仏教伝来

古代中国の後漢(ごかん)の明帝(めいてい・二八年~七五年)が、ある夜、夢のなかで、神人(しんじん)を見た。
 身の丈(たけ)は二丈(じょう)ばかり、身体全体が黄金色をしていて、項(うなじ・首の後ろ)のあたりから円光を発していた。
 明帝は昨夜見た夢のことを群臣に問うた。すると一人の臣下が進み出て言上(ごんじょう)した。
 「臣は、ずっと以前、西方に神があり、その神の、み名を、仏と呼んでいると聞いたことがございます。帝のご覧になった夢のなかの神人も、おそらく、その仏ではないかと存じます」

 そこで帝は、遠く天竺(てんじく・インド)に使者を派遣した。かなりの時を経て、その使者たちが天竺から、仏と経典をたずさえて帰り、明帝に奏上した。
 帝をはじめ群卿百僚ことごとくこれを敬い尊んだ。わけても「人死するも精神滅せず」と、経典に書かれてあるのを見るにおよんで、人々は大きな衝撃を受けた。
 それからしばらくして、天竺から初めての使者が漢土を訪れた。
 そのとき、天竺の使者は、優填王が描いたという釈迦仏の画像を帝に献上したが、その画像は、かつて明帝が夢に見た神人と同じであったので、帝は、はなはだこれを崇敬(すうけい)し、画工に命じてそれを数点模写させ、南宮の清凉台および高陽門顕節寿陵の上において供養した。
 また、これを白馬寺(中国最古の寺院)の壁に描かせたと、南斎王淡の「冥祥記」というのに記述されている。

続・お経のなかの説話

 「法苑珠林(ほうおんじゅりん)」巻十四には、次のような説話が記述されている。
 中国の梁(りょう・南朝)の武帝(ぶてい・四六四年ー五四九年)が天監元年(五〇二)正月八日の夜、夢を見た。赤い栴檀(せんだん)の木の仏像が漢土にもたらされる、という夢である。
 夢を信じた武帝は詔(みことのり)して、その仏像を迎えに行かせることにした。ただし、この話の前段として、仏遊天竺記および雙巻優填王経に、以下のごとき話が記述されている。
 仏が刀利天(とうりてん)にのぼり、一夏、母のために説法された。下界では、仏のご不在をもの寂しくおもった大王をはじめ臣下たちが、大目連尊者に、「貴方の神通力でもって刀利天へのぼり、仏の相好(そうごう)を描いてきてくださいませんか」と頼んだ。
 快(こころよ)くその依頼に応じて、目連尊者は、高さ五尺ほどの仏の座像を画いて下界に戻り、それを彼らに与えた。
 王も臣下も大いに喜んで、画像を礼拝供養した。この画像はのちの世にいたるまで、かの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にあったという。
 ここで冒頭の話にもどる。
 武帝は、夢に見た栴檀の仏像を自国に請来(しょうらい)しようと、将軍に親書を託し、八十人からなる使節を天竺に派遣した。舎衛国の大王はいう。
「お尋ねの仏像をみだりに国外へ持ち出すことはできかねる。それでも貴国が強いて懇請されるなら、巧匠の中からさらに上手を選んで、紫の栴檀(せんだん)でもって像を彫刻させることとしましょう」と、三十二匠に命じて、それぞれに像を素描させた。
 すると不思議なことに、描かれた三十二の素描がひとりでに合わさり融合して、たちまちのうちに立体的な形像となった。
 その像は、栴檀の木彫仏さながらに相好具足(そうごうぐそく・顔かたちが揃う)して、頂より光を放って、馥郁(ふくいく)たる妙香をただよわせ、微細な雨さえも降らせていた。
 こうして舎衛国の大王から像を譲り受けた梁の使節たちは帰途についたが、数万里におよぶ母国までの長い道程の苦労は想像を絶し、大半の者は、その旅の途中で亡没した。
 残る一行もしばしば虎や狼の群れに襲われたりしたが、そんなとき、彼らは一心に仏を念じた。すると、奉じている像の後方より甲冑(かっちゅう)の勇壮な音が轟(とどろき)き、猛獣もおのずから粛然とさせずにはおかない、厳かな鐘の音が聞こえてきて、虎口を脱した。
 一行がある土地を通り過ぎていたとき、巨岩の前に一人の男がいた。男は羅漢僧(らかんそう)で、樹下に端座していた。
 我らも、この辺で一休みしようと、一行が馬に積んだ仏像をおろして木陰に安置し、一服していると、くだんの僧がその像の前にきて恭しく拝礼した。使節たちもまた立ち上がって僧に礼をした。
 おりから一行は、いずれも喉がカラカラに渇き、疲労困憊(こんぱい)していた。そうした窮状を察した僧は、みんなに水を分け与えてくれた。
 甘露(かんろ)のごとき水にありついて使節たちはようやく気力が回復し、ほっと一息ついていると、僧が言った。
 「この像は三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ・正遍智一切法)という、あまつさえ金比羅天、自らもこの像に随従しているので、貴国へ到れば、大いに仏事に施作(せさ)するであろう」と語りおえ、消え失せた。
 かくして天監十年四月五日(武帝が赤い栴檀の仏像の夢を見てからちょうど十年後)、使節一行は漢土へ帰還した。武帝はじめ百僚らは、像を迎えて大極殿に入り、斎を設けて供養した。
 仏像が漢土(中国)へ渡ったこれが初めである、とされる。

