六波羅蜜

寅さん
この前、本を読んでいたら、三界(さんがい・一切衆生の生死輪廻する三種の世界をいう、欲界・色界・無色界)を出離(しゅつり)するには、十悪をとどめるとか、五欲を去るとか、三毒を退治するとか、六波羅蜜(ろくはらみつ)を行(ぎょう)ずるとか、いろいろ書いてありましたが、あれは一体どういうことです?
ご隠居
本来、佛法(ぶっぽう)というものは聖人賢者のためにあるものでも、できたものでもない。
佛法ができた唯一の理由は、我々のような一般人を済度(さいど)させるために起こった教えだから、在家である私たちがその教えに

したがってこの現世で生きてゆけぬわけがない。

どんな人でも常識さえあれば、それらの教えはほとんど守れるはずだな。だけれども、佛法という信仰の世界に入るには何よりもまず、それを信じることが絶対条件であって、信じようとしない者はどうにもしようがない。
寅さんのように、佛教を信じて自分をより美しく清らかな心にしようと努力する者には、みなことごとく佛(ほとけ)は救いの手を差し延べられる。
そもそも佛法は、十悪を止め、五欲を去り、三毒を断って、六波羅蜜を行じなさい、と私たちに教えている。
寅さん
だから、それは何のことですか、と聞いているんです。
ご隠居
これは佛法入門の初歩だ。
十悪は、してはいけないこと、つまり十善戒、五欲は目耳鼻舌の欲と、それに心に愛憎があるために生ずる欲のこと、三毒は貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、癡(おろか)さが善い行為を損なうから三つの毒という。
また、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を説くわけは、我々の心の中にある六つの弊害を排除するためのものだ。
つまり、我々の心の無慈悲で欲深さを排除するには布施を行じ、みずから戒めた禁を破らないために戒法をたもち、怒りと憎しみを除くために忍辱(にんにく・どんなことにも耐え忍んで心を動かさない)を修行し、なまけ心を取り除くために精進(しょうじん)し、精神の動揺をおさめるために禅定(ぜんじょう)を修行し、愚かさを排除するために学修する。
これら六波羅蜜の妨げになる六つの弊害は、すべて私たちの心に巣くっているものなので、以上のことを日々行ずることにより、その一つ一つを解決しようというわけだな。
――日頃からの心掛け――
寅さん
それで、三界(迷いの世界)を出離できますか?
ご隠居
そう先を急ぎなさんな。ものには順序というものがある。
まず、学問をして佛法を手に入れることができるのなら、なにも苦労は要らない。そんなに簡単なものなら、ちょっと佛教を聞きかじった者は、みんな佛法を知ったことになる道理だな。しかし、佛法を知るという本当の意味は、佛法を身をもって実践することではないだろうか。
佛法をみずから体現しない者は、たとえ百千万巻の経典を読破したとしても、佛法を知ったとは決して言えないと思う。なぜなら、それは佛教を目でなぞっただけのことで、心で佛法を実践していないからだ。また、佛教についてあれこれ言ったり、書いたとしても、自分で佛法を実践しなければ、なんの値打ちもないはずだ。
万巻の経典を読み、佛教を論じ考える真の意義は、心身でもって佛法を実践することにあるのではないだろうか。
たしかに、書物で学んだ学問だけで、遠く外野席あたりで佛教についてあれこれ議論するのも、それはそれで一つの佛教論には違いなかろうが、それはやはり真の佛教を語ることとはならないと思う。本当の佛法とは、そんな中途半端な知識などよりもまず、十悪五欲三毒六波羅蜜が、どういうものであるかをよく胸にきざみつけて、その悪の部分を取り除き、善行をめざして、みずからの生活態度を律するように心掛けることだ。
そのように考え、日常の生活を送る人は、かりに佛教の本一冊さえ読んだことのない人でも、十分に佛法を体得した人といってもよいだろうし、まことの佛教徒として恥じないと思う。
――三業清浄(さんごう・しょうじょう)――
寅さん
で、三界出離のほうはどうなりました?
ご隠居
うん。何よりも大切なのは、三業清浄(さんごうしょうじょう)であることだ。
寅さん
三業清浄?
