入定

ありがたや
 たかののやま(高野山)の
 いわかげに
 だいし(大師)は いまだ
 おわしますなる
ご隠居  これは鎌倉初期の天台宗の歌僧慈鎮和尚(一一五五~一二二五、慈円・天台座主、吉水僧正、家集・拾玉集、史論・愚管抄 著)の作で、お大師さまのご入定のことを詠んだ歌だ。
 つまり弘法大師は承和二(八三五)年三月二十一日にお亡くなりになったのではなく、永遠に入定したままで、今もなお、衆生済度(しゅじょう・さいど)のために生きつづけていらっしゃる。
 これが、こんにちの宗門および大師信者のお大師さまに対する信仰を代弁するものだろうと思う。
寅さん  お大師さまの入定信仰というのは、どのようにしてできたのでしょうか?
ご隠居  入定という言葉の起こりは弘仁七(八一六)年、弘法大師が「紀伊国伊都郡高野の峯にして入定の処を請け乞ふの表」を朝廷に差し出したのに始まるようだ。
 この上表文中にある入定は、定に入ること、すなわち文字どおり禅定(ぜんじょう)を修する、宗教的な瞑想を実践するということであって、そうした実践修行に好適な場所として、ぜひ高野山を賜りたい、というものであった。
 お釈迦さまもまた、北インドのクシナガラの森で入滅されるとき四禅法(初禅・第二禅、第三禅、第四禅と、禅定瞑想の過程をたかめていき、これを三回くりかえす観法)を修して、ついに般涅槃(はつねはん)したもうたと伝えられている。
 そういった故事にちなんで入定という言葉は、永遠の悟りの世界に入ること、不死の生命を得るといった意味にいつしか転用されるようになったのではなかろうか。
 したがって、お大師さまが朝廷にたいし、入定の地として高野山を賜りたいと申し出られたとき、はたしてお大師さまに、いま私たちが持つ入定信仰のような認識がおありであったかどうか・・。
 そんなわけで、お大師さまが亡くなられてしばらくは、ごく普通に入滅とか滅という表現が用いられていた。
 ところが、その百三十数年後に書かれた仁海の「金剛峯寺修行縁起」には、大師ははっきりと入定であるとし、普通人と異なって、生きながらに永遠の瞑想に入っておられるというので、周囲に石垣をきずいて石でおおい、上に宝塔を建立した、と記載されている。

奥の院 御廟(ごびょう)

ご隠居  寅さんも高野山へお参りしてよく知っているように、奥の院御廟(ごひょう)の前を流れている玉川、あの清流の近くに御供所(ごくしょ)がある。
 ここは、御廟にそなえる供物を調進するところで、毎朝午前三時に調理された供物を御供所のわきにある嘗試(あじみ・味見)地蔵尊にそなえ、しかるのちに灯籠堂に上進する。
 ここでは、奥之院維那(いな)と衆僧によって今もこのように、すべての日課が、あたかも生ける人に仕えるごとく、毎日、延々とつづけられている。
 つまり、お大師さまは決してお亡くなりになったのではなくて、肉身のまま宗教的な瞑想に入って、永遠に生きていらっしゃると、多くの人はかたく信じて疑わない。
 このように大師信仰は、生ける弘法大師の入定信仰となり、長い歴史を通じて、仏教的庶民信仰の王座を占めてきているわけだ。
 ここで、おもしろいエピソードを一つ紹介しよう。
 延喜二十一(九二一)年、お大師さまは醍醐天皇によって弘法という大師号を宣下された。
 そこで東寺の僧 観賢が、その勅書を奉じて高野山に登り、御廟の石室を開けてみると、お大師さまが生けるが如く入定されていたので、伸びた髪と鬚を丁寧に剃り法衣を取り替えてふたたび石室を閉ざした。このとき、従者の一人であった石山寺の淳祐という僧は修行が足りなかったためか、生身(しょうしん)の大師を仰ぎ見ることができず、わずかに大師のお膝のあたりにふれたところ、生涯その香りを失わなかったという。
 この説話は古く「今昔物語集」「扶桑略記」などにも記されており、現在、石山寺に所蔵する淳祐写本を「匂いの聖教」と呼んでいるのは、右の話にもとづくものだということだ。

