仏法僧の三宝に三種の功徳あり

 —– まさに仏法僧(ぶっぽうそう、仏と法と僧伽・そうぎゃ=サンガ=和合衆、仏教の修行衆)に帰依(きえ)すべし、
 三宝(さんぼう)に三種の功徳(くどく)有り、いわゆる一体三宝、現前三宝、住持(じゅうじ)三宝なり。
 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい・最高の正しい悟り、仏陀の悟り)を称して仏宝となす、清浄離塵(しょうじょう りじん)はすなわち法宝、和合の功徳は是れ僧宝なり、是れを一体三宝と名づく。
 現前に菩提(ぼだい)を証するを仏宝と名づく、仏の所証は是れ法宝、仏法を学ぶはすなわち僧宝なり、是れを現前三宝と名づく。
 天上を化(け・教化、感化すること)し、人間を化し、或いは、虚空(こくう)に現じ、或いは塵中に現ずるは、すなわち仏宝なり、或いは貝葉(ばいよう・多羅樹の葉。経文を写すのに用いられた)を転じ、或いは海蔵(仏の説法)を転じ、物を化し、生を化するは是れ法宝、一切の苦を度(ど)し、三界の宅(さんがい・苦悩の絶えない人々の世の火炎の燃える居宅)を脱するは、すなわち僧宝なり、是れを住持三宝と名づく・・
 三宝のことについてはたくさんの経説がありますが、ここにご紹介したのは、仏祖正伝大戒の相承(そうしょう)です。
お釈迦さま学級

 心地観経(しんじかんぎょう)のなかに、こんな話が出ています。
 ある時、釈尊が三宝の恩を五百人の長者にお示しになったとき、一人の長者がさらに言葉をついで仏に申しあげた。
「本日はまことにありがたき説法を聴聞(ちょうもん)させていただき、三宝がどれほど世間を利益(りやく)するものであるか、よく納得がゆきました。
 けれども、どういうわけで仏法僧のことを「宝」とおっしゃられたのか、そこのところの道理を、いま一度お伺いいたしとう存じます」と訊ねると、仏はたいそうお喜びになった。
「よくぞ、そこのところを問うてくれた。では話して聞かせよう。みなさん、よく聴かれるがよい。 まず、譬(たとえ)をもうけて話してみようか」
 世の中でいちばん大切な宝には十義(十からなる価値)を具足して、国界を荘厳(かざり)、衆人を賑わす(国も国民も富む)。
 仏法僧もまたそのとおりであると、皆を前に懇切丁寧に説きはじめられた。
 —- いわゆる十義とは何か?
 一に、摩尼宝珠(まにほうしゅ・竜王の脳のなかにあるという清浄な玉)はたいへんに堅牢なもので、人力によって割ることができない。佛法僧もまた同じように、外道(げどう)、天魔といえども、これを破ることはできぬ。
 二に、世間の宝といえば金銀瑠璃(るり)などであるが、それらはいずれも清浄光潔にして、塵垢が無い。佛法僧もそれと同じに、煩悩の塵垢を離れている。
 三に、天人には福徳を感じれば徳瓶(とくびょう)というものを用い、その中から甘露(かんろ)をそそいで、病苦を救うという。仏法僧も同じように、よく世間の苦を救い、楽を与える。
 四に、吉祥宝というものには、なかなか遇い難く、得難いものであるが、仏法僧もまた同じように遇いがたく得がたいものである。
 業障(ごっしょう)の深い有情(うじょう)は、百千万億劫(こう)にも遇うことはできない。
 五に如意宝珠、すなわち金銭のことである。これがあれば、よく世間の貧苦をやぶり、何でも意のままに求めることが可能である。仏法僧もまた、世の貧苦をやぶる功徳(くどく)がある。
 六に、転輪聖王(てんりんじょうおう・古代インドの理想的な国王、身に三十二相をそなえ、正義をもって世界を治める)には輪宝(りんぼう、七宝の一つ)という武器を有する。この輪宝がひとたび働きいずるときは、その威徳によって、もろもろの怨敵(おんてき)も降伏(ごうぶく)する。佛法僧もまた同じく六神通(じんつう)を具足して、四魔を降伏させる徳を有する。
 七に、摩尼宝珠さえあれば満願成就(じょうじゅ)は意のままである。佛法僧もまたよく、衆生の善願を満ずる功徳がある。
 八に、宝はよく王宮、国土を荘厳(しょうごん)するものであるが、仏法僧もまたよく菩提(ぼだい)の宝殿や、極楽浄土を荘厳する功徳がある。
 九に、天の妙宝は、人界の宝を超えているように、佛法僧もまたよく世間に超越している。
 十に、純金は火の中、水の中で不変であるように、仏法僧もまたよく世間の利害得失、毀誉褒貶、そして苦楽といったものに影響されず動じることが無い。
 そのような意味合いから仏法僧を三宝と名づけたのである、と釈尊はみんなに諄々(じゅんじゅん)と説法されたそうです。
 また、仏法僧の三宝に六義があると、実性論(じっしょうろん)に説かれています。
 それによりますと、六義とは、一に、希有なること珍宝の如し、二には離苦不染、三に勢いが強く貧を除き毒を去る。四には荘厳、五には最勝、六には不改変、と、仏法僧はこの六義を具足するゆえに三宝と名づく、とあります。
 金銀珠玉など、いわゆる世間の宝物は、単に人の一生を利するだけにすぎないが、この三宝は出世間の重宝であって、精神の浄化にたいへん有益なものである。さらにまた、今生一世のみならず世世生生(せぜしょうじょう)心身を益する三宝の功徳ははかり知ることができない、と説いています。
七曜戒 朝の言葉・土曜日
 親切にする、親切は人を育てる。
 親切は慈悲の心、
 慈悲は「みほとけの心」なり。
 親切は信ずることより始まる。
 親切な考え、親切な理解、親切な言葉、親切な行いなどは、みほとけの恵みあまねく広め行く尊きみわざにて、人の心を浄め行き、この世にみほとけの現にましませることを信ぜせしめ、苦しみ多き人の世に、金剛(しんじつ)の愛あることを知らしめる。
 人、人の心を信じ、この世に真実の愛あること知るとき、生き行く金剛(つよ)き力もち、われもみほとけの力そのままに、この世を浄め行かんと励むなり。

