健康で、明るく、楽しく生きることを願う

「佛教徒であることを即質実に修行して、ああしては不可ない、こうしては不可ないと、がんじがらめで考えるのは間違い」だそうです。「生涯を充実して生きること、生まれて来て良かったと感謝出来るような、一日も長生きが出来るように願えるような、そのような立場に人をおくことが救いだ」。このようなお話を聞けるとご安心されると思います。修行しなくては、修行するぞ、それでは、まるで強迫観念に支配されたような毎日で、息苦しく感じます。佛教は幸せのためにあります。(文中の要約文:田川純照)

恭敬三宝 謹賀新年 今年は二十世紀の締めくくり

恭敬三宝は帰依佛・帰依法・帰依僧のことです。佛教徒のあるべき生活態度を表したものです。

大晦日の午後十一時ころから三々五々に参詣なされた方に正賀湯(生姜湯に砂糖を加えた飲物)を接待し、百八煩悩を滅する鐘を鳴らし、法主さんの新年挨拶、続いて、大般若転読法要が執行されます。毎年の積み上げですが、法主さんは新年のご挨拶に出ることについて体調を調えることに相当な神経を使っておられます。

法主さんのお話より

今年は二十世紀末(西暦一九〇一年の年初から二〇〇〇年の年末までの一〇〇年間の最後の年)に相当し、気持ちが高揚するような一面があります。

地球が出来て、生物が発生して、人間のような知能を持つ生き物が出来るまでには六〇億年もの時間が必要とかで一〇〇年も一〇〇〇年も余り大きな相違ではありませんが、平均寿命が七〇歳や八〇歳を超えるようになっても、一〇〇歳を超える人は珍しく、二〇〇〇年などという切りの良い年を跨ぐことは、まあ目出度いことです。

世紀末に何か悪いことが起きると予言しては不可ません。良いことも悪いことも何時でも起きますし、お天道様(てんとうさま)のことは予測がつきません。

一人ひとりについて言えば、自分の生老病死の方が余程大切なことで、衛生や医学の進歩などて人間の寿命が延びても、生まれて来たら老病死は避けられません。

補足として(田川)

お天道様とは太陽。大日如来。超自然の宇宙の道理。六道・十界の一。欲界の六天、色界の四禅十八天、無色界の四天を言います。自然環境が人間に与える事象、広義には経済状況なども含みます。

詳説すると佛教大辞典の丸写しになりますので、興味のある方はご自分で勉強してください

法主さんは難解な佛教用語は殆ど使われません。突っ込んで勉強されたい方には膨大な佛教関係書籍を所蔵していますので、お越しになって研究してください。

四摂法(ししょうほう)は人びとを救うための、具体的な実践項目です。

  1. 一、与えること。
  2. 二、やさしい言葉を用いること。
  3. 三、善行で世のため人のためになること。
  4. 四、相手の立場で考えて協力すること。

布施、愛語、利行、同時摂事で、四つの把握法が原語の直訳です。

で、これらの基本的なことについて、今までに何度も話されていますが、四摂法とか摂事などの言葉は使われたことがありません。

今までに十善戒のお話で説き尽くされていることです。

節分星祭は年越しの日に際して、幸多き新しい出発を神佛に祈る

一一〇〇年くらい昔の宇多天皇の頃、鞍馬の奥に二匹の鬼が住んでいて、都に危害を及ぼすので、天皇は毘沙門天に霊示を受けて、三石三斗の煎り豆を鬼に目に投げて退治した故事から「福は内、鬼は外」といって豆撒きをするようになり、追儺(ついな)といいます。相当昔からあった行事です。

一年は春夏秋冬で回っていますが、節分は立春の前夜、冬と春の季節の分かれ目に幸多き年となるように祈ります。新年初詣や年末のお礼参りと重なり、観音院では十二月から二月の十三日くらいまで厄除けと招福のご祈願が行われています。

十二月三十一日の年越し法要くらいから福引があったりして沢山の参詣者があります。

星祭は護摩木を壇上で焚いてご祈願します。元日は四座、日常は毎日三座執行しています。

護摩祈願は、御佛(みほとけ)様の智恵の光をもって、願主の迷いや不浄な心を焼き払い、清浄な心で災厄や悪意を消し、幸せ多く良い人間関係に恵まれるように祈ります。

観音院の法要は祈願と合わせて願主のご先祖さまの菩提を弔うのが常で格別な特徴になっています。

これは想像を絶する修行で五年とか十年と、期間を定めたものでは無くて、毎日のことで、さりとて修行しなくては、修行するぞ、修行しなくてはで執行出来るような生易しいものではあのません。

