三善と三悪

 生死無常(しょうじむじょう)、三世因果(さんぜいんが)、六
道輪廻(ろくどうりんね)、この道理によく得心いけば、ただちに
実行しなければならない。
 その手始めは、まず身口意(しん・く・い)の三業(さんごう)
に最も意をもちいることである。三業のなかでも特に主要なものは
「意業」である。

 この意業には善悪があって、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、
痴愚(ちぐ)、これを三悪とも三毒ともいう。
 反対に、むさぼらない、怒らない、物事の道理を判断する理知的
な意識のはたらきを三善という。
 この三悪が、自らの身体によって惹(ひ)き起こされるときは
殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪淫となり、言葉によっ
て発現するときは妄語、綺語(きご)、両舌(りょうぜつ)、悪口
(あっく)となる。
 およそ悪という悪は、この三悪を根源としないものはない。また
一切の善も三善を根本とする。
 一切の有情(うじょう・生きとし生けるもの)が六道に輪廻(り
んね)する原因とされるのも、まさしくこの三業の善悪のしからし
むところのものである。

 そしてその六道は三善道(天上界、人間界、修羅界)と、三悪道
の畜生、餓鬼、地獄道によって構成されているとしている。

 ところで、いま問題にしている善悪であるが、善が必ずしも善で
はなく、悪がすべて悪であるとは言いきれない。それが多いか少な
いかによって善となり悪となったりする。毒もまたしかり、ただ、
分量の多寡によってあるいは毒にも善にもなるのである。
 したがって厚貪、厚瞋、厚痴を三悪といい、薄貪、薄瞋、薄痴を
三善とする。

 もしかりに、この対立する善と悪を乗り超えたときは、これらの
三毒は変じて、涅槃(ねはん)の三徳—-(法身・ほっしん=仏の
悟りの本体、般若・迷いを脱した仏の妙智、解脱・俗世間を脱し
て安らかな心境に達すること)となる。

 それが可能なのは聖人のみであって、我々のような並みの人間に
できることではない。とはいえ、人間はすべて凡夫というわけでは
ない。凡夫のなかにはときとして聖人もいるのである。

 かの釈尊はわれらと同じ人間であったが、なおかつ聖人であった。
 弘法大師をはじめ歴代の祖師方も同じ人間ながら、しかも賢人で
あった。これら賢人といわれる方々は、三毒にまったく影響されな
かったばかりか、むしろ三毒を自由自在にご活用された。

 ひるがえって我々はどうか—-我々の多くは、三毒に振り回され
使役されてみずから不自由をかこち、つねに後悔のホゾをかむので
ある。
 ゆえに我々は、三毒による汚染のされかたに多少の差があるとは
いえ、いずれも三毒のために頤使(いし・あごで使う)されて、
六道の階梯(かいてい)を昇ったり降りたりしている。
 わけても「人間」は六道のなかの分岐点に位置している関係上、
天上にも昇りうるし、また一歩あやまれば地獄へも堕(お)ちる、
きわめて微妙な剣が峰に立っているのである。

 仏教はこの三界六道(さんがいろくどう)を超脱して、生(しょ
う)も滅(めつ)も無い絶対の大涅槃(だいねはん)に入ることを
本来の目的としているが、我々の身口意には、はるかな昔より始末
の悪い三毒がべったりしみついて、容易にこれを洗い落とすことが
できないから、とりあえずは理性のちからを借りて、努めて人間の
品位を維持しなければならない。
 人間が、せめて人間らしくその尊厳を保持するには、では、どう
あればよいのか。
 もとより人間から欲望を排除することはできない。ぬぐいがたい
この欲望をいかにして抑え、なだめるかが差し迫った問題である。

人間らしく生きるには

 私欲—-自分だけ利益を得ようとする心は欲深さの裏返しである。
 また、公欲—-社会一般を含めて公の利益を慮(おもんぱか)る
のは小欲に通ずる。
 だから、自分だけの利益を求める考えをあらためて、社会全体の
利益を考えるように幅をひろげ、多欲の妄念(もうねん)から離れ
て、小欲にやすんずる心に徹すれば、少なくとも人間らしさが維持
できるのではないだろうか。

 貪欲(とんよく)とは、程度を越えて過分に求めることである。
身のほどを超えてその上は求めず、その限度身分に安んずる、それ
が人間の正しい生き方である。
 人間であるかぎり瞋恚(しんに・自分の意に逆らうものを憎み怒
る)を発しない者は、まずいないだろう。
 けれども、その瞋恚によって理性を見失わず、堅固な意志力でも
って瞋恚をうちひしぐ自制心を有するのが人の道である。
 反対に、この瞋恚をところかまわず発散すれば、他人ばかりか、
みずからも傷つくことになる。
 また、人間である以上、愚かさをかけらも持たない完璧な者は居
りはしない。この愚かさから脱するために知識をひろげるのが人の
道である。
 ゆえに人たるものは、つねに勉強して自己をみがく向上心がなけ
ればならない。
 したがって愚かさは畜生になる因とし、瞋恚は修羅(しゅら)の
因になるとし、貪欲を餓鬼になる因とし、以上の三毒が等分に起こ
れば、これを地獄の因であるとしているのである。

