佛まで五十二の位

寅さん
佛教では、人がひとたび発心(ほっしん=菩提心を起こすこと)して、佛道を求め、修行して、佛(ほとけ)の位に達するまでに、五十二位の階級があるそうですね?
ご隠居
十信、十住、十行(ぎょう)、十回向(えこう)、十地の五段階で各十位、五十位の階級があり、その階段を一つずつ昇って行って、最後に等覚(とうがく・菩薩)妙覚(みょうがく・佛陀)となる。
そして十信、十住、十行、十回向を賢位とし、十地と等覚、妙覚を聖位としている。
寅さん
ずっと以前、山下清さんという放浪画家がいましたが、彼は人間を評価するのに、「あの人は、兵隊のクライにしたらどのくらいですか」と、まわりの人たちによく質問したと聞いています。
そこで訊ねますが、ご隠居からみて現在の私の信仰心などといったものは、五十二位のうちのどの辺へいっていましょうか?
ご隠居
信・住・行・向・地・等・妙のいわゆる七科のうち、十信を伏忍(ぶくにん)の位ともいって、これはこの世の煩悩(ぼんのう)を伏して起こらしめないという意味だ。
とはいっても、「伏する」というのは、断ずるという強い意味ではない。
しばらくは教えられたとおり、おとなしくそれに従って、疑問を差しはさまない、という、どちらかというと消極的な信仰心で、この十信の内容をみると、一・信心(しんじん)、二・念心(ねんしん)、三・精進心(しょうじんしん)、四・慧心(えしん)、五・定心(じょうしん)、六・不退心(ふたいしん)、七・護法心(ごほうしん)、八・回向心(えこう)、九・戒心(かいしん)、十・願心(がんしん)とある。
寅さんの場合、「まことの道」の十善戒の教えにそむくことのないよう一生懸命努力しているようだから、大マケに採点をマケて、三の精進心、といったところでどうだろう。
寅さん
それって、喜んでいいんでしょうか?
ご隠居
むろん喜ぶべきだ。考えてもごらん。今の世の中に佛教に帰依(きえ)し、ほとけのご加護を心の支えにしながら、まっとうに暮らしている奇特(きとく)な人がどれほどいる?
ほんの一握りしか居りはしない。そのほか大半の「縁無き衆生(しゅじょう)」は、ほとけが救いのみ手を差しのべられているのも知らないで、自分だけを頼りに毎日あくせく生きている。
そこへゆくと寅さんはすくなくとも佛を信じ、ほとけの慈悲に見守られながら暮らしているわけだから、そういう人たちにくらべると、まちがいなく幸せ者といえるだろう。
――佛は名医 佛法は良薬――
ご隠居
そもそも佛教の目的とするところは、一切衆生の苦を救い、究極の安楽を得さしめることにある。
言い換えると、人間がいて、それらの人間がひとしく苦しみを背負っているから、佛教というものが存在する。
もし、人間がいて、その人たちに何ひとつ苦などなければ、どうして佛教を必要とするだろうか。
医療にしてもそうだ。医学・医療は、人間がいろいろな病気に罹(かか)るから必要なのであって、かりに、人間に病気など取りつかなければ医療も薬もまったく必要ないわけだ。
このように考えた場合、ほとけは人間の苦を救う名医のような存在であり、佛の説く法は良薬のようなもの、そして、ほとけさまに代わって法を説いたり、悩み事困り事の相談などで第一線にある僧侶は、ベッドのそばから離れない看病人といった役割なのかもしれない。
つまり、私たち人間につきまとう無明煩悩(むみょうぼんのう)というのは、病気のようなものだ。
それも心の病気だな。ほとけさまはその病気を治療するために、手をつくしていろんな薬を処方してくださっている。
なのに、そのありがたい薬にそっぽを向いて、あたまから受け付けようとしない者が大勢いるのもまた事実だな。
寅さん
お大師さまは、そのような人を十住心の第一段階ととして「異生羝羊心(いしょうていようしん)」とランクづけられましたが、その点、私は、佛の処方してくださる薬をありがたく頂戴してますから、その状態よりはいくらかましですね。
ご隠居
そういった薬を必要としない人、肉体や精神にわずらい一つない完全無欠の人を佛、菩薩であるとする。だからといって、佛菩薩はかならずしも理想化された偶像とはかぎらない。
大日如来は別格としても、お釈迦さまは実際この世に生きておいでだったし、龍樹(りゅうじゅ・西暦一五〇年ころのインドの人で、中国、日本で八宗の祖師と仰がれ大智度論の著者。龍猛ともいう)達磨大師(中国南北朝時代四〇〇年ー五〇〇年代。禅宗の始祖)もお大師さまもみなそうで、人間であり、人間の菩薩であられた。
佛教がインドに生まれ、中国、日本へ伝来してこのかた、その間多くの衆生を済度(さいど)されてきた高僧先徳は、すべてみな菩薩である。
こんにちにおいても、熱心に布教に努めておられる僧侶も、考えようによってはその資格は十分あるのではないかな。
寅さん
けど、成佛(じょうぶつ)五十二位の階級のうち、五十一位の菩薩の妙覚の位に達するには、肉食(にくじき)妻帯は禁じられているわけでしょう?
