修行の僧を迫害しかえってひどい目にあった話

「日本霊異記」より

 昔、故京(旧都・平城京に移る以前の都であった藤原京、飛鳥京のこと)の頃の話である。
 ひとりの愚かな男がいた。とにかくこの者は、道理とか人情とかをどこかヘ置き忘れてきたようなたぐいの、どうしようもない人間であった。
 あるとき、その男が住む家の門口に托鉢(たくはつ)の僧が立った。屋内からそれを見ていた男は、托鉢僧がいつまで経っても門前を去る気配がないのに腹を立て、目障りな僧を縛り懲(こ)らしめてやろうと、理不尽にも縄を手にすると怒号とともに戸口からおどり出た。
 ただならぬ男の血相に驚いた僧は、水を張ったばかりの田んぼ伝いに走って難を逃れようとしたが、男は執拗に僧を追いかけまわして捕まえようとするので、僧の忍耐と我慢もそこでぷっつり切れた。
 僧は右へ左へと走りながら、いそぎ呪文(じゅもん)を口に唱えると、まさに掴みかかろうとする男の身体を呪縛(じゅばく)して、自由を奪ってしまったのである。
 にわかに五体を金縛りにされた男は、棒が倒れるように転び、ようよう立ち上がると、不格好な姿でその辺を右往左往する。そんな男に憐憫の一瞥(いちべつ)をくれると、僧は足を早めてその場から立ち去り、あとを振り返ろうともしなかった。
 さて、この愚かな男には二人の子がいた。呪文をかけられて動けなくされてしまった父親の身体をなんとか元通りにしてやりたいと思って、子らは足を棒にして、毎日、呪文をかけて去った僧を捜し歩き、ようやくのことにその寺を捜しあてた。
 さっそくその寺を訪ねると、応接してくれたそこの寺の高僧に、どうか父親の呪縛を解いてくれるよう懇願した。が、高僧はなかなか「よろしい」とは言ってくれなかった。
 二人の子はそれでも諦めず、なおも、ねんごろに、父親の厄難を取り除いてくださいませ、と高僧の膝にとりすがらんばかりにして頼みこんだのである。
 理由もなく自坊の弟子の僧を辱めた愚人を救うのは、高僧としても不本意でいやだったのであろうが、父親をおもう二人の子の情愛にほだされたのか、高僧は、おもむろに外出の支度をすると、子らに案内されて男の家へと赴いた。
 そして、おごそかに観世音菩薩普門品(ふもんぼん)の初めの段を誦(ず)し終える頃合いに、男はそれまでの呪縛から身体を解き放たれたのである。
 このことがあってのち、くだんの男は信心を起こし、邪を転じて正に向かう人間になったという。

寅さんの疑問

寅さん ご隠居にお聞きしますが、この「日本霊異記」を著述した景戒さん、ですがね。

ご隠居 あらたまって何だ、景戒さんがどうかしたか?

寅さん この人は、だいたいいつ頃の人です? たしか「日本霊異記」に記載されている最終年代の説話は平安時代初期、嵯峨天皇の頃までだということでしたが。

ご隠居 そのとおりだ。前回も述べたように、景戒が「霊異記」撰述に取り組んだ期間は、光仁天皇の延暦六(七八七)年から嵯峨天皇の弘仁十四(八二三)年、三十七年間の長きにおよぶといわれている。

寅さん そうすると、これは私の当て推量ですが、この景戒さんはお大師さまとほぼ同時代を生きていた、というふうに考えてよいでしょうか?

ご隠居 もちろん。お二人は同じ時代の人だ。ただ残念ながら景戒さんの生まれ年も没年も分からない。
 若いころの景戒さんは市井(しせい)にあって、私度僧(しどそう)として暮らしていたようで、むろん彼には妻子もいたであろう。そういう庶民的な生活環境にあったからこそ「日本霊異記」に収録された多くの民間伝承を採集できたともいえる。
 そして「霊異記」の撰述に本腰をいれて取りかかっていた頃には、すでに彼は奈良の薬師寺に定住して、著述のかたわら僧侶の勤めに励む毎日であったようだ。

寅さん 景戒さんの没年がいつだか分からないにしても、「日本霊異記」に収録されたいちばん最後の説話が弘仁十四年だとすると、当時すでに朝野に名声嘖嘖(さくさく)たるお大師さまの評判を、景戒さんが知らないわけはありませんよね?

