十大弟子と阿羅漢

ご隠居 釈尊のもとで修行した弟子の人数は、千二百五十人であったと言われてい
    る。

寅さん へえ、意外と少ないんですね。

ご隠居 一億二千万人の大半を仏教徒がしめる現代の日本人の今の感覚からすれば
    たしかに少ない感じがしないでもないが、「釈尊が最初に説法されたとき
    に、教化(きょうけ)を受けて出家する者が相次ぎ、短期日のうちに、弟
    子が千二百五十人に達し、釈尊はその比丘(びく)たちにかこまれて説法
    された」旨(むね)の記述が、大乗佛教の経典にはっきり明記されている
    
 そして釈尊は、その弟子たちに対し、「犀(サイ)が広野を独り歩み行くがごとく、汝(なんじ)たちも一人一人、おのおのの道を歩み、修行と衆生(しゅじょう)教化に励むように・・」と、

    はなむけの言葉を与えて、送り出された、と仏典にある。
    それはともかく、そうした弟子たちのうち、特にすぐれた弟子に対して、
    釈尊は「阿羅漢(あらかん)」という呼称をつけて呼ばれたといわれてい
    る。
    このように、阿羅漢というのは、価値ある人、尊敬に値する人、といった
    意味の由緒ある敬称であった、とこういうわけだ。

寅さん するとお釈迦さまの十大弟子も阿羅漢だったわけで?

ご隠居 ま、そういうことだな。

寅さん では、せっかくですから十大弟子のおさらいを願います。

ご隠居  厳密にいうと、釈尊のころ、十大弟子という一定したものはなかったら
    しい。
    ただ、維摩経に「病床に臥す長者維摩居士(ゆいまこじ・在家信者)を見
    舞うよう、仏陀が十人の弟子を、維摩の病床につかわした」という箇所に
    いわゆる十大弟子の名前がみえる。これが、後世、十大弟子として定着し
    たものであるらしい。
     その意味で、現在、われわれが言っている十大弟子というのは、この維
    摩経から始まったとされる。
    そしてまた、十大弟子のランキング(順序)も、維摩経が配列した順序が
    こんにち一般的に用いられているようだ。

 それによると、一番目が大迦葉(だいかしょう・頭陀第一)、
次が阿難(多聞第一)、続いて舎利弗(しゃりほつ・智慧第一)、
須菩提(しゅぼだい・解空第一)、富楼那(ふるな・説法第一)、
目連(もくれん・神通第一)、迦旃延(かせんねん・広説第一)、
阿那律(あなりつ・天眼第一)、優波利(うばり・持律第一)、
羅ご羅(らごら・学習第一)という順序になる。

     さらにもうひとつ補足すると、この十大弟子のうちの、阿難と阿那律は
    釈尊のいとこの間柄であり、羅ご羅は釈尊の実子という血縁関係があった
    そうだ。
寅さん まさか、お釈迦さまが身内を依怙贔屓(えこひいき)して十大弟子に加え
    られたとか・・?
ご隠居 寅さん、そういうのを俗に、下司(げす)の勘繰(かんぐ)りというのだ。
菩薩と羅漢

ご隠居 先日、NHK教育テレビで放映された短歌の番組を視ていたら、こんなの
    があった。

 羅漢寺の五百羅漢が動きだす
   今は十秒前かもしれず

    昔から言われているように、五百羅漢をじっくり見てゆくと、よく知って
    いる似たような顔が一人や二人必ずいるといわれている。
    羅漢像はそのくらい、一躯一躯(く)個性的でさまざまな表情をもち、お
    もいおもいの動作をしていて、能動的で たいへん ドラマチックに構成さ
    れている。
    この歌は、作者が大分県耶馬渓(やばけい)の羅漢寺の羅漢像群を目の前
    にし、この羅漢さんたちは、今はたしかに石像にすぎないが、もうあと十
    秒もしたら、ひょっとして血がかよった生身の人間のように、めいめい勝
    手気ままに動きだすのではないだろうか、といった印象を詠(よ)んだも
    のだろう。

寅さん そう言われれば、羅漢さんというのは、仏として拝む対象にしては少しば
    かり崇高さに欠ける気がしますし、ちょっと人間臭さすぎるところがあり
    ますね。

ご隠居 羅漢像を菩薩像に対比させれば、その違いがよく分かる。
    まず頭、羅漢さんたちは頭はみな剃髪しているが、菩薩のほうはお地蔵さ
    まはさておき、たいてい有髪だ。
    羅漢さんは粗末な衣(ころも)をまとい、おまけに裸足だが、一方の菩薩
    は高価そうな衣服に、耳飾り、腕輪などの装身具まで身に付けていらっし
    ゃる。
    そして菩薩は慈眼(じげん)に満ちたやさしいお顔であるのに対して、羅
    漢さんの大半は、表情に苦渋のかげがにじみ出ている。