観自在も通巻二百四十号を超えましたが、努力して発行するような考えでは残酷物語です。寺のことを皆さまに報告したり、行事の写真を撮影したり、ホームページに転載したり、それらを楽しみにやってなくては浮かばれません。

世間様が良くやっていると誉めてくださることは、実際には淡々と余裕をもってなされなくては担当者は苦労だけになります。

何事も明朗に、さりとて脱線せず、余暇には趣味をもって、旅行したり、オフ会をもったりして楽しく充実した日々を送っています。

法主さんは見掛けは窮屈な立場ですが、夜は十時には帰寺されますし、定期検診は受けられるし、泥酔されることも無いし、適当に運動もされていて、真面目で几帳面ということが幸せなんです。

生きることや仕事がだんだん辛くなる、どうしたら良いだろうか、仕事をすることや生きることが辛くなる、休みたい・死んでしまいたい、どうして良いか分からない、休むと仕事が溜まる、頑張らなくては、頑張っても駄目、どうして良いか分からない、毎日が辛くなるような「悪循環」は絶対に避けて頂きたいと願います。

法主さんはコツコツと誠実に生きて幸せを実感できて、それを周囲に及ぼし、皆で幸せになる方法を示しておられるだけです。

慈悲は佛教の実践の中心の徳目。慈悲は佛であり、それで凡夫は救われる

観音院の慈悲は境内建物では頑丈に設えてあって、防災に十分の配慮が払われていて、維持する檀信徒さんに永い目で見て負担が余り掛からないように出来ています。

本来は板で造る縁側部分が黒御影石で出来ています。これは雑巾掛けの労力を省いた構造で、須弥壇も黒御影石で防火上の配慮、境内の石畳は草抜きの労力を省くこと、その他にも専従者の労力を省く工夫が全体にしてあります。

運営の上では経理の公開や議事録の開示、世襲制の廃止、後継者の養成など、多くのお寺さんが悩んでおられることが排除してあり、心配が無いような慈悲が具体的に採り入れられています。

出入り禁止の場所がありませんので、公序良俗に反する活動が不可能になっていて、これも慈悲の構造的な具現です。

勘定科目の中に檀信徒奨学金があるのも珍しいことです。

保護を受けている世帯の子弟で高校で月額三万円、大学で五万円で、卒業後に返済を求めません。

ただし、奨学金ともなれば成績が優秀でとか、留年すれば打ち切られるとか、予算が厳しい時には募集をしないとか、ここらあたりは慈悲に限界があり、宗教法人では止む得ぬことかと思います。

僧侶や寺院職員の守秘義務は、医療情報以上の守秘義務で絶対に漏洩することが無いように決められて、懺悔告白については犯罪に関しても自首は勧めても寺から通報するようなことはありません。

僧侶や専従職員の役宅を歩いて三分の位置に用意するとか、法主さんと住職さんの何方かが寺に必ず居られる態勢なども、三百六十五日毎日法要が執行され、二十四時間、寺の門が開いていることも慈悲の表現です。

災害用の青いビニールシート類を備蓄していることも、発電機を二重に備えつけていることも全て慈悲の直接的表現です。

寺院も自由競争の時代に突入。世間から選択して貰えるお寺

慈悲を標榜する観音院にあっては、慈悲は太陽のようなもので、日陰に居る人には当たらないと鷹揚に構えていることは出来ません。

慈悲は売り物でも無く、価格もありませんが、求める人に慈悲を用意し、積極的に世の人びとに差し上げなければなりません。

判りやすい例を上げれば大学です。小子高齢化社会で子供が激減し、社会からは即戦力の卒業生を求められる、大学生は入学後は遊んで授業に身が入らない。つまるところは興味深い授業、良い先生を用意すること、産学共同と言われる通りに社会と密接に協力したものでなくてはなりません。