ご隠居 むろん知らぬはずがない。
 唐の長安青竜寺で恵果さまから伝法を受け、真言密教の第八世法王として日本へ帰ってきた僧空海に対し、当時の朝廷も奈良仏教界も多大の期待を寄せていたらしいから、同じ奈良の僧侶である景戒も、この新来の僧の動向に強い関心をもって注目していたはずだ。

寅さん そこで私が聞きたいのは「霊異記」にはなぜお大師さまの話が出てこないのでしょうかね。
 私はこの欄に「日本霊異記」が紹介されるたびに、もう出るか、もう出るかと心待ちにしていましたが、お大師さまの話はいっこうに出てこない。これはどういうわけでしょう?

ご隠居 それは寅さん無理というものだ。
「日本霊異記」にあるこの種の話は、人から人へ長い歳月をかけ、尾ひれをつけて伝承されたものだ。
 だから、どれほどに、お大師さまにまつわる不思議な話であったとしても、それは景戒からすればニユースであって、説話としてまだ成熟していない。
 たとえば、お大師さまが乙訓寺(おとくにでら)の柑子(こうじ・みかんの一種)を嵯峨天皇に贈られた話など、「日本霊異記」の話柄(わへい)として好個の内容のものだが、こういう話が説話化されるには、少なくともあと百年の時の経過を必要とするであろう。

 沙門(しゃもん)空海、言ス。
乙訓寺ニ数株ノ柑橘ノ樹アリ。例ニ依ツテ、交ヘ摘ンデ取リ来レリ。
数ヲ問ヘバ千ニ足レリ。色ヲ看レバ金ノ如シ金ハ不変ノ物ナリ。
千ハ是レ一聖ノ期ナリ。—- 

 以上は、お大師さまが、柑子に添えて天皇に献じた文章で、果実の数を千個にして帝(みかど)の天寿をことほぎ、黄金が不変であることにかけて、嵯峨天皇の永久の健康を祈念する、といった文面になっている。

満農池とお大師さま

ご隠居 せっかくだから、そのころのお大師さまの消息を年表風にここでおさらいしてみよう。

 大同元年(八〇六)十月、唐より帰朝。筑紫太宰府に滞在する。
 大同四年、京の高尾山寺に居を定める。
 翌年の弘仁元年(八一〇)国家鎮護のための修法をおこなう。
 この年(三十七歳)東大寺別当(寺院の事務長官)。
 弘仁二年、乙訓寺別当
 弘仁七年、高野山開創の上表文を提出し、勅許される。
 弘仁十年、高野山開創に着手。
 弘仁十一年、伝燈大法師位、内供奉十禅師となる。
 弘仁十二(八二一)年、四国の満濃池修築工事別当。
 弘仁十四年、密教道場として、東寺を賜る。

寅さん 満濃池の工事についてはたしかちょっとしたエピソードがありましたね。

ご隠居 満濃池は、高野の大師が讃岐の国の人々をあわれんで築いたという伝承があるが、実際にはこの地方の日照り、洪水に備え、灌漑(かんがい)用として、お大師さまより百年も前にすでにそこに水を湛えていた。
 ただ、この池はよく決潰した。とくに、弘仁九年には収拾しがたい大決潰を引き起して泥海と化し、あたり一面の人家や田畑が流出した。
 そのため国司がこれを改修しようとして三年間復旧工事をしつづけたが、池が大きい割合に人手が少なくて容易に完成することができなかった。雨季になると、そのつど崩れた。
 住民はたまりかねて、京においでのお大師さまをわずらわし、築池使に任命してくれと請願した。そこで、国司から改めてお大師さまに工事監督として讃岐に来てもらうように願書が朝廷に差し出された。
 そのときの願書にこうある。

伝燈法師位空海をして満農池を
 築く別当に宛てんことを請う状

「—-築池使路浜継等、去年より始め、勤めて修築を加ふ。然るに池大にして民少なく、築成未だ期せず。今、諸郡司等の申して曰く、僧空海は郡下多度郡の人なり。行、離日に高く、声、弥天に冠たり。山中に座禅せば、鳥巣ひ獣狎る。
 海外に道を求め、虚しく往きて実ちて帰る。これによって道俗、風を歓び、民庶、景を望む。居るときはすなはち生徒、市をなし、出ずるときはすなはち追従、雲のごとし。今、久しく旧土を離れて、常に京都に住す。百姓、恋慕ふこと実に父母のごとし。もし師来ると聞けば、郡内の人衆、履(くつ)を倒(さかしま)にして来たり、迎へざるなし。
 伏して請ふ、別当に宛て、その事を成らしめたまへ——。   弘仁十二年四月」

