自分で納得できる努力と公序良俗と道徳を大切に

愚痴を言わぬように過去を語ることは難しい。自慢話にならないように過去を語ることも難しい。だから何も話したくない……そのように法主さんは言われますので、毎月何かを聞き出すことは大変に困難なことです。

「年末年始に包丁を研ぐな」怪我をするとお医者さんに迷惑を掛ける。これは観音院の決まりで、もしかすると、寺というより家訓に近いようなものではないかとも考えたりします。理由を聞けば自分で考えなさいと言われます。鈴之僧正さまのお話を要約・田川純照 記

後で悔んだような話は嫌だ 明日も知れないのに将来に

なるべく喋らぬこと、雄弁は銀沈黙は金などと言われますと返す言葉もありません。過去を語るな、他人を傷つけ、自分も傷つく。

将来を語るな、明日をもしれない自分であるから嘘吐きになりかねない。一日に職員と話される時間は十五分くらいでしょうか。

過去の経験から言えることは約束を守るためには、何かをしなくてはなりません。何かをするのは人で、人は移動するものであり、将来に向けての時間が必要です。

例えば、高齢者の面倒を見ると約束しているのですが、朝晩電話を掛けて体具合を知ることは割合簡単です。遠くにいても携帯電話で連絡できます。何かがあると、その地区のボランティアに依頼して駆け付けてもらうことが可能です。

約束は個人では守れないことがしばしばあります。組織としての約束なら確実性が高くなります。それには組織の運営や経理についての透明性が保証されていなくてはなりません。組織は個人と異なり将来にわたることを約束しても実行が可能です。ただし、組織が運営と経理を隠蔽(いんぺい)し、だれかが恣意(しい)に私利を図ると機能しませんので厳格で清潔なシステムが大切です。

孤独死を防ぐシステム 携帯電話を利用して簡単に

一人暮しの方の不安は、家の中で急病になって、そのまま死んで行くことです。亡くなられてから三日以内にお骨にしてあげること、葬儀を執行してあげること、その後の供養をしてあげること、この三つの約束を確実に果たしてあげる制度は日本では、よほど僻地でない限り観音院で確立しています。

現在の課題は病気になられて、連絡を受けて、一一九番に電話して、救急車で入院してもらう、これは全国的に可能です。その後の介護の問題も大きな意味では心配ありません。問題は寂しさの解消です。心の知れた人と話したい、その欲望には個人差があり、ボランティアの能力にも個人差があって、ご満足の行く面倒がみれない場合があります。広島の場合は法主さんが陣頭指揮をとられますので、総合して完全に最後の最後まで面倒をみることが可能です。

実際には何処におられても法主さんが指示されることにはなるのですが、できるなら広島市近辺に、引越しして来てくださること約束を果たしやすい状況になります。

毎日、携帯電話に不在着信が表示されますが、これは何事も無いという確認信号です。かつ電話料も無料で優れて良い制度です。

何かある時は留守番電話に用件を言ってくだされば、折り返して電話を差し上げます。

この制度は高齢者に限らず独身生活をしている人には全て必要な システムです。食中毒で動けないとか、若年者の脳梗塞なども時にはあることです。

いつ病気で倒れるかもしれないのは年齢に関係ありません。かつ介護保険などとは関係のないことでであると思います。従来の家族関係の思いやりをシステムとしてご利用願いたいのです。

被害妄想を持たれないように 期待せずにしていますから

知り合いが病気になにれたり、その人が亡くなられたり、葬儀をしたり、永代供養をするのは僧侶の当然の義務としています。

遺産を当てにすることなど有りえないことです。観音院は原則として遺産は受け取りません。相続人たちと争ってまで遺産を受け取ることは見苦しいことと考えています。遺すような財産は生きている内にご自分が納得できるよう使われるのが最善だと思います。