ご隠居
三業とは身・口・意(しん・く・い)の三つの作用のことだ。この身口意のありかた、はたらきが不浄であれば、その行為はみなきたなく汚れており、反対に清浄(しょうじょう)であれば、それは、やることなすことすべて清らかで美しい。
したがって、十悪五欲三毒と六つの悪弊からぬけ切れなければ、その人の日常は穢土(えど)の世界に住んでいるのと同じことである、とされ、そして十悪五欲を離れることによって、はじめて浄土に住む人となる、とされている。
寅さん
穢土(えど)というのは?
ご隠居
ここでいう穢土、浄土は場所のことではない。心地(しんぢ)、つまり心のあり方と解釈したほうがよいだろう。
いまNHKの大河ドラマ「葵徳川三代」をやっているが、徳川家康は「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど・平安中期の僧源信の書『往生要集』にある言葉でその意味は、汚れた悪の多いこの世をきらって、極楽浄土に往生することを喜び求めること)と書いた軍旗をおし立てて戦場に臨んだといわれている。殺しあいの戦に、それはないだろう、と言いたいけど、戦国時代の武将であった家康にしてみれば大マジメに自分の力で敵を平らげて、戦をこの世からなくし、極楽浄土のような平和な社会をつくろうと考えていたのだろうな。
しかし、心地清浄の本来の意味は、あくまでも意すなわち心が清浄なことだ。心が清浄であれば、身口もおのずから清浄になるからだ。したがって、それにはまず十悪をやめることが何よりも大切だという。
なぜかというと、十悪は身口意の三業が不浄なために起こるからだ。で、十悪の原因を分析すると、それは、身三、口四、意三から成り立っていることが分かる。
寅さん
ほほー、そんなもんで。
ご隠居
身三とは身体の引き起こす殺生、盗み、邪淫という三つの悪い行為、口四とは妄語、綺語、悪口、両舌で、言葉による四つの人を傷つける行為、意三とは心が引き起こす三つの悪、つまり貪り、怒り、邪見だ。
身口意に、この十悪があるのを不浄といい、不浄を清浄に変えることを「十善」という。
経文にこんな言葉がある。諸悪莫作(まくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸佛教とな。
寅さん
それはなんです?
ご隠居
諸悪を作(な)すなかれ、もろもろの善をおこなえば、心はおのずから浄らかになる、これが諸佛の教え、という意味で、ここでいう諸悪とは十悪、衆善とは十善のことを指すのではないかな。
したがって、この十悪をとりしずめ、十善を志して日々を過ごせば、その心地はおのずから清浄になろうというものだ。
こういった心地清浄、心のすみずみまで清らかな心境、不安のない生活というのは、なにものにも替えがたい気分ではなかろうか。
こういうと、十善など所詮はおのれ自身を満足させる善行でしかなくて、それが三界の出離とどう関係して、どうつながるのか、と思うかもしれないが、ところがさにあらず、この世でした十善は、佛の世界に直接これがつながっているとされる。
――戒・定・慧(かいじょうえ)――
いわゆる十善にも等級のようなものがあって、一番低い等級の十善は人道の因、中級は天道の因、上級は三乗(声聞、縁覚、菩薩)の因、最上級の十善が佛の因とされていて、これらは、ほとけの教えを聞く者の能力によって、それぞれ十善の等級に格差が生ずるとされていたのだ。
そこで私たちは、どんなにレベルの低い十善であるとしても、自分に課した持戒は忠実に実行しなければならない。佛教はそこのところをこのように教えている。
持戒(じかい)そのものが完全であれば、定(じょう)・慧(え)はおのずからそのなかに備わり、禅定が完全であれば戒・慧はおのずからそのなかに備わり、智慧が完全であれば戒・定はおのずからそのなかに備わる、と説いている。
したがって佛法を、ひたすら戒律を守ることにあると信じている者も、定・慧がともなわなければ真の持戒者とはいえないし、佛教の智慧を大切にする者も、戒・定がともなわなければ、真の智慧を修したということにはならない。
この道理をよくわきまえて、十悪を根源から排除すれば、迷いの世界である三界を出離し、五欲を離れ、三毒を滅し、六つの悪弊を退治して、ほとけの世界へ行くことができるとされている。