観音大士の功力(くりき)

 次も古い中国の話である。
 漢土の北の辺境に孫敬徳なる者が住んでいた。敬徳は、国境を越えてしばしば掠奪をかさねる北方の異民族に備え、そのお守りとして金の観音大士(だいし)像を造り、つねに礼拝(らいはい)供養を怠らなかった。
 あるとき敬徳は、人から身に覚えのない讒訴(ざんそ)をうけて、牢獄へ繋がれることとなった。
 幾日か拷問がつづいたあと、彼を待っていたのは死刑であった。
 いよいよ明朝刑が執行されると決定したその夜、敬徳は観音大士を祈念した。
「私は現世(げんせ)において、とりたてて悪事はしておらぬのに、かくのごとき悲運に見舞われたのは、さだめし過去世において罪を造っていたのであろう」と、涙を流して懺悔(さんげ)し、その罪を償(つぐな)った あかつきにおいて、これより誓って 悪事はいたしません、と大願を発した。
 そのあとしばらく微睡(まどろ)んでいると、夢うつつに、一人の沙門(しゃもん)が現れて、告げた。
 「汝、いま危うし。すべからく観世音救生経を誦むべし。経中に仏名(ぶつみょう)あり、それを千遍誦むならば、汝の今の苦難を乗り切ることができるであろう」と。
 敬徳が夢から目覚めると、かたわらにその観世音救生経があった。 これぞまさしく観音大士のお告げにちがいない、と確信して、それから夜を徹して、懸命に九百遍誦みすすんだところで、とうとう朝になってしまった。
 役人に腰縄を打たれて、刑場へ引き立てられるあいだも、敬徳はなお一心に経文を誦みつづけた。そしてついに一千回に達した。
 所定の位置に付く。待ち構えていた刑吏(けいり)が刀を振りかざし、彼の首めがけてエイッと振り下ろした。
 が、刀が折れて敬徳の身体はどこも損傷していない。あわてた刑吏が、刀を取り換えて再度こころみたが、その刀も折れた。さらにもう一度・・けれども、何度やっても同じ結果におわった。
 刑の執行に立ち合った役人たちは、これを見て恐れ戦(おのの)き、目の前で起こった事実をありのまま上司に報告した。
 このような経緯があって、ついに敬徳は死をまぬがれたのである。
 帝は勅命して、その不思議な出来事を逐一記録させた。
 現在のこっている「高王観音経」が、すなわち、これである。無事放免された敬徳は、その後、斎を設けて観音大士像を供養した。その像の頭部には三つの刀痕があるということである。