お金はあの世に持って行けませんから、全部使い切って、葬儀や供養は寺負担でしてもらう、そのような考え方も受け入れます。

かつて、江口さんという方は、九州から来られて、広島で借家に住んで、働き通して老衰で亡くなられました。身寄りの人がおられなくて、遺体は観音院に引き取って、葬儀は観音院の僧侶だけで丁重に執行し、お骨は霊廟に収めました。法事は住職さんが施主で、怠り無くされています。江口さんは生前沢山の施本をなされました。死後、印鑑と預金通帳がありましたが、遠くの縁者が受け取られたと聞いています。

葬式やその後のことが心配な人は、財産があるなら遺言状、葬儀や法事に通知する住所録。火葬許可申請に必要な現住所や本籍地などを寺に知らせておいてください。

心配なら寺の職員にいろいろと納得されるまで聞いておかれると良いと思います。くれぐれも申し上げておきますが、死んだら遺産を寄付する、だから面倒をみてくれとは言わないでください。遺産目当てで観音院は年寄りの面倒をみるようなことはしません。

お金が有ろうと無かろうと、できることをするのが寺や僧侶の義務だと考えているだけです。

但し、絶対に関与できない条件があります。それは自殺です。どのような理由であれ、自殺する人の面倒はみません。

何かあった時に役に立ちそうなこのシステムは自然に出来上がったものであり、特別に工夫されてものではありません。携帯電話の普及以前には最初はハム、次いでMCA無線局の運用と世の中の進歩につれて観音院で自然に発生したものです。最初の携帯電話から僧侶職員の必携として使ってきて今日があります。

国民の二人に一人が携帯電話を持つ時代、パソコンの新しい利用方法についても、いろいろと考え皆さんのお役に立つシステムを構築したいと念願しています。

観音院は真実と慈悲を標榜しています。運営は信徒さんの合議で、経理は公開です。現在の在り方は、皆さんの要望が形となったものです。法主さんの願望が現実になりました。

現代は困った世の中です。何か善意で物事をしたいと願っても、前提条件として、害意が無いことを証明しなくてはなりません。観音院に害意はありません。皆さんのお寺ですから。

幸せは家族を大切にすることから 僧侶にとって妻子の位置付けを話すと

率直にいって結婚したことには無理があった。僧侶が覚れば妻子の存在は気の毒なことになる。

僧侶は全ての人に平等に応対しなければ自家撞着に陥る。言行の前後に矛盾を来すことになる。

普通であれば、妻を大切に、子供を慈しむのが善い。僧侶とその妻は同等では無い。僧侶に専業主婦は不必要である。親を偲ぶ子供も不必要である。妻子は信徒の一人として存在できるが、主人だとか、親だからと期待されても応えられない立場だ。苛烈かもしれないが、私を信じ礼拝しない妻子については法律上の責任は有るが、世間と信徒さまの方が優先する。

伴侶が覚ることは家庭を超えた人格が出現することで、家族に対して惨いことになったと考える。

妻は得度して華信と名乗り、高野山で柴田全乗師のもとで四度加行を成満し尼僧となった。正確に言えば弟子の一人に過ぎない。

子供は僧侶としての過程を経ていないので、それは私の信仰に背くことであり、それが明確になった時点でこの世の縁は切れる。

職員も同様である、得度し、弟子となり、み佛を礼拝し、その教えを広める限りにおいて職員であり、退職すれば即ち棄信し、場合によっては背信となる。

何人か寺に来て僧侶となり、何人かは寺を去った。同時に僧侶から還俗して社会人になった。

僧侶は午前九時から午後七時までで、後は個人の時間だから普通の社会人だと主張することはできない。僧侶も尼僧も二十四時間、年中無休で僧侶であり尼僧であり続ける。定年も無ければ、日曜も無い。出家とその弟子の関係で、弟子にも日曜日があるとなれば漫画になります。日曜日は本来キリスト教でイエス復活の日です。

仏教では安居(あんご)といって雨季に外出せずに一室に籠って修行をする夏休みのようなものがありますが、安息日とは少し概念が異なります。

僧侶は労働の概念では括れない性質があって、労働基準法とは馴染み難いようです。僧侶の目的は覚ることにあって、覚ろうとする行為に日曜日は馴染みません。

職員は警察官消防士と同様に労働三権を有しないのです。

易しく考えても、礼拝や読経、祈願などを労働と考えることはできないと思います。庭掃除とか事務的作業などは労働と見做すことは可能かもしれません。

もっと極端な例を上げると、精神に障害があると診断、入院の日に預かってあげて、その人に休日を与えることは不可能です。自己管理ができるようになれば帰っていただくのが筋です。預かってあげている人が、日常を労働だと考えられたりすると、ご家族も錯覚を起こされ勝ちですが、困ったことになります。寺は子捨て場所としては機能できないのです。

