十善戒が私の全てであり、他に何もありません

自らの「身と口と意」の戒めが十善戒。身(体が行う行為)が三つ、口(言葉で表現する行為)が四つ、意(心に思う行為)が行う行為が三つ、合わせて十個の戒めが十善戒。
「十善戒を奉じることは、覚りを求めるものの道場」です。書いてしまえば「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見」の三十文字ですが、私は日々「十善戒」について考え、日常生活のさまざまな場面で、どのように考えるか、そのようなことを考え続けて、そして四十有余年が過ぎました。考えて考え尽きることがなく、多くの人に受け入れられることができました。現代をより良く生き、世の中を明るくし、親に感謝し、皆さんに感謝の心を持ち、子供たちにも伝えたいと願います。

観音院の根本経典「まことの道」は
時代の変化に適応しながら発展
現代を生きる判断の基準として

 発行部数は版を重ねて五十万部を超えましたが、昨今の激動の時代、少子高齢化、困難な経済事情、失業、就職困難、異常気象、テロの発生、疫病の予想、勉学労働就職意欲の無い人々の存在、将来の見えない政治に対応して校閲版を再発行したいと願います。
 さり気無く書いていますが、実はこの計画は寺を一ヶ寺建立するに等しく、一大事の仕事になると思います。

 何処かで拾った不殺生の解説ですが。—-不殺生 生き物を殺さない
 生き物を殺さないと言っても、命あるものが他の命を奪わずに生きられるようには作られていない。これは当たり前のこと。ここの不殺生が意味するのは、自分が生きるために必要な最低限の殺生や、身を守るための殺生、足下を歩いている蟻に気づかず踏み殺してしまうといった悪意を持たない行為は除外されると理解しているし、理解するべきだと思う。——
 これは軽薄な解釈です。

 不殺生は、先ず私が今現に存在している。生きている。ご先祖さまや両親の慈悲、学校の先生や、安全に暮らせた社会のさまざまな関わりある人達の「ご恩」によるものです。衣食住の全てにおいて皆さまの「お蔭」によるものです。蛇口を捻れば水が出る、夜に電灯が点く、新幹線に乗れば東京広島間の移動が四時間、テレビ放送を視聴し、携帯電話で連絡を取れる、これらはすべて人間を生かすために、多くの人々が苦労されたものです。

 生きてこの世に存在していることは、受胎があり、出産してもらえる幸運、多くの病気や怪我から守られる幸運、交通戦争の中で事故に遭わなかった幸運、戦争や自然災害に遭わなかった幸運、沢山の便利で危険な道具を持ちながら他人を殺生しなかった幸運、困難に突き当たりながら、自殺せずに生き延びて今日があるという喜び、生きて今日があると言うことは即、殺生されなかったからこそなのです。
 不殺生は生きているものを殺すなという単純なものではありません。
 「生かせいのち」と高野山真言宗は説いていますが、これは精神があるものだけではなく、全てのものに対しても適応する考え方です。
 代表的なものは「貨幣」です。浪費したり、借金したり、他人に貸したり借りたりしますと、お金が死にます。
 殺生なお金の使い方をすると、この世で地獄を見ます。

 車両などを大切かつ慎重に扱わないと、文字通り自分と他人を怪我させたり、殺人になります。大量の化石燃料を使って環境を汚し、地球を汚染し、異常気象を招いたりする。不殺生の戒は、これらの行為を全て嫌悪する考え方で、十善戒の中心となるものです。
 人間が居るから十善戒が必用なのです。私達は十悪をなしがちなのです。
 生きて行く上で、知ると知らざると行う殺生は多くあります。
 ウィルスに感染し他人や家族にうつすことも殺生です。困ったことに自覚できない感染症も沢山あります。無知による殺生は多くなされています。
 石綿は耐久性、耐熱性、耐薬品性、電気絶縁性などの特性に非常に優れ安価であるため、日本では「奇跡の鉱物」などと珍重され、建設資材、電気製品、自動車、家庭用品等、様々な用途に広く使用されていました。石綿の太さは髪の五千分の一で、空気中に浮遊し人の肺にいると二十年三十年後に肺がんや中皮腫を起こす確立が高いものです。
 これらのアスベスト公害は、無知により広く使われました。この大殺生は一度は良き便利なものとして使用されたもので、悪意はありませんでした。
 たくさんのビルで断熱剤などとして使用され、そのビルの立替は、今から始まるのです。完全に外気と遮断し、宇宙服のような作業服を着用しないと殺生になります。このような殺生も想定し不殺生戒を説きたいものです。

