しんくい)の三密が相応じ、調和し
ていることが大事とされている。仏像が示される、あの指のかたち
は、身密のなかの結印または印契(いんげい)といわれるものだ。

 阿弥陀さまや大仏さまの独特な指の形は、仏さまの悟りや智慧、
慈悲のあり方を示しておられる。
 宗教的な踊りにある手指の形や、礼法・作法の手や握り拳の形な
どにも大きな影響を与えている。

 いずれにしろ、仏菩薩は立像、坐像をとわず、そのほとんどが指
でなにか印を結ばれている。例を挙げると、法界定印(ほっかいじ
ょういん)、摂取(しょうしゅ)の印、転法輪(てんぽうりん)、
施無畏(せむい)、与願(よがん)の印などが代表的な結印だ。
 この結印は仏菩薩だけにかぎらず、われわれ衆生が印を結んでも
いっこうにかまわない。
 一部は観音院の常用教典「まことの道」にも載っている。
 とくに即身成仏を唱える私たち真言宗にあっては、わずかに結印
の一つによって成仏の義をあらわすことになるからだ。慈しみを手
指の動きにこめることができる。
 したがって、たとえ衆生であっても、身口意の三密がぴったりつり
合い調和すれば、あるいは諸仏の境界(きょうがい)をあらわさない
とも かぎらない、とされている。
「慈氏修法」にはこうある。
「もし、この法を奉持(ぶじ)する者は、凡夫にあって未だ煩悩
を断ぜずといえども、法力をもっての故に、所作のところにした
がって、彼(か)の聖力に等(ひと)しゅうす。もろもろの賢聖、
及びもろもろの天龍八部(仏法を守護する八種の天、竜神)一切
の鬼神を駆使(くし)するにみなあえて違(たが)わず、法印の
力 不思議なるをもっての故なり—-」

 このように、身口意の三密が仏と相応し、印を結べば、あるいは
火のなかであろうと刃(やいば)の上であろうと容易に渡ることが
でき得る。仏法の霊験の不可思議さは私たちの想像をはるかに超え
ているようだ。
 したがって、仏教を信じ仏法を行ずる者は、仏像を拝見するにも
ただ漫然と、いい加減な見方をしてはならない、ということだよ。
仏さまの慈悲や威厳に満ちたおすがたを自分の心に刷り込むように
拝することが大切だ。

三千世界を救う鐘

寅さん お寺で読経をするさい、大きなカネを叩いたり、木魚(も
くぎょ)を打ちますが、あれはどのような意味があるんです?

ご隠居 祇園精舎に鐘があったらしいが、鐘は僧たちの修行や団体
行動の合図に使われたらしい。
 また、磬[けい、金属・石・玉(ぎょく)製などがある]という
導師が用いる法具があるが、古代の中国では音楽が尊ばれ、仏教に
採り入れられたらしい。これを唐音で読むと磬(きん)といい、
この場合は金属製の鉢形のもので大磬(だいきん)、磬子(きんす)、
引磬(いんきん)、御リン、「打ち鳴らし」といわれたりする。

 「増一阿含(ぞういちあごん)経」にいわく、鐘を打つときは、
一切悪道のもろもろの苦しみを、みな停止することを得るなりと。
また いわく、鐘を打つときは三悪道の一切の苦しみ悩みを停止し、
五百億劫(おくこう)の重罪滅して、悪魔を降伏(ごうぶく)し、
結使(けっし・煩悩)を除きつくす云々—-。

 また「倶舎論(くしゃろん)」のなかに、「臨終に、善念を生じ
させながら死をむかえさせることができるために、鐘を打ち、磬を
鳴らせば善心を引き起こす故に—-」とあるから、
無常鐘(むじょうしょう)として 厳粛な、葬礼や法事のときに
用いるのがいちばん理に適っているものなのだろう。

 人間がこの磬鐘のひびきを聞くとき、鐘の聞こえる距離はおよそ
知れた範囲内だけど、その実際は三千世界(仏が教化される世界・
全宇宙)にまでひびきわたり、無間地獄(むけんじごく・阿鼻)の
底までも聞こえるというものだそうだから、三悪道の衆生はこの鐘
の音を聞いて苦痛を忘れ、諸天 龍王 及び 諸仏 諸菩薩 はこれを
聞いて、その法楽を倍増される。
 さらに読経のさいの磬鐘のひびきの、その効力によって、法会の
道場などに多くの善意と行者が集まるともいわれる。

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)と木魚

寅さん 木魚のほうは?