救済の過程で職員と同じ服装をしておられ、入院と退院みたいなものですが、世間の人は出家と還俗のように誤解されることもあります。出家だと戒律が守れないと還俗してもらいます。これは解雇とは異なります。精神的な障害のうち、信頼が築ける場合は慈悲で劇的に改善されることがあり、その変化と改善はお医者さんの研究課題になるかもしれません。薬品を持たないので、寺の日常業務に支障を来すほど手がかかります。自殺を警戒し、暴力暴言を出させない高度な配慮が必要です。親切とか思いやり、相手の立場で考えることは万能ではありません。

世間は誘惑に満ちていて、寺で十有余年を過ごした人が社会人になることを希望する場合、寺としては止める理由はありません。

僧侶や尼僧が退職を申し出ることは背信または棄信です。信仰や職業は人間の基本的自由です。ですから拘束はできませんし、皆さんが情で判断されると大変な間違いになります。観音院で不動の立場にあるのは生涯を寺で過ごすか否かで判断され、可能性の高い僧侶に帰依されると善いでしょう。

私は五十二歳で住職を辞任し、以来、寺の什器備品のような存在で寺にいます。現住職や専従職員から篤い帰依を受けていますが、観音院の一切に執着はありませんが、寺の中心となっています。

法主と呼ばれていますが、仕事は皆さんのあの世とこの世の中間にあり、慈悲を示し、無常を説き、皆さんの立場で考え、戒律を示し、真実を語ることにあります。

田川純照記

法主さんは何も求めておられず、一切のものに執着しておられません。寺にも職員にも、金銭にも物品にも私のという概念をもっておられません。推し量ることができない大きな慈悲をもっておられます。物凄く勉強され、生涯学生を貫くと言っておられます。無欲ですが、時間を大切にされ、夜は大体九時半に就寝され、毎日二度入浴され、健康維持に努力し、一日二食、物は大切にされます。

世襲制を廃止されるについてはご家族には葛藤があったのではと拝察しています。法主さんも住職さんも寺を私物化されるような行為や傾向は一切感じられません。

法主さんの居られる場所は常に公開されていて、なさることは限りなく透明です。

今まで精神の障害によって苦しむ人や多くの苦しみ悩む人を癒されるのを見て来て、これは慈悲によるものだと確信しました。慈悲が受け取れる人も受け取れない人もあります。癒される人は素直なで、我の強い人は気の毒です。

法主さんは皆さんとお話される際に原稿を用意しておられません。毎週日曜日にはテレホン法話を吹き込まれますが、纏まるのが不思議なようで、そのように申し上げたら、話を纏めることなどは全く考えておられないそうです。勉強会で話されるのも同様で、観自在連載の原稿の聞き取りも、纏めも大変です。話をされることは全部が尊い法話のように思われます。

四月第二土曜日十四日には午後六時から役員会が開催され、決算と予算が承認されます。内容は観自在誌上に発表いたします。

法主さんは観音院にとって絶対の存在ですが、無理を言われず、周囲の助言や忠告に素直です。

権威者として奢らず自制自戒の強い意思を持たれ、多くのブレインを有して、自己の言行を微妙にかつ素早く調整されます。

私と春木は観音院の監事ですが、運営は適切になされ、全てに関して特段の意見はありません。

法主さんは出家です。寺に居られると様々な問題が持ち込まれて「出寺」しなくてはならないかもと言われます。無常を説かれる方の長寿を願うのは私共の煩悩かもしれません。

法主さんは怒られることは皆無です。指導されることを時として怒られたとか叱責されたと受け止めるのは間違いです。日々を有り難いと過ごしておられ、見習いたいものです。

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