お寺も同様です。檀家制度は徳川幕府のキリシタン禁制の下で、寺請け制度の中で人別帳を預かりがっしりした制度と規制の中で温存されてきた一面があります。

現在のような核家族や都市集中化、家庭の崩壊は予測していません。市民は寺を自由に選択出来るように憲法で保証されています。

葬式佛教とか葬式坊主と言われるのは厭なことです。日常的に皆さまの生活に関わって喜怒哀楽を共にするような、社会に組み込まれた寺院として機能することに大変な努力を続けています。

慈悲、慈悲と言うのも書くのも簡単ですが、寺として慈悲をどう示すかというのは、私たちは真面目に考えているだけに大変なことだと思います。台所や便所を綺麗に清潔にすることも、紛れもない慈悲の行いです。

寺子屋を運営し、パソコンを使用してもらうのも慈悲です。食事時に粗飯を提供するのも同様です。

驚かれるかもしれませんが、御佛様を大切にするのも慈悲です。

「慈悲」について法主さんに意味を聞いてみました。

法主さんのお話

慈悲とは佛さまが衆生をあわれみ、いつくしまれる心。一説に、衆生に楽を与えるを慈、苦を除くを悲という。難しいね。

相手の立場で考えて、相手の喜ぶようにして上げること。但し、慈悲には銀行業務と保証業務は含まれない。司法にも医療にも殆ど
無いと思った方が良い。

英語のMEYCYで正解だと思うけれど、詳しくは中村元博士の「慈悲」を読んでください。

慈悲深い人の心の中に無慈悲が住んでいる。鬼の目に涙といって無慈悲な人の心にも慈悲深いものがあったりする。

多くの人は慈悲深い方になることを志していて、無慈悲を標榜する人は出会ったことが無い。

多くの場合、慈悲深い人は経済的に恵まれていることが多く、その日暮らしでは無い袖は振れぬ。

慈悲と言う言葉の解釈はとても難しい、人の言動から滲み出るようなもので、観察期間が必要。

法律に基づいて仕事をしている警察官とか裁判官が恣意(しい)に慈悲を振り回したら世の中は無茶苦茶になる。学校の先生の採点が甘くなれば失格だし、医師が無料で薬をじゃんじゃん出したら病院は立ち行かない。

私は慈悲深い僧侶か、僧侶は誰でも点検してみる必要がある。旅行ではグリーン車かFクラスに乗りホテルも一流。寺では冷暖房完備で、新鮮で工夫された料理を食べている。溢れるばかりの皆さんの思いやりの中で日常を過ごしていて、大変に感謝していますが、さて私が慈悲を標榜する寺院の教義の責任者として口先で慈悲を唱えるのではなく、慈悲の実践について常に点検しなくてはならない。

法主さんは皆さんと共に

法主さんの日常は職員や信徒の皆さまに提供する食事と同じで、お客さまとレストランなどに行かれた場合に、コースであれば半分程度、アルコール類は召し上がりません、食が細いのです。外出は全て仕事で、車両やチケットの手配は全て私どもが手配しています。

法主さんは慈悲深い僧侶だと思います。内緒事が一切ありませんし、ご自分で買物をされません。

膨大な人と面談され、善く拝まれ、生活は規則的で、これといった欲望をもっておられません。

物とか地位とか、これといって執着されるものが一切有りませんので、周囲の人間は応対に大変に気を使います。

気を使うようでは厭がられますし、粗末にも出来ない、そのようなところが難しい点です。

何時までも長生きしてくださるよう祈りながら、目立たないように、皆さんと相談しながら法主さんに仕えて参ります。

  1. 佛教には静とか無我とか無欲など欲望を押さえるようなイメージがあって、明るく楽しく生きる発想は持ち難いように思われています。加えて葬儀の場合などに佛教と触れられる機会が多く誤解があります。
  2. 十善戒は間違い少なく人生を充実して生きるためにあって、佛教は日常生活に役立つ心強い知識です。
  3. 生涯を善人として過ごすか、疑問符を背負って生きて行くか、損得を離れて考えれば、善人として生きる方が人間関係は良くなります。
  4. 善なるものに執着し過ぎると周囲の迷惑となる場合もあります。
  5. 物事はほどほどに、出来れば善い人としてご近所や同僚などから評価される方が生きるのが易しいと思います。
  6. お寺さんも世間と同じように競争の中にあって、檀家制度の中で安閑としておれないことを自覚しなくてはなりません。何を世間さまにお寺が提供出来るかが大切になります。
  7. 観音院は経理と運営を公開する信徒運営のお寺です。どのように在れば良いか皆さまの提案と、より良い奉仕で、存在したいと願います。
  8. 執着を全て無くすと慈悲の対象すら失うことがあります。欲望を滅することで自分一人の問題は全て解決して結構なことだけれど、それでは石ころと同じに成りかねないので、そこから慈悲を生み出すのは御佛様にお縋りするしか道は無く、慈悲をどのように示せるか、皆さんとご一緒に考えて参りたいものです。