ご隠居 木魚の起源については、諸説があるようだ。
 一説によると、師の教えに背いた弟子僧が報いを受けて、大魚に
姿をかえられた。しかも背中に大樹が生えたので、海のなかを風浪
にあおられて、泳ぐこともままならない。
 弟子は、苦しさに堪(た)えかねた末、師僧に懺悔(さんげ)
して、その背中に生えた木を伐(き)ってもらい、それでもって
法器にしたのが木魚の起源だというのだが、どうもこれは後世の
作り話のようだな。

 また一説では、これは玄奘三蔵が話の進行役として登場する。
 天竺からの帰途、玄奘(げんじょう)三蔵法師が蜀(しょく・現
在の四川省)の桟道(さんどう・険しい崖などに木をかけ渡してつ
くった道)にさしかかっている時、一人の土地の長者に行き会った。
 長者にはまだ年端もゆかぬ幼子がいたが、その子の母親はすでに
亡くなり、可哀相に、長者の後添えの継母にたいそういじめられて
いたそうな。
 ある日のこと継母は、長者の不在を見計らって、とうとう幼児を
高所から川に突き落とし殺してしまった。
 おさな子を失った長者は悲嘆(ひたん)に暮れ、在所の寺の僧を
請じて ねんごろに供養していたが、たまたま高名な三蔵法師が
この地を通ることを知り、喜んで屋敷に迎えいれたのであった。
 長者はさっそくご馳走を次から次へと運んで歓待にこれつとめた
が、案に相違し、三蔵法師はなぜか箸を取ろうとしない。
 何か三蔵法師の気分をそこねる粗相(そそう)でもしたか、と気
を揉んでいると、
「わたしは長途の旅で、たいそう疲れておりますので、このような
精進料理ではなく、できましたら魚肉をいただかせてもらいたいと
存じます」
 一座の者は大いにおどろいた。
 世に聞こえたこの名僧が、こともあろうに、なまぐさものを食し
たいというのだ。
 長者があわててその支度を言いつけていると、三蔵法師はそれに
かぶせるように、「それもできるだけ大きな魚でないとだめです」
と念を押した。
 そんなやりとりがあったあと、座敷に運びこまれた大魚が割かれ
た。するとどうだろう。
 継母に川に投じられ、死んだとばかり思っていたこの家の幼児が
魚腹の中で元気な泣き声をあげていたのであった。
 長者はもとより、屋敷のなかは喜びにつつまれた。
 玄奘三蔵が静かに口を開いた。
「この子は夙世不殺(しゅくせふせつ・さきの世から死なない宿命)
を持するが故に、いま大魚に呑まるるといえども死せざるなり」と。
 長者が聞いた。
「どのようにして魚の恩に報いればよろしいでしょうか?」
 玄奘三蔵いわく、
「木をもって魚の形を彫り、これを仏寺に懸け、斎時(さいじ)に
それを打ち、もって魚の恩に報ずべし」
 という話だが、これもまた作り話めいている。このようにみてく
ると、木魚はどう考えても仏在世にできた法具ではなく、その起源
は中国の寺院であるらしい。

 勅修清規法器章にこうある。
「魚は昼 夜常に醒(さ)む。(魚は昼夜いつも目を開けて醒めて
いる)木を刻み形を象(かたど)りて之を撃つは 昏惰(こんだ・
心が暗く怠ること)を警(いまし)むる所以(ゆえん)なり」と。

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