殺生はしない、してないと言える
文化は殺生を伴いながら継承される

 日本の歴史は殺生の歴史です。世界の歴史も同じです。覇者は征服された人々の生命与奪の権限を持っています。
 大河ドラマ義経の経過は視聴者に溜め息を吐かせています。ニューヨークテロに端を発したイラク戦争、最近のフランスの暴動への非常事態宣言・・・・、
毎日のように報道される争いや殺害、人が人を殺生する。殺生を効率よく、殺生をするにあたりテレビ画面でゲーム感覚で実行できる。ゲームセンターに行きますと、殺戮ゲームはより精巧に現実感を持っていて、若者から中年まで、大変に熱中し楽しそうです。

 核保有国は、望む時に望む都市に対して無差別大量虐殺が可能な現代です。
 ところで、日本の技術力は高く核兵器をもてます。皆さんは日本が核抑止力を持つ上で核兵器保有に賛成か否か統計がありませんけど、如何ですか。
 日本が日米安保条約で米国の核兵器の傘の下にあるのは現実です。
 日本も自衛隊が自衛軍になるそうですから、より効率の良い優れた兵器を持つのは自然の成り行きです。
 第二次大戦中の米国の無差別爆撃と大量虐殺は広く知られている事実です。
 
 それはさておいて、日本に於いては人が生まれることは大変な幸運です。
 妊娠しても、生むか生まないかは、父と母の事情しだいです、非婚社会がやって来ると言う人もいます。
 妊娠しても相手の男性が生活を保障してくれない、結婚願望が無かったりして、相談に来る女性が沢山います。
 生みたいから相談に来るのですが、さっさと諦めて中絶する女性も多いようです。両者とも、中絶が殺生である認識は全くありません。
 高度成長期には極めて少ない相談でした。現在は結婚して妻子を養う自信のある男性が少なくなりました。
 女性も、独身のままで、男性に依存せずに育児する自信は皆無に近いように思われます。
 世の中が少子高齢化に拍車を掛けたように思います。漸く結婚し、新居を買って、一人子供を出産して、それから離婚という場合も少なくありません。
 何故と不審に思う前に、夫婦の収入を考えてみれば参考になります。共働きで夫婦で働いて、少し余裕ができる。
 家賃を払うよりはマンションを買う方が将来に自宅が残るからと長期のローンを組む、少し広い間取りを願うと辺鄙(へんぴ)な場所になりますから通勤用の自動車も必用ですね。自動車は十年も二十年も乗れません。代替も必然です。そして、妊娠して奥さんが失職する。専業主婦になるとこの夫婦は経済的に破綻する場合が多くなります。破綻しないまでも、生活がきつく、喧嘩口論が増える、情が冷める、離婚の予備的な段階です。
 結論的に言えばご主人の給与が必要な家計費を満たしていないのです。
 最近は企業も正規社員よりは派遣社員を選ぶ傾向があります。皆さんにも責任はあります。勤務先も利益を上回る賃金は払えません。極端な場合は職員一人ひとりの生産性が算出されている職場もあります。自分が稼いだ以上の収入を求めるのは無理ですね。
 家持、借金持ち、車両持ち、ピアノ等の大型家具持ちの社員は転勤させるのが困難です。このような人は会社のリストラ計画に含まれている可能性が非常に高いですね。

 経済的理由で中絶する場合が多いようです。中には中絶と離婚が同時になされる場合があります。
 中絶は殺生です。しかし例えば会社の社長さんの愛人として一年間に七度も八度も中絶するのは、殺生として罰せられても仕方が無いですね。
 友達ができて、妊娠して、寺に相談に来る女性が少なくありません。私の応接にも住職のところにも妊娠検査のキットが常備してあります。
 妊娠していないのに、妊娠したと思い込んで相談に来る女性も多く、そのような妄想を相手に相談するのは無駄なことですからね。で妊娠が分かれば結婚するように、中絶をしないように勧めます。女性に勇気があれば、未婚で子供を育てる決心をすることもあります。父親が必要であれば、七十二歳で良ければ何時でも認知してあげます。

 この世に生を享けることの前に、親から一度は生むか生まぬか選択される、ですから、この世に誕生して居ることは大変に幸運な人です。
 父親の欄が空白でも、世間が差別しないような世の中が望まれます。
 加えて国難にも匹敵する少子化傾向ですから、安心して子供が産める児童手当の増額と期間の延長には、政治的な判断が欲しいものです。

「不殺生」には物の価値を損なうことなくも大切にすること、加工して価値を付けること、も含まれます。          
 私の部屋には四十年物の三菱換気扇が現役で動いています。私は使える物は最後まで使う癖があります。
 コンパスは小学生の時に買って貰った物を現在でも使用しています。たいそうな問題ではありません。不殺生を頭に置いているだけです。