ご隠居
それは窮屈で杓子定規な考え方というものだ。
お釈迦様のころ、佛弟子として出家した比丘、比丘尼のほかに、優婆塞・優婆夷(うばそく・うばい。出家しないで佛道を修める男と女)がいて、菩薩には出家の菩薩もあれば、在家の菩薩もあった。
諸菩薩に煙たがられたというあの維摩居士(ゆいまこじ)にも妻子がいたが、その妻子によって心がわずらわされることはなかった。
そもそも歴史に名を刻んだ高僧先徳たちが肉食妻帯しなかったのはなぜかというと、それは一切衆生を済度しようという大誓願をはたすために慈悲と忍辱(にんにく・たえしのぶこと)をみずからに課して妻帯しなかった。
寅さん
「食」と「性」を犠牲にして不自由に耐えたわけですね。
――正淫と邪淫――
ご隠居
誤解のないように言っておくが、この肉食というのは単に肉類を食べないのではなく、魚などすべての生ぐさ物も肉食とみなされていたから、そのつもりでな。ただし布施された食物はお釈迦さまも頂かれた。
寅さん
あ、肉食しないということは、つまり、精進料理しかダメということですか。
ご隠居
それと妻帯しないというのは、その他もろもろの非を矯正するための方便と考えるべきで、自利利他(じりりた)の大願を成就(じょうじゅ)するには、大変な勇気と忍耐を必要とするので、妻子のしがらみによって折角の志が腰くだけになることを避けたのだ。だいいち佛教は人間の性欲を悪として否定してはいない。
寅さん
そりゃそうですよ。人間男と女しかいないのに、セックスはいけないなんて不自然です。
ご隠居
つまり邪淫が不可なのだ。
色欲が過剰だと、人はついつい邪淫を犯す。その邪淫、この場合不倫といったほうが分かりやすいが、不倫は当人たちはもちろん、周囲にも深刻な苦しみをもたらす。
だから声聞(しょうもん)戒では、出家不淫と戒めているが、菩薩の十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)には、その不邪淫を禁じて、正淫はよいとされている。
寅さん
正淫?
ご隠居
正淫は、夫婦のセックスのことと考えてよいだろう。「十善戒」をまた例にとると、あの十善戒という戒めは、私たちが正しく生きてゆくうえで厳に慎み守らなければならない性戒(しょうかい)、つまり、人間が人間であるための必要不可欠の条件のことだが、そこには「不淫」とは書いてなく、「不邪淫」とあるな。
これを見ても分かるように「正淫」は許されている。したがって「不淫」というのは性戒ではなく遮戒(しゃかい)なのだ。
寅さん
遮戒とは何でしたっけ?