「涅槃経」にいわく、「小罪を軽んじて、わざわい無しと思っては
いけない。水の滴りはわずかなりといえども、やがて大器に満つ。
刹那(せつな)の造業の咎(とが)は無間地獄(むけんじごく)に
堕す。ひとたび人身を失えば万劫にも復(かえ)らず」と。
 ここでいう造業(ぞうごう)とは三毒をほしいままにすることで
ある。しかるに多くの人々は、この三毒の恐ろしさをよく認識して
いない。
 したがって、みだりに貪欲をほしいままにして自ら餓鬼道の因を
つくり、瞋恚をほしいままにして修羅道の因をつくり、愚かさをほ
しいままにして畜生道の因をつくり、貪瞋痴(とんじんち)の三毒
をほしいままにして地獄道に堕ちる因をつくるのである。
 ひとたび人間の資格を失い、四悪趣(六道のうちの四つの悪道。
苦ばかりあって楽の無い地獄、餓鬼、畜生、修羅道)にはいれば、
二度とふたたび人間にはもどれない。

「大宝積(だいほうしゃく)経」にいわく、「たとえ百劫(こう)を
経れども所作の業は亡びず、因縁会遇(えぐう)の時、果報還って
自ら受く」と。
 意味は、どれほど長い年月を経ても身口意の作った悪業が消滅す
ることはない。これらの悪業が回りまわってめぐりあったとき、み
ずからがその因果応報をうけることになる、といった意味である。

 いずれにしろ、この道理を信じ仏説を理解すれば、自らの身口意
の起こす罪業の恐ろしさを身にしみてよく納得がゆくと思う。
 ただ、いかんながら善業はなかなかおこない難く、悪業はいとも
簡単に成しやすいものであるだけに、我々が日常において何気なく
おこなう行為の多くは悪業であり善業のほうははなはだ少ないのが
実情のようである。

自分自身に素直になる

 受け難くして移りやすきは人身(じんしん)、聞きがたくして、
さいわいに接することができた仏法である。

 であるからこそ、人間として生まれ、生きているあいだに度(ど)
さないで、いずれのときに済度(さいど)する機会があるという
のか—-と「三帰依文」に説いてあるように、好機は今をおいて
二度と訪れはしないのである。
 いわんや、ひとたび四悪趣(あくしゅ)に入ってしまえば、そこ
から抜けだすことは容易でなく、たとえ人身を受け得たとしても、
仏法にめぐり逅(あ)うのは至難なことである。
 はやく万事を抛(なげう)って、菩提心を励ますべきである。

 われわれ人間は、悟りの境地に達するにはあまりにも多くの問題
を抱えた罪障深い凡夫ということを、よく認識してかかる必要があ
る。そして、みずからその罪障の恐ろしさを知れば、まず至心にそ
の罪障を懺悔(さんげ)しなければならない。

 「梵網戒経(ぼんもうかいきょう)」の序にいわく、
「自ら罪ありと知れば、まさに懺悔すべし。懺悔すれば即ち安楽な
り、懺悔せざれば罪益々深し」と。
 しかるに近頃の人は自我が強く無慈悲なうえに欲張りで、容易に
懺悔の念を起こさず、罪障ふかい自己をもって、われこそ現代人の
証しのように思いこんでいる。
 もっとも教化(きょうけ)しにくく、度(ど)しがたいのはこの
種の人々である。
 なぜ己れの凡夫であることを素直に自覚しないのか。至心に懺悔
すれば清浄(しょうじょう)の心が顕れるというのに—-

「大乗本生心地観経(だいじょうほんしょうしんじかんきょう)」
にいわく、「もしよく如法(にょほう)に懺悔(さんげ)する者は、
あらゆる煩悩ことごとく除く—-
 懺悔はよく煩悩の薪(たきぎ)を焼く。懺悔はよく天に往生する
の路なり。懺悔はよく金剛の寿を延ぶ。懺悔はよく常楽の宮に入る。
懺悔はよく三界の獄(ひとや)を出ず。懺悔はよく菩提の華を開く
懺悔は仏の大円鏡を見る。懺悔はよく宝所に至る」と。

 つまり、人間は遠い昔から三毒煩悩の薪を燃やしつづけてきた。
が、一念の懺悔(さんげ)によって、煩悩の薪を燃やし尽くせば、
五欲もついには勢いを失う。
 われわれ人間の意識はつねに左右に揺れ動き、不確かで、不安に
満ちているが、ひとたび懺悔滅罪(さんげめつざい)するときは、
不生不滅(ふしょうふめつ)の涅槃に住して、金剛不壊(ふえ)の
寿命を得る。
 また、三毒煩悩を滅するときは、三界の牢獄から脱し、無上菩提
の花がひらき、仏の大円鏡を見、宝所に至る、というのである。
 この大円鏡を見、宝所に至るとは、簡略に説明すれば、三宝に帰
依(きえ)すべし、ということにほかならない。三宝とは仏法僧で
ある。この三宝には三種がある。
 三宝の心内に在るのを同体三宝といい、心外に顕(あらわ)れた
のを現前三宝といい、少しの間もやむことのなく相続するのを住持
三宝という。

 それらについての説明は、ここでは省略するが、「法華経」のな
かに次のような譬(たと)え話が説かれている。

 身にまとっている自分の衣服の内に、千万金の宝が縫いこんであ
ることに、まったく気がつかない一人の男が、きょうの日をかつか
つ生きるだけという、どん底の暮らしを送っていた。

 それを智慧者が見て、その者に教えて言う。
「あなたは、なにを好きこのんでそのように浮草のような生活をし
ているのか。あなたが身につけている衣服の中にすばらしい宝珠が
あるというのに、どうしてそれを使おうとはしないのか?」
 この「衣内の宝珠」とは、実は三宝を比喩(ひゆ)したもので、
人はそれぞれ自分のなかに三宝を所有しているのに、凡人はなかな
かそのことに思い至らない。
 それゆえ世人は、己れの所有する自帰依三宝を知らないまま、他
帰依三宝のことばかり気にして、せっかくの宝蔵を所持しながら、
自由自在に三宝を活用することができないでいることを暗に指摘し