弥勒菩薩と弘法大師

ご隠居  お大師さまのことを信仰上、「二仏中間(にぶつちゅうげん)の大導師」であると言われている。
寅さん  二仏中間とはどういうことです?
ご隠居  二仏とは、釈尊と弥勒菩薩のことだ。
 つまり釈尊の入滅後、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が下生(げしょう)して一切衆生を救済するまでの仏がお留守のあいだ、その永い空白の無仏の時代に、お大師さまが二仏に代わり、高野山奥の院に於いて永遠の定(じょう)に入れ、今なお現世に留身(るしん)して衆生の救済をつづけられているというわけだ。
寅さん  へえ、それにしてもすごい話ですね。
ご隠居  弘法大師の「御遺告(ごゆいごう)」に、五十六億七千万年後の暁に、竜華樹の下で弥勒菩薩が成道(じょうどう)するまでの間、一切衆生を天上界より見守っており、時至ったならば弥勒菩薩とともに下生する、という誓願(せいがん)が記されているところから、このような信仰が生まれたものらしい。
寅さん  その「御遺告」とはいったいどういったものですか?
ご隠居  「御遺告」そのものは、後世の仮託といわれている。つまりのちの世の人が、お大師さまのことをあれこれ忖度(そんたく)し、ことよせて、おそらくこんなふうではなかったかと、虚実まじえて書かれた書物というわけだ。
 また、その「御遺告」のなかに弘法大師臨終のさいのエピソードとして、弥勒兜率天往生の記事がある。それによると、お大師さまは最期のとき、お弟子たちに次のように告げられる。
「わたくしの後世の弟子たちは、わたくしの顔を見なくても、心あるものは恩愛の由を知るがよい。
 わたくしの遺体を大切にせよ、というのではなくて、密教の寿命をまもり継いで、竜華の三会(りゅうげのさんね・弥勒菩薩が将来仏となって説法されるとき)にその効果を現すためである。
 わたくしは入定(にゅうじょう)してのち、兜率天に往生して弥勒慈尊(じそん)の御前にお仕えするつもりである。五十六億年余りのちに必ず慈尊とともに下生し、わたくしのあとがどうなっているか訊ねようと思う。
 また、下生しない間も雲の上から、あなた方の信仰の如何を見ていよう。その時に、修行にはげむものは幸福を得、信仰のないものは不幸になるであろう。つとめておろそかにしてはいけない」
 飛鳥時代から平安時代にかけて我国では弥勒信仰が盛んであった。
 この「御遺告」とほぼ同じ文が後宇多法皇(ほうおう)自筆の「弘法大師伝」に出ている。これは大師入定後四百八十年を経た正和四(一三一五)年三月の日付があるから、この兜率天往生の記事はどうも後世に付け加えられたものであるらしい。
 けれども、お大師さまが生涯にわたって弥勒菩薩を信仰されていたこともまた事実であるようだ。
 現世、即ち、この世の浄土(弥勒浄土)において人々を救うというご誓願である。
 この世に浄土を建立するというのが真言密教の浄土観(密厳浄土)ということができる。
「性霊集」にこんな一節がある。「・・ここに仏というのは聖弥勒菩薩のことである。法界宮(ほっかいぐう)にあっては大日如来を補佐し、兜率天にあっては釈尊の教えを宣揚している。
 弥勒菩薩は本来、遠い昔にすでに仏となったが、衆生をあわれんで、菩薩の姿となり、その活動は広大無限である・・」
とあるように、お大師さまが弥勒菩薩を信仰し、兜率天往生を願われていたのは、ほぼ間違いないだろう。
高野の山には大師とか
寅さん  その「性霊集(しょうりょうしゅう)」というのは?
ご隠居  正確には「遍照発揮性霊集」という。
 これは弘法大師が三十一歳から六十一歳までの三十一年間にわたって、さまざまの機会に起草された詩と文章を、つねに大師に侍坐した高弟の真済(しんぜい)が几帳面に書き写しておいたものを、お大師さまの晩年に十巻本として編集したものとされている。
「性霊集」のほかにも、弥勒信仰とお大師さまの入定とを結びつけた歌がある。
 三会(さんね)の暁待つ人は
 所を占めてぞおはします
 鶏足山には摩訶迦葉や
 高野の山には大師とか
 これは「梁塵秘抄・後白河上皇撰」に掲載されている今様(いまよう)の一つだ。
寅さん  今様?
ご隠居  今様というのは平安時代の流行り歌のことだ。
 もうひとつ、室町時代の弘法大師和讚を披露しよう。
 もし人、専ら遍照尊を念じて
 (生身の大日如来即ち空海)
 ひとたび高野山に参詣すれば
 無始の罪障は道中に滅し
 縁にしたがって
 即ちもろもろの仏土を得
 (以下略)
 いずれにしても、一千数百年間にわたり、多くの人々の信仰のなかにずっと生きつづけておられるお大師さまの偉大さというものが身にしみてよく分かる話だな。