 観音院常用教典「まことの道」 五十四ページより

*皆さまも朝あるいは夜、空いた時間に、お声に出して、意味を考えながら、自らのこととして、ゆっくりとお読みください。
祈願と霊応
 所願のために仏のご加護を祈る—- この加持祈祷(かじきとう)というものは、絶対純霊的なものといえます。
 したがって通常の俗念でもってその祈りに対する回答、つまり霊応の有無をはかり知ることは、きわめて困難なことがらです。
 それでは我々凡人にはそうした霊的な世界は分からないし、窺い知ることができないものなのか、知ることができないのなら、霊応の有無を論じてもはじまらない。
 霊験の有無を論じるのであれば祈願のゆくえをぜひとも知りたい。
 結論としてその所在は判然としない。その現象(霊験の有る無しは結果として分かりますが、それらを生み出す所在と仕組み、つまり幽地は、我々凡人には窺い知ることができないとされています。
 では、その幽地とはなにか?
 いわゆる神仏の境界(きょうがい)です。神仏の境界が幽地であり、そこが、知ることのできない世界であるならば、我々はどうして神仏の存在を知ることができるのでしょうか。
 それは形而下(けいじか・かたちを有する物質的なもの)の知識をもってしては不可能ですが、形而上(かたちを超越した精神的なもの)の信仰という手段によって知ることも、あながち不可能ではありません。
 宗教は、この天地のあいだに、神仏の存在を確信して微動だにしないところから始まります。したがっていずれの宗教にかぎらず、宗教の本質と目的は、その無形にして見ることのできない何ものかに向かって礼拝し、崇敬し、懺悔(さんげ)し、祈祷(きとう)する所以のものであります。
 そして礼拝(らいはい)の対象と親しく率直に交信し合えるのは、ただひたすらなる信仰心のみです。
 神に祈り仏に祈っても、純真無垢(むく)な気持ちでないと、祈りの趣旨は、神仏の境界にまで達しえないし、けっしてその霊応を得ることはできません。あれこれ良からぬ雑念を抱いたまま、かたちだけお義理のごとき祈りで、どうして霊応が得られましょうか。 人間どうしであれば、狡猾な言辞や巧みな手段によって、相手をたぶらかすことも容易でしょうが、霊通無碍(むげ)である神明(しんめい)、仏陀は、人間の心のなかなど先刻お見透しであって、心にもない偽りの祈りに、霊験などあろうはずがありません。
 まことの道に適うなら、神仏の霊体は明鏡の如きものです。人間の心の善悪邪正を、あからさまに映し出し、すべてを余したまうことがありません。
 一方、人の心のほうは「水」をもって譬えることができます。
 清浄純白の心は湛然寂静(たんねんじゃくじょう・妄念が無く静かに水をたたえているさま)なる清水のごとく、疑念雑念の錯綜(さくそう)する心は怒濤狂乱のごとく、あるいはまた、汚穢(おえ)不浄な濁水のごときものです。
 神仏の霊体が、天にかかる月のようなものであるならば、清冽な水に皓々(こうこう)たる月が水面に映じても、汚穢不浄の濁水や、さかまく波浪の上に月影は映りません。
 華厳経の偈文(げもん)に、「菩薩清涼の月、畢竟(ひっきょう)空に遊ぶ、衆生心水浄(き)よければ菩提の影中に現ず・・」
 清涼の月といい、菩提の影というのは、まさに菩薩の心地(しんち)を形容したもので、衆生の心水が清浄であれば、仏菩薩の名月は求めずして得ることができる、といった意味でしょうか。
 古歌にも次のような歌があります。
 心だにまことの道にかなひなば
   祈らずとても 神や まもらん
 (そして、こんなのも。)
 まことなき己が心をあらためて
   祈ればまことあらわれぞする