ご隠居
それはたとえば、酒呑みに対して、酒はわざわいのタネだから呑むな、と さえぎったり、好色な人に、色欲は身の破滅のもとだからと、よこしまな男女関係を戒めたりする。だけど、ほんらい酒呑みでない者や、身持ちの固い品行方正な人には、そんな戒めなどまったく必要ない。これが遮戒で、遮戒のいましめは軽く、反対に性戒は重いと考えれば分かりやすいかな。
菩薩の十重禁戒において、このように正淫を禁じていないところをみても、男女間のセックスの乱れを戒めているのであって、何がなんでもセックスはいけない、とは言っていない。
寅さん
それはそうですよね。もしかりに、佛教でセックスはいけないとし、それを佛教徒が忠実に守って実行したとすれば、子どもが産まれなくなってしまいます。
ご隠居
うん、現在日本の人口は一億二千万人余りで、人口増加が年率〇,三%未満、これは先進国の平均水準だが、あまり勢いがあるとはいえない。
アメリカのあるジャーナリストはそんな日本の将来を予測して、「少子高齢化が進む日本の近未来は、このままだとおそかれ早かれダイナミズムを失い、やがて単に東アジアの小さな過疎の島国になりさがるだろう」と言っているくらいだから、正淫(正しい家族計画)は日本の将来のためにもないがしろにしてはいけないな。
寅さん
しかし、急速な人口増加で困っている国もありますね。
ご隠居
こないだ世界の総人口が六十億を突破したらしいが、いまこの地球上には毎年九千万ずつ人口が増加しているということだ。
そのうちインドが年間一千八百万人、中国が一千五百万人ずつ増えており、最も増加率の高い地域はアフリカと中東で、深刻な一連の人口関連問題をかかえていると言われている。
寅さん
食糧問題が大変ですね。
――佛は煩悩を菩提に――
ご隠居
食糧だけではない。紛争の絶えない中東ではすでに深刻な水不足が生じており、今後は宗教と並んで水が地域紛争の火種になりかねないということだ。
『不増不減経』に、「大邪見の者衆生界増すと見、衆生界減ずと見るは、実の如くに一法界(ほっかい)を知らざるをもっての故に、衆生界に於いて増減の見(けん)を起こす」とある。
寅さん
何のことです、それは?
ご隠居
つまり邪淫は固く禁じ、正淫を許されていることを考えれば、たとえ一切衆生がことごとく佛道に精進して、みな佛になったとしても、正淫が認められているかぎり子どもは産まれてくるというわけだ。
いわんや、一切衆生が同時に佛と成ることなど現実にはあり得ないし、千佛が一時に出現して説法されたとしても、一切衆生ことごとく僧、尼僧になりはしない。
また、一切衆生にすべて佛性(ぶっしょう)がそなわり、それによってみな佛位に達したからといって、衆生界がガラ空きになり、反対に佛界のほうが満員のぎゅうぎゅう詰めになるかというと、そうはならない。
どちらの世界も増えもしなければ減りもしない。なぜなら、生・佛は元来一体であるから、佛界と衆生界を分けて考え、そのいずれかに増減を見るのは邪見である、といっているわけだ。
寅さん
そのお経は、つまりどういうことを言いたいのでしょうかね?
ご隠居
そんなに正面きって疑問を呈されると困ってしまうが・・佛界とは平等界・・一切差別のない常住不変の絶対真理の世界であり、一方、衆生界は、あらゆるものが生起したり滅したりする世界で、まことにめまぐるしい。
したがって、この宇宙はどこまで行っても衆生界であり、また、法界は、宇宙の涯てにいたるまで佛界でないところはない。
つまり、佛界はそのまま衆生界であり、衆生界もまた、そのまま佛界にかさなりあっていて、境界がない。
では、その二つの世界をどこで区別するかというと、衆生界に住む私たちは、煩悩という病気をかかえているから、それを衆生と言い、法界にいらっしゃる佛菩薩は煩悩をお持ちでないから、ほとけさまという。
いや、佛菩薩は煩悩がないのではなく、煩悩がかりにあったとしても、佛菩薩は、その煩悩をもって菩提とされる。菩提とは智慧と考えてよいだろう。
智慧は、われわれ一切衆生も、みなそれを持ちあわせているが、衆生は、残念なことにその智慧が煩悩に変質し変化してしまう。
たとえば、薬を大量に与えると毒になるように、また、微量の毒を用いて薬にするように、分量の過不足によって毒にも薬にもなるのと同じだ。
要するに、この世のあるかぎり衆生があり、衆生があるかぎり病気があり、病気があるかぎり、病を治すお医者さんも、心の医師である「ほとけさま」も、私たちには絶対になくてはならない存在といわねばならない、ということだな。
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