ご隠居 これを要約すると、これまで三年間、路浜継(みちのはまつぐ)を築池使として、満農池の修築工事をこころみたが、何分にも各村々に割り当てた徴用の人数にかぎりがあるため、いまだ竣工に至っていない。
 さて、どうするか。関係者一同思案にくれていたとき、期せずして皆の意見が一致した。かくなるうえは我らと同郷であるあの空海和尚のお力にお縋(すが)りするより他に方法はない。
 あらためて言うまでもなく、空海和尚の名声は日に日に高く、今や天をおおうばかりである。和尚は一留学僧(るがくそう)として唐へ渡り、長安より真言密教第八世法王として帰国された。
 今まで誰もなしえなかったこの破天荒の快事に、道俗を問わずその教化(きょうけ)を待ち焦がれている。
 高尾山寺にあるときは、弟子たちが周りにむらがり、山を下りて他出すれば、列をなしてうしろにつき従う。そういう噂を聞くにつけても、讃岐の人々の空海和尚を恋い慕う気持ちは父母のごとくである。
 もし和尚が来られると聞けば、履物をたがえるくらい慌ただしく飛び出してお迎えするだろうから、ぜひ和尚を工事の長官にご任命ください、という内容だ。

寅さん で、お大師さまは?

ご隠居 京から讃岐まで、道筋ごとに国司以下すべての役人が出迎えるなか、当のお大師さまは若い沙弥一人と四人の童子をつれて行かれたそうだから、助さんと格さんをお供に、おしのびで野原を行く水戸黄門をなんとなく彷彿(ほうふつ)とさせる風景だな。

寅さん で、首尾はどうでした?

ご隠居 首尾もなにも、お大師さまを待ち焦がれていた人々が、またたくまに、近郷近在から整理するのに困るほど馳せ集まってきたから、さしもの難工事がこのあと一ヵ月ほどで完成したという。

法華経を誦む人をあざけったため 口がゆがみ悪報を得た話 
                         「日本霊異記」より

 昔、山背国(やましろのくに・京都府)に、一人の自度僧(官の許可を得ないで勝手に僧の姿をしている人・私度僧)がいた。姓名は不明である。
 この男は、表向きこそいかにも僧侶であるという風を装っていたが、日々の暮らしの実態は僧というにはほど遠く、暇を惜しんで碁ばかり打ち、それを最上の娯しみにしているといった人間であった。
 その日も、いつものごとく碁敵(ごがたき)の白衣(びゃくえ・僧の黒衣に対する在家のこと)を相手に碁盤を囲んでいた。
 そんな折り、一人の乞食(こつじき・仏道修行を名目にして食を乞う者。律令制国家の当時はこういう年貢負担から逃亡したエセ修行者が多かった)が、どこからかふらりと現れ、碁盤を囲む二人の前につっ立って法華経品を誦みはじめた。
 僧を自認する男は、最初のうちは黙って、その乞食僧をうるさそうに、あっちに早く行けといわんばかりに、ただ睨むだけであったが、法華経の読誦が際限もなく延々とつづく様子に、ついには囲碁どころでなくなった。
 勝負への集中力を欠いた男は、やがて碁はそっちのけにして、ことさらに口許(くちもと)をゆがめて、発音、発声の訛(なま)りそのまま、経を読む乞食僧の物真似を始めたのである。
 相手の白衣は、悪ふざけする男を碁盤ごしに窺(うかが)いながら、一目一目、碁石を打つたびごとに、
「あな畏し、あな恐ろし(おそれおおいことだ、つつしむべきだ)」
と、ぶつぶつつぶやいた。
 二人はそのあともずっと碁を打ちつづけたが、そのたびに白衣が勝ち、男が勝つことはなかった。
 そればかりか、負けつづける男の口が、いつの間にか、だんだんと醜く歪んでいったのである。それから以後どんな治療も効果なく、終生治癒することがなかった。
 法華経普賢勧発品にいわく、
「もし、この経を軽んじ嘲笑する者あらば、世々に歯が欠けてまばらになり、唇がくろずみ、鼻がへこみ、手脚が歪みねじれ、目は藪睨みとなるべし」とあるのは、すなわち、このことであろうか。
 たとえ邪鬼にとり憑(つ)かれてたわごとを口走ろうとも、ゆめゆめ、持経者をあざけり、悪口を吐いてはならない。
 おたがい口業(くごう・妄語、綺語、悪口、両舌)は厳にいましむべきである。

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