生き返った僧

 隋のころ、凝観寺の法慶という僧が、一躯(く)の釈迦立像(りゅうぞう)を造っていた。それはいわゆる丈六(じょうろく)仏であったが、その制作なかばにして法慶はにわかに卒(そつ・亡くなること)した。
 その同じ日、また宝昌寺の大智という僧も亡くなった。が、この僧大智のほうは三日を経て蘇生した。そして大智は同房の寺僧に、こんな話を語って聞かせた。
 ——閻魔王の御前で、法慶という僧に会ったが、彼は暗い表情でたいそうふさぎこんでいる様子だった。そうこうするうち何時とも知れず、法慶が心血をそそいで制作していたという釈迦立像がいずくともなくたち現れた。
 それを見た閻魔王は、階(きざはし)を転がるように駆け降りて仏像を合掌礼拝した。すると釈迦像がおもむろに口をひらかれた。
「法慶、我を造るの願を発したるに、なお未だ畢(お)えずして、何為(なんすれ)ぞ、死せしめたるや?」と。
 閻魔王は侍臣を顧みて訊ねた。
 「なぜ、この法慶をここへ召し連れたのか。彼に死ぬような何らかの理由があったのか?」
 侍臣の一人が答えた。
 「法慶の寿命はけっして尽きたわけではありません。ただ食糧が尽きただけでございます」「あい分かった。なら、ただちに荷葉(かよう・はすの葉)を法慶に給付して、彼の福業(ふくごう・この場合は仏像制作)を完遂させてやるように——」
 このようなことがあって間もなく、夢から覚めたように大智は蘇生したというのであった。
 宝昌寺ではさっそく凝観寺に使いの者をやって、大智の話を先方に伝えていると、その話柄の終わらぬ途中で、当の本人である法慶がにわかに生き返った。
 法慶に訊ねると、大智の話と異なるところがなく、同じであった
 そのうえ、閻魔庁であったやりとりを証明するように、その後の法慶は、いかなる食物も受けつけず、ひたすら荷葉のみ佳味であると食べつづけ、ついに釈迦立像を完成させたという。

霊験(れいげん)あらたか 
元亨釈書(げんこうしゃくしょ)巻十七より

 感世(かんぜ)という仏像づくりの匠(たくみ)がいた。
 感世はたいへん感心な男で、仕事の暇をみつけては法華経をひもとき、時間がゆるせば法華経一、
二巻、そうでなければ一、二品を通読し、またそれとは別に、毎日普門品(ふもんぼん)を三十三遍誦(ず)すことを日課としていた。
 さて、丹波の国桑田郡に守治の宮成(みやなり)なる者がいた。
 あるときこの宮成が、京に住む感世に、観自在の像を一躯(く・仏像を数える語)造ってくれないかと、依頼してきた。
 数カ月後、完成した像の見事な出来ばえに満足した宮成は、厚く銭と絹を贈って感世をねぎらった。
 しかし、京都をさして帰ってゆく感世を見送りながら、とんでもない邪心が宮成に生じたのである。「いくら良く出来た仏像とはいえあの仏師に与えた謝礼の銭帛(せんぱく)は多すぎた。よし、これからあとを追いかけて、あいつを殺し、渡したわしの銭を奪い返してくれよう。
 さいわい、あやつとわしの関係を知る者もおらぬから、万が一も露顕する惧(おそ)れもあるまい」と、急いで後を追い、大江山の山中で感世を殺して金品を奪い取り、素知らぬ顔で帰ってきた。
 こうして家に帰った宮成が、問題の像をあらためて拝してみると、観自在像の肩の上あたりが切り裂かれている。そればかりか、その傷口からは鮮血が滴り落ち、床にたまって凝血していた。
 宮成は怖気(おぞけ)をふるい怪しんだ。「わしは、たしかに仏師こそ斬りはしたが、この仏像には指一本触れてはいない。なのに、これはなんとしたことか——」と、急遽、京都へ使いの者をやって様子をうかがわせると、感世は何事もなかったかのように平常に暮らしている。
 丹波に立ち戻った使いが見てきたとおり報告すると、聞いた宮成は白眼をひんむいておどろいた。
 かくなれば、もはや他人まかせにはできない、と宮成みずから京都の仏師のもとへ出向き、奪った金品を返却して、これまでのいっさいを白状して許しを乞うた。「なるほど、そういうことでしたか・・」と、感世は大きな溜め息をついた。「わたしはあれから帰途についてちょうど大江山のふもとにさしかかったところを賊に襲われ、所持品を掠め盗られましたが、この身だけはどうにか無事に逃げのびることができました。
 今のあなたの話を聞けば、これはどうしても 大悲尊 観自在菩薩が勿体なくも、わたしの身代わりとなられて、凶刃をお受けになったとしか考えるほかありません。なんともありがたいことです・・」と、感動を面にあらわして言った。
 これより宮成は感世に好誼(こうぎ)をもとめ、友として遇してほしいと申し出、感世も、これをこころよく受け入れたということである。
(注 元亨釈書・三十巻。鎌倉時 代 京都東福寺の僧 虎関師錬(1278-1346年)の著 推古天皇から後醍醐天皇までの 七百余年間の仏教史)

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