 この歌の意味は、凡人のつねとして、平素は五塵六欲(心の障害となる五つの汚れ。色、声、香、味、触の五欲と六根に生じる欲情に押し流され溺れているが、ひとたび心をいれかえ、至心に懺悔し己れの信じるところの神仏に帰依(きえ)して祈りもとめるならば、どうして霊応のないことがあろうか、というものです。
 ともあれ我々は、なにごとかを神仏に祈って、あるいは精進潔斎し、あるいは寒中に水をかぶり、あるいは浄財を喜捨し、あるいは嗜好品を断ったり、いじらしいまでの努力を重ねますが、その心たるや誠(まこと)です。誠であるがゆえに神仏のご加護を得て所願が成就するわけです。
 世間には、このような信仰を妄信と決めつける向きがあります。
 決定信(けつじょうしん・仏の教えを堅く心に信じること)を得ない、そういった人たちに比べれば我々のほうが数等倍優ります。
 宗教というものの根本は、理解することではなくて信仰です。したがって仏教徒たるものは、理解するよりも信仰の深いことのほうがより大切です。佛教は宗教であって学問ではありません。
 佛教を理解することから入った者は、その宗義には詳しくても、えてして信仰心は希薄です。信仰より入る者は、宗義に関することはともかくとして、その信仰はゆるぎないものがあります。
 したがって佛教のなんたるかを理解しない人であっても、一途に神仏を信じ祈って、しばしば霊験を得ることがあります。
 こういう正直で邪気のない祈りに霊応があるとすれば、信仰堅固な法師の正式な作法によって、一意専心加持祈祷するとき、どうしてその霊験を得られないということがありましょう。
釈尊の約束
 釈尊はその教えのなかにおいてしばしば感応(かんのう)のあることを証明されています。
 諸菩薩、諸善鬼神および天龍八部衆、並びに三界の天神地祇(ちぎ)が仏前において誓願(せいがん)をされたとき、皆の前で次のように約束された。
「わが名、及び、わが真言をとなえて我を信ずるもの、この経及びこの佛菩薩を信ずるものあらば、わが本願力(ほんがんりき)に乗じ、わが法眼威神(ほうげんいじん)の力をもっての故に、仏の恩徳を謝せんが為の故に、仏法を護持(ごじ)し、衆生を哀愍(あいみん)するが為の故に、願として成就(じょうじゅ)せしめずということなし。
 もし、この願を果たさず、この誓いを虚しうすることあらば、我、本覚(ほんがく)に還らず、正覚(しょうがく)を取らずして無量劫(むりょうこう)中、その悪道(悪趣)に堕(だ)して苦を受けん —- 云々」
 このような経緯から、いずれの菩薩いずれの善神をとわず、まことを投じて祈祷するときは、けっして先の約束をお違(たが)えになることはありません。
 はたせるかな、末世の衆生は煩悩が多くて、独力でみずからを救うことができない。釈尊はそれを憐れみ、大悲の願力に乗じて苦界の導師となられたのです。
 旱魃(かんばつ)に雨を祈れば八大龍王がその願力(がんりき)に乗じて雨を降らすこともあり、疾病の平癒(へいゆ)を祈れば、快方に向かう。貧窮にして恵まれない者が幸せを祈れば幸福を与え、長寿を祈れば長命を得られ、子どものできないのを悲しんで子を求めれば子を得られることもあり、煩悩が多くてなんとかしてそれを鎮めようとして祈れば、そのようになったりする。
 世界平和、家内安全、およそ心にあるすべての願望が、ひとつとして成就しないものはありません。
 これがすなわち神明、仏陀、菩薩、善神の多劫(たこう)の修行によって得られた自在 神通 不可思議 解脱(げだつ)の大威神力というものです。

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