七曜戒 朝の言葉・木曜日
 約束を守る。
 真言のみほとけは、生きとし生けるもの、そのすべての苦しみを救いたまうまで、その苦しみをわが心として涅槃(やすらい)に行くことなしと誓願(やくそく)したまえり。
 約束はわれら生き行く根本なり 約束は社会の始め、秩序の基なり。約束なくして人なし、約束なくして救いなし、約束を守らずして浄き土(せかい)あらず。
 われら約束をなしたるうえは、この身にかえても守るべし。固く約束を守るとき、安楽(たのしみ)多く、富み栄えん、われら幸いなる人とならん。
 観音院常用教典「まことの道」 五十八ページより

*皆さまも朝あるいは夜、空いた時間に、お声に出して、意味を考えながら、自らのこととして、ゆっくりとお読みください。
仏事と鳴り物の関係
寅さん  以前から思っていることなんですが、毎日観音院さんで行われているご法要には、鉦や太鼓などいろんな鳴り物が用いられていますが、あの打ちものの伴奏は何かわけがあって鳴らしているのでしょうか?
ご隠居  仏事においていろんな法器を鳴らすのは、なにも観音院さんに限ったことではない。たいていのお寺さんもそれに類する法器を使用して法要をおこなう。
 法華経の偈(げ)に、「もし、人をして楽(がく)をなさしめ、鼓を撃ち、角貝(かくばい・角や貝で作った笛)を吹き、簫笛、琴、箜篌(くご・くだら琴)、琵琶、鐃銅跋(にょうどうばつ・どら状の楽器)、かくの如きもろもろの妙音、ことごとく持ち、もって供養せば、皆もって仏道を成(じょう)す」とあるように、お寺にあって、法要に用いられる鳴り物のたぐいは、三宝を供養するための法器というわけだ。
 また「百縁経」に、「昔、仏が天竺の舎衛城の町におられたとき美美しく飾りたてた人々がたくさん集まって伎楽を楽しんでいた。
 そこへ托鉢の仏と弟子が通り合わせたので、みんなは大いに歓喜し、うやうやしく仏を礼拝した。
 そして、あらためて伎楽を演じ仏と仏弟子を供養した。
 そのとき仏は微笑して、かたわらの阿難尊者を顧みて申された。「この諸人等は、伎楽により、仏と僧を供養した功徳(くどく)によって、未来世においては一百劫のあいだ悪道に堕ちることなく、天上人中(にんちゅう)に生まれて最も快楽を受けるなり。
 そのまた一百劫を過ぎたのちは辟支仏(びゃくしぶつ・縁覚)となり、いずれもその名を妙声(みょうしょう)と曰わん この因縁をもって、もし、人楽(がく)をなして三宝を供養せば得るところの功徳、無量無辺不可思議なり」と。
 ひとくちに仏を供養する音声といっても、読経や声明(しょうみょう・仏の徳をほめたたえる唄)のように人間が声を出して行うもの、また器物を借りて音声を作りだすものもある。
 そしてまた、供養以外に、仏の説法を、十方の天龍八部、夜叉・鬼神に知らせるために器物を打ち鳴らすこともあり、また、四部の弟子の集合、食事、就寝起床の知らせなど、合図のために音を利用することもあって、鳴り物も一様にはくくれない。
 時計が普及していなかった昔は明六つ、暮六つになるとお寺の梵鐘が周辺に時刻を報らせていた。
 勅修清規法器の章に、「大鐘は叢林(そうりん・僧の集まり住む所)の号令なり。暁に撃つときは長夜を破り、睡眠を警(いまし)む。暮れに撃つときは昏衢(こんく)を覚まし、冥昧(めいまい)を疏(しょ)す。〔中略〕
 ・・およそ三通各三十六下(突くこと)、すべて一百八下、起止(突きはじめと突きおわり)の三下はやや緊(きびし)く鐘を鳴らす。〔中略〕
・・願わくはこの鐘声法界に超えて幽暗に悉(ことごと)く聞こえ一切衆生正覚(しょうがく)を成(じょう)せん。よって観世音菩薩の名号を称し、号にしたがって扣撃(こうげき)すれば、その利甚(はなは)だ大いなり 云々」
 やがて除夜の鐘を聞く大晦日です。どちらさまもご自愛のほど。

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