    羅漢さんが、いったいどういう存在であったのか、そこに釈尊の十大弟子
    をイメージしてならべてみると、あらためて多くの共通点のあることがう
    かがえて興味深いところだな。

大荘厳寺の学僧円通
  「続高僧伝より」

 円通という沙門(しゃもん)がいた。広く書物を読んで諸般に通じ、慈悲深い人柄で、周囲の信望をあつめていた 斉の武平年間、円通は、業(ぎょう・三国時代の魏の都。今の河南省臨章県)という街の大荘厳寺という寺院で涅槃経を講じていた。
 あるとき、その大荘厳寺に一人の僧が訪れた。
 ほとんどボロぎれにちかい衣服を身にまとい、たいそう疲れた様子をしていたが、その旅の僧の容儀は、どこか冒しがたい高雅な気品をただよわせていた。
 ところが旅僧は、急に病を発し、そのまま寺に病臥(びょうが)することを余儀なくされることとなった。病人が発する臭気に閉口した周囲の者たちは、厄介な病僧が、寺内から、なんとか早く立ち去ってくれるように心中みな思っていたが、ひとり円通だけ、そうではなかった。
 円通は、病僧のなみなみならぬ博大な識量といったものを、肌で感じとっていたから、すすんで自らの僧房に 旅僧を寝かせ、汚穢(おえ)をすこしも厭(いと)うことなく、看病に尽くした。
 ある日のこと、僧が円通に問いかけた。
「貴僧のご専門は何ですか?」
「はい、近頃はもっぱら涅槃経を講じております」と答えると、
「それはたいへんやり甲斐のあるお仕事で結構なことです。ただ、もし経の解釈にお悩みの部分でもあれば、遠慮なくお聞きください」
というので、円通もわだかまりなく、折りにふれて教えを請うた。
 経典中の真義とか、古来より、難解とされている箇所を指摘して質問すると、たちどころに僧は、そられの疑義を解明してくれた。
 ある晩、円通は徳利を持参して僧の房を訪ねた。
 「せっかくの春宵(しゅんしょう)です。これを一盞(いっさん・さかずき)すごせば、貴僧の病もきっと良くなりますよ」と勧めると、僧は円通に見えないように顔を隠し、眉をしかめて盃の酒を喉に流しこんだ。

 初秋、ようやく病も癒えて僧は大荘厳寺を辞し去ることになった。
 別れに臨み、僧は、円通の手をしっかりと握って言った。
「 修道は 闇室を 欺かざれ
 (ひたすら仏法修行に励めば、
  たとえ闇のなかにても迷う
  ことはない)」と。
 名残惜しさに、円通がまたぞろ酒を持ち出して、別れの盃を酌み交わそうとすると、僧が言った。
「今より、その酒を断じられよ」
 飲酒(おんじゅ)が五戒の一つであることを(不飲酒戒)、もとよりよく承知している円通は痛いところを衝かれ、大いに恥じ入った。が、気を取り直し、あらためて僧の居所を問うた。
「皷山(くざん)石窟寺の北より五里ほど谷に沿って行くと、山中に竹林寺という古刹(こさつ)があります。私はそこに居ります」
と言って旅立っていった。

謎の農夫 

 その翌年、偶然にも円通は石窟寺において安居(あんご・陰暦四月十五日、または五月十五日から三ヵ月間、僧が室内にこもって修行すること)することになった。
 そんな石窟寺の一日、円通は周りに居合わせた者に竹林寺の所在を尋ねてみた。
 すると、皆くちぐちに「そのような寺は、いまだかつて聞いたこともない」と笑って、だれひとり相手にしてくれない。
 そこで円通が、大荘厳寺で出会った旅僧のことを詳しく話して聞かせると、僧たちも次第に興味を覚えたらしく、「そういうことなら、私たちもその竹林寺とやらへ連れていってくれ」というので、皆で一緒に出掛けることになった。

 石窟寺の北五里ばかり行ったところに小さな谷川が流れていた。
 そこからまた東へ行くこと五里ほどして、だんだん登りとなり、山を上がったところは広々とした台地であった。
 そこに一人の老人がいた。老人は、きりりとした鉢巻き姿で、大きな鍬(くわ)を手に草ぼうぼうの大地をきりひらいていたが、忽然と現れた僧形の一団を目にすると、両手を振り上げ、眼を怒らし、大喝してみんなを威嚇した。
 その勢いに恐れをなした衆僧は蜘蛛の子を散らすようにちりぢりに逃げた。
 ただ、どういうわけか老人は、円通だけには鍬を振り上げもせず、威嚇もせず、柔和な眼差しで、彼のゆくてを阻まなかった。