寅さん
へえ、左様で。
ご隠居
なあ、寅さんよ。佛教はなにも死んでから人がゆく極楽浄土や、未来後生(ごしょう)のことばかり教えているわけでは決してない。
佛教の目的は、あの世や後生を求めているのではなく、いま現実に私たちが生きているこの世を、どのようにすれば、美しく良く生きぬくことができるのか、その正しい生き方を教えることであって、この世に極楽浄土を創り、極楽浄土へ人を送るのが主目的ではないことを忘れないでほしいな。
――お大師さまの「十住心論」――
寅さん
それで安心しました。でその十悪を根源からなくすには、どんな方法があります? なにかよい思案があれば教えてください。
ご隠居
方法はいくらもあろうが、ひとつだけ非常に示唆(しさ)に富んだ話がある。
それは、お大師さまが、人間の精神の発展過程を、十の心のあり方に分けて説かれた「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」という書物だ。
お大師さまはその第一住心の、どうにも救いがたい心の段階にある者を、異生羝羊心(いしょうていようしん)と名づけて、次のように説かれている。
かいつまんで説明すると、このような内容だ。
異生羝羊心とは、善悪をわきまえることのできない者が、因果の理法、つまり、こんなことをすれば、必ずそれ相応の報いをうけるというものごとの道理を信じることなく、うそいつわりの世界にしがみついていることである。
つねに自我と、自分の所有という観念にだけとらわれて、まるで見当ちがいの考えでもって暮らしている。
自分というもの自体が、「空」(くう)であることをよくよく認識しなくて、どうして宇宙の自然とその実体を知ることができよう。
教えにそむき、道理に違(たが)うのは、このことが原因である。
考えのあやまった心は、暗い所からさらに暗黒の世界にはいり、どこまで行っても明るい場所へ出ることはできない。
長くて暗い夜が続いているから暁天(ぎょうてん)に鳴くにわとりの声も聞こえてこないし、太陽や月光をあおぎ見ることもできないであろう。
これまでにたどって来た迷路がどこから始まったのか、それさえも定かではないのだから、さとりの世界へ無事に帰りつく日など、とうてい、のぞむべくもない。
火宅の八苦〔かたくのはっく・迷いの世界における八つの苦しみのこと。
生・老・病・死(しょうろうびょうし)の四苦と、
愛別離苦(あいべつりく)—-愛するものと離別する苦しみ。
怨憎会苦(おんぞうえく)—-憎しみ嫌う者と会う苦しみ。
求不得苦(ぐふとくく)—-求めても得られない苦しみ。
五陰盛苦(ごおんじょうく)—-肉体的、精神的な苦しみ〕を直視しないで、どうしてその罪の報いとして、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちるなどと信じることができようか—-。
人間だから、なにをしても許されるという理屈は通用しない。
否、むしろ知性をそなえた人間だからこそ、してはならないことがあるはずである。
たとえば、他人の物をかすめ取り、男女の道を踏み外して乱す。
うそ、かざりことば、わるくち、二枚舌をつかう口のあやまちと、むさぼり、いかり、誤った見解の心のわざわいは、我々人間はいうにおよばず、すべての生きものを侮蔑(ぶべつ)し、ほとけの教えに耳をかさず、みずからの善根を断ってしまうことである。
こういう度(ど)しがたい類(たぐい)の人間を「異生羝羊心」と名づける。羝羊(雄羊)は、動物のなかでもっとも性向が下等で劣り、ただ水と草と淫欲のことのみを思って、ほかに知ることがないものをもってたとえられる。
ゆえに、天竺の語法をもって、善悪の因果を知らないおろか者の見本として譬(たと)えたのである、と説いていらっしゃる。
お大師さまは十住心論においてこのあと九つの段階を説かれて、私たちを高め、ほとけのもとへと導いてくださっている。
寅さん
私も、異生羝羊心の部類に入らないよう、これから、せいぜい気をつけることにします。
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