人間がいて、社会があって十善戒も慈悲も、大海原の孤島に一人で住めば、生老病死だけ

法主さんのお話より要約

船が難破などして、大海原に一人が流れ着いて孤島で生きて行くことになれば、その人は慈悲心を持とうにも相手がありません。

孤高という言葉がありますが、人並み優れた修行をして涅槃の境地に赴いた人は、ともすれば周囲に一切の関心が無くなる。執着も無ければ、関心も無い、それは結構なことだけれども、その境地から慈悲を示して行くようなものでなくてはなりません。

悟りを求める者の陥りやすい独善で、周囲の人との協調、周囲に対する感謝、自分の体験や考えていることを社会に表明することは非常に重要な役割になります。

法主さんが地位や金銭、物品、人間関係などについて執着を完全に解脱しておられることは周辺の人は理解しています。

ですが、観音院に対して密接であり、信徒さんをとても大切に思われて生きておられます。

同時に、屁理屈や得手勝手な主張をすると、縁が切れてしまいます。馬面人参方式も通用せず、動機付けの材料がありません。全ての人は漠然と好みの方向に流れて行く傾向があります。

法主さんはご自分の人生については、思い残すことなく整理されていて、早く引退され、以来もう十四年、幸いにも健康状態に細心の注意をされていて、大胆なことは決してされません。

自分の不注意で病気になったり、怪我をしたり、寝ついたりしたら申し訳が無いと言われます。

健康に注意するのは、自分の身体であって自分の身体でない、だから大切にされるのだそうです。


結婚しなければ子供も出来ない。子供の将来で苦労もせずにすむ

この世に生まれて来て、成長して、勉強して、結婚して、子供が出来て、これは大変に幸せなことです。多くの宗教は聖職者に家庭を持つことを認めていません。

そのような意味では明治五年の「僧侶の妻帯勝手」という法令以来、多くの僧侶は大変に苦労されているように思われます。

僧侶が妻子(配偶者と子供)を持つことは、考え方次第では大変な悩みを持つことと同じです。妻子の将来を考えると資産が必要です。資産を持つには収入とか、倹約とか、愛情とか、運用とか、さまざまな知識が必要になります。

子供の教育とか、その子供に寺を継がせたい、このように考えることは普通の親です。自分の老後のことも気に掛かります。

そのような家庭事情をもっていて、僧侶たらんとすることは大変な矛盾です。ある意味では葛藤かもしれません。

お釈迦さまが出家された際に周囲は全て放棄されています。動機として生老病死苦などが上げられていますが、お釈迦さまと人間関係があった人々にとっては辛い決断があったと想像されます。

法主さんが家庭についての精神的負担を滅せられるまでには、この問題に気付かれて約三十年の歳月を要しておられます。

全ての人に平等に人間関係を始めるだけでも相当慎重な努力が重ねられているようです。

住職であることを辞める、宗教法人の責任者としての苦労、観音院の場合であれば職員の生活を保証する責任、それだけでも小企業の社長さんと同様の責任はあります。採用とか仕事の割り振り、そのようなことは僧侶の立場としては関わることが難しいのです。

住職は源泉徴収義務者でもあります。寺院財産の管理責任者でもあります。これらは極めて世俗的なことで、悟りを求めることとは全く関係がありません。

火災保険、社会保険、生命保険など、いわんや預貯金の管理や帳簿の整合性など、僧侶の関わることとも思えません。尤も、この時のご苦労が法主さんの現在の心境を保証する年金となって役立っているのですから、皮肉と言えば皮肉ですが、「悟ろうと努力するには、日常の雑事を几帳面にしておくべきだ」と言われます。

現世や来世についての一切に執着が無くなったとしても、慈悲の対象まで失われては法主さんの存在そのものが迷惑となります。勿
論、大きな慈悲は持っておられますので、慈悲の実現には職員全員が協力したいと考えています。