再会

 皆にはぐれて一人になった円通は、また東をめざした。
 どれほど歩いただろうか。尾根をひとつ隔てた南の峰の上のほうから、読経らしき音声が風に乗ってかすかに聞こえてきたのである。
 しばらく立ち止まって、じっと耳をそばだてていた円通は、この読経はまさしく竹林寺からのものにちがいない、と急いで谷を下り、谷をよじ登り、やっとのことで寺を捜し当てた。
 山門(さんもん)の下の道に、僧がひとり、彼を出迎えていた。大荘厳寺で幾月か一緒に過ごしたあの旅僧であった。
「これはこれはお懐かしい。円通法師、ようこそおいでくださった」
と、円通の手をとった。
 二人は久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)しながら、連れだって竹林寺の伽藍(がらん)へ向かった。
 まじかに見る竹林寺は鬱蒼(うっそう)たる樹木にかこまれて、古色を帯びた大伽藍であった。
「とりあえず、あなたに和尚をお引き合わせしたいと存じますので暫時(ざんじ)お待ちを・・」と
僧は寺内に入っていくと、またすぐに出てきて、円通を案内して、講堂の西の長い廊下を奥へ奥へと進んだ。
 和尚は、廊下のつきあたりの広間にいた。齢(よわい)七十ばかりであろうか、好々爺然(こうこうやぜん・人のよいおじいさんのような)とした老僧で、五、六十人の僧が端座(たんざ)するその中央の高椅子に、悠揚(ゆうよう)せまらず、泰然として、腰をおろしていた。
 粛然(しゅくぜん)としたその場の雰囲気に呑まれて、三拝九拝する円通に、和尚がやさしく語りかけた。
「法師は大荘厳寺に住しておられるとか伺っておりますが、あそこは官寺だけに、さだめし立派なものでありましょう。そこへゆくと、私寺のこの竹林寺などは、万事がなかなか行き届きませんで・・・・」
 世俗的なそんなやりとりから固さがほぐれて、円通もいろいろ存じよりのところを述べた。

まぼろしの竹林寺

 僧に案内されて、円通は寺のうちそとを丁寧に拝見した。
 東西を分かち、僧房が整然と並んで、その各房ごとに一人ずつ、そこを私室とする僧侶が宝帳(ほうちょう・たれぎぬ)の奥に座して、経典を黙誦し、あるいは書き物をし、あるいはまた瞑想(めいそう)したりしていた。それはあたかも石窟に描かれた仏画を見るごとくに敬虔(けいけん)で、静謐(せいひつ)な空気があたりを支配していた。
 僧の私房へ帰り、二人でひと息いれているとき、円通がいまだ感動の覚めやらぬ面持ちで、
「貴僧のご案内で、諸処拝見いたし、竹林寺におられるみなさまをつくづく羨(うらや)ましく思いました。
 なろうことなら、私もこの竹林寺において一生を終えたいと存じますが、いかがでしょうか?」と頼んだ。
「しからば、その儀を和尚に申し伝えてまいりましょう」と房を出ていくと、すぐ帰ってきて、
「お待たせしました。和尚はこう申されました。
 仏法によせるあなたの志はうれしいが、なにぶん貴僧は官寺に籍を置く官僧という身分であるがゆえに、残念ながらご希望に沿いかねます。
 なお、これはけっして当寺の一房を惜しんで言うのではありません。貴僧がいまの官名を捨て去って来られるのであれば、喜んでお迎えしましょう」と。
 円通は竹林寺をあとにした。
 歩きはじめて西へ行くこと百歩ばかりのあいだは、振り返ると、木の間がくれに、寺影が見えていたが、しばらく行って振り向くと、たちまち峰嶽があたりを覆(おお)い、伽藍(がらん)は幻のごとくに消え失せていた。
 そればかりか、鍬を振り上げて衆僧を威嚇したあの老人も台地も、帰路の道すがら、どこにも見当たらなかった。
 台地にいたあの老人は、はたして何者であったのか。
 ひとり円通のみ追わず道を通したのは、円通がすでに聖境の域にまで達していた故か。
 竹林寺の和尚はいったい誰か。
 あれはもしかして賓頭盧(びんずる)尊者ではなかったか。

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