 不殺生は平和を願う原点でもあります。人を殺すな、ものを大切にする。殺生をしないことは教育の原点でもあります。人を育てる、ものに付加価値を付けてより高価なものにする。
 殺生をすると怨嗟(えんさ)の的になり、人々や国家から非難され、金銭で贖(あがな)うことはできず、収束するには百年以上も掛かることがあります。人には寿命があります。製品にも寿命があります。
 人の生命も物の生命も、大切に手入れし、慎重に扱えば長生きし、或いは長持ちします。平均寿命とか、減価償却といった考え方は、殺生しないという概念に馴染みません。
 全てのものを大切にするのは当然ですが、人が出自や性別、学歴、知能、健康具合などで、差別されない社会の実現を切に願います。

殺生はしないのはあたりまえです
人を生かす、徹底して大切にする

 人を殺傷するな。暴力をふるうな、喧嘩するな。戦争反対、と言い換えれば「不殺生」が分かり易くなります。武器は不要、核放棄なら現実的です。
 私は「子供」を「菩薩の子」と定義しています。人は生まれながらして仏[ほとけ]です。十善戒は仏教徒の規範です。私たちが[菩薩]を粗末にしてはなりません。私が菩薩であるなら、慈悲は当然です。皆さんも菩薩です。
 核爆弾を保有するなんて悪鬼羅刹(あっきらせつ)の所業です。虐待も苛めも悪魔の所業です。人間は、菩薩にも悪鬼羅刹にもなれます。
 人の理想的な生涯は菩薩として生まれ、菩薩として成長し、菩薩として生活し、菩薩として来世に逝くことです。
 ところが、自分で行動でき、自分の手で食物を口にするころから一時的に動物的になります。大人も同様で、救援物資が届いた時などは強い者勝ちになります。観音院は非常用の食料などを五十人・五十日間分備蓄していましたが、取りやめました。理由は配布の能力に欠けるからです。
 困った時に弱者に対する思い遣りが持ててこそ、人間であり菩薩なのです。
 残念なことですが、災害時に緊急救援物資は腕力ある人が優先して受取る傾向がしばしば見られます。 
 第二次大戦争中、物資の横流しや横領、闇市場などを見まして、人は環境しだいで、「菩薩」にも「鬼」にもなれることを知りました。
 貧すれば鈍する、貧しい環境になると賢い人でさえ愚鈍になると言います、衣食足りて礼節を知るとも言います。
 このような状態に不殺生をぶっつけて考えると良いと思います。人は貧しさには相当に耐える力がありますが、不平等には耐えれないようです。平等はとても大切な考え方です。

 最近、「ニート」「引きこもり」などが問題になっていますが、私は彼らにも安心して住める場所が必用だと考えています。
 話を聞いて上げる、生かされる場所がある、生活の保障があることを政治的に決断して欲しいものと思います。
 家庭での負担には困難があります、優しく受け入れるには、高度な理解と専門的智識がある人の対応が必用になります。親や家族に理解を求めるのは負担が大き過ぎます。
 社会の問題ですから、社会的対策が立てられるべきです。
 インターネットの「出会い系」も国家の施策として運用して欲しいものです。現在あるものは利用費用が膨大で一般的ではありません。何でも官から民ではありません。民から官に移行する方が望ましいものもあります。

 病める人には、診察を受けて手術を受けたり、投薬を受ける医院や専門の病院があり、治療が受けられます。
 ニートや引き篭もりは病気と良く似ています。ミスマッチとか苛めとか社会的な原因も多いと思います。彼らのためにも、丁重な相応の施設があっても良いと考えます。原因についても研究はなされていません。対応は親という資格だけではできません。

 結婚していなくても育児できる社会は絶対に必用です。従来の家族観や倫理観では計れないものがあります。

 殺生をしない、この教えは人々に平和を齎(もたら)し、幸せを保証するものですが、大きな費用を必用とし、限りなく総生産性を大きくすることを求め、一人ひとりに節約、ものを大切にすることを求めています。
 企業は安い賃金を求めて外国に進出し、他の国の賃金が高くなると、更に低い賃金を求めて移動します。
 この傾向は国内の高い賃金の労働者を必用としない。結果として日本の国内には二重の賃金構造が生まれました。
 国籍による賃金差別は組織からすると、生産性の低い人達に安易な生活を保障しません。
 比較的に安定しながらも低い賃金とされていた公務員の方が社会人よりも高額となり、公務員の賃金切り下げと定員枠の縮小が求められています。
 現在の経済でも、「殺生」は数多く発生しています。
 さりとて共産主義の失敗は殺生そのものでした。
「殺生をしないこと」は大変に難しいのです。
 改革という名の殺生、大きな組織が解体され、便利になるか不便になるか不明です。政府系の金融機関の縮小やら、公務員の削減。年金の削減は止む得ぬ仕儀でありましょう。
 公職にある人達の経費や年金の削減はお手盛りができる立場だけに、謙虚さと清廉潔白が求められます。
 その上に殺生を数字で表す消費税の増額、所得に対する累進課税は多分に大きくなるような気がします。将来に希望と夢が持てるような制度の改革であることを希望します。q

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