「苦」は誰もが厭うものです。他から持ち込まれる苦は降りかかる火の粉のようなものですが、自分で自分の心の中に苦を生じる精神構造を滅することは困難なことだと言われます。

悟ったようでも、他から苦を持ち込まれたり、自分で心中に苦を生じせしめたり、不動の悟りは難しいものだとも言われます。


一喜一憂・四苦八苦する。御佛様に抱かれていて解脱

観音院のインターネットのホームページは大変に有名で、維持と更新は多くのボランティアに支えられていて今日があります。

多くのボランティアのご協力は実はホームページには馴染まないものがあります。更新をお任せしている人にはパスワードを教えています。時には古いデータに戻されたり、大切なソフトが書き換えられて動かなくなったりすることもあります。

間違いは多々ありますが、法主さんは「全部無くなっても一からやり直す」と未練も執着も持っておられません。

ですが、職員としては大切にしていてデータを蓄積しています。

アクセスは時には二万を超える日もあり、ミラーサイトも用意していて、ドメインは現在十二個を所有しています。

ネットのドメインも持っていて信徒さまにはファイル領域を無料で貸して上げることも可能です。

Name @buddhist.or.jp  とか Name @bukkyou.ne.jp

ならサーバーを持っていますので幾らでもメールアドレスを作って上げられます。

生前戒名くらいに考えて頂けばご理解頂けると思います。

とは言いながら、これも作業上の限界があり、そのために専従者を置くほどの費用がありませんので、佛縁の有る方の範囲内になると思います。

掲示板やチャットなどなら信徒さまには幾らでも使って頂くことが可能です。何かの時に思い出して頂ければ幸甚です。

人、一人ひとりの人間としての尊厳を認め、他人を自分の思うようにしたいと願わぬこと

人として自分で自分の心の中に作る苦で一番大きなものは、自分の子供を自分の好きに出来るように錯覚して、好みに出来ない苦しみといわれます。

観音院は世襲制を廃止していますが、それには法主さんの心中に葛藤があって、それを乗り越えるには「たがを外す」必要があると思われたからです。

そもそも出家の動機として僧侶という家の職業を継がなくてはなどという考え方は間違いです。

何処のお寺さんの子供も、子供は子供なりの人間関係を持ち、普通の家庭の子供と類似した生活をしておられます。

強いて違いを挙げれば、本堂があって、庫裏に住んでいる。父親である僧侶が真面目であれば朝夕読経をする、母親が佛飯を供えることくらいでしょうか。

親の考え方にもよりますが、小中学生の時に得度して突然に頭を剃って登校する、この時の子供の精神状態をどのように考えられるでしょうか。

社会も僧侶の後継者は僧侶の子供というような暗黙の了解、未だそれほど長い期間は経ていませんが、そのような思い込みがあると思います。

NHKのドラマで僧侶の一人娘を愛して、その娘さんと一緒になるために出家修行するというものがありましたが、無茶苦茶な設定ですが、現実には有り得ます。

観音院によく相談に来ていたお寺の娘さんが、会社員と恋愛されて、僧侶になってくれるよう説得して欲しいと依頼された住職さんが、会社員に会って本当に説得されてしまいました。

お寺さんも檀家さんも喜んだのですが、結局は僧侶にならないで娘さんは寺よりは会社員を選択されました。

この例について法主さんは「会社員が僧侶になっていたら、二人の子供を僧侶にしたいと願っただろう」と言われます。

お寺の一人娘さんが都市部に就職して、運が良いと配偶者を連れて田舎の寺に帰って来ることはありますが、このような在り方で寺を存続して行くことに皆さんは矛盾を感じられないでしょうか。

宗教法人やお寺の公益性と住職の私物化がしばしば問題になりますが、世の中がそうさせるようになっているとも考えられます。

最近では女性でも出家して僧籍に身を置き、住職になる道が開かれています。観音院の住職資格については性別は問いません。

観音院に僧籍がある人の内から縁がある人が次の住職になられることになっています。

観音院は完全に同族的運営ではありません。責任役員十名は三親等以内の親族が重複出来ず、評議員規定は寛容で住職以外の人では重複しておられる例はあるかもしれません。監事は春木吉祥・能島慶華・田川純照の三人です。

これからの寺院がどうあるべきか、未だ明確な道が示されている訳ではありません。観音院は一つの実験的試みで、これが正しいと信念をもっているのでもなく、模索しているのです。

日本は本当に民主国家か。水戸黄門漫遊記の人気は

先日、法主さんテレビのスイッチを入れられて、「水戸黄門漫遊記」を放映されているのを見られて、このような番組が長続きする日本について、日本は民主化されたのだろうかと慨嘆しておられました。「あの印籠は目に入らぬ」とも言っておられますが、皆さまはどのように考えられますか。

検察官も裁判官も弁護士も一緒にしたような存在を望むことは怖いと思われているのです。あまり神経質にならずに受け止めるべきかもしれません。

平成十一年度もいろいろ不祥事が続きました。挙げ句の果ては違憲ではないかと疑われる法律までが制定されたりもしました。

宗教もビジネスではないかと疑われるような集金活動をするものが出て来たり、児童の義務教育を否定するものから、常識で考えられぬ教義を持つものまで存在していて、文化庁も警察も大変です。

企業の再構築は時の流れのようにも見えます。韓国は経済危機脱出宣言をしましたが、多くの失業者が出ました。日本もどうやら経済危機から回復基調に向かっているようですが、働きたい人に求職が少なく、大変に心配です。

健全に見える企業が粉飾決算をしていたり、お役所の仕事に談合が行われていたり、税金の無駄遣いが表面化したり、何だか想像上の強大な権力を持っている「水戸のご隠居」さんを待ち望むような雰囲気があるようです。

アスピリンで血栓を防ぎ、血はさらさらと流したいもの

法主さんは大体三ヵ月に一度は血液検査を受けておられますが、加齢に伴う不調を防ぐためにアスピリンや中性脂肪を少なくする錠剤を差し上げています。

観音院のアスピリンは監事制度です。監事は観音院の業務が適性に執行されているか常勤で監査を行い万一不正があれば、この観自在の紙面で報告し、独立した権限で役員会を招集し、是正を求めることが保証されています。

また監事は、法主さんや住職さんの業務に適性を欠く発言や行為がある時は、その場で訂正する権限を持っています。

どのような組織もやがて歪みや腐敗は生じます。どのような技術を用いた乗物も乗換えの時期があります。堅牢無比な建造物も崩壊する時が訪れます。

組織を社会有為に生かして行くか、乗物を無事故に運転するか、建造物を後世に残して行くか、それは人々の努力次第です。

全てのものは移ろいて、しかも元の形を止めることなく、水が流れとなり、海にそそぎ、雲となり、雨となって行くようです。

細心の注意で取り扱う、清潔にする、手入れを怠らない、見掛けだけで判断せず内部構造の疲労などに注意する、たくさんの人の意見を聞くことなどで不幸は避けられることがあります。

人もまた生老病死を逃れることは出来ません。四苦八苦の中に在りながら、それをどのように受けとめるか、冷静で慎重な思考をする傾向を身に付け、二十世紀最後の一年を充実して過ごされるよう祈念いたします。

一切のものに執着を滅することは難しいことではなく、教えを素直に信じれば良い。悟っても生きている限り、四苦八苦の中にあり、そこから慈悲を生み出す働きも生まれる。分からぬことは素直に認め、知らぬことを知ったかぶりをせず、冷静にありのままの自分を見つめ、努力を続けて行くと良い。

悟ることと富とは関係が無い。相応を超えて求めると矛盾する。周囲の人々に感謝し、それを体現出来ると良い。自分の出来ることと出来ないことについては正直でありたい。

約束を守り、誠実に生きて行くなら苦悩は比較的少ない。身近な人から信頼され、それが少しづつ広がって行くのを見ると良い。

人の基本的人権は冒してはならない。親には親の考えがあり子供もまた同じ。自分の心が思うようならないのに、他人を自分の思うようにしたいと願うと、自分で自分の心の中に自分で苦を作ることになる。

他人から持ち込まれる苦は容易に避けられるが、自分で作る自分の苦は相当に厄介なものである。

出来ぬものを作れると思い、あるものの姿を永続すると信じる。努力して物事を成し遂げ、それを比較的に永く維持することは可能だが、永遠に続くものなどは有り得ない。

諸行無常を受け入れることが出来れば、四苦八苦も苦にならなくなる。今年は二十世紀の最後の一年、充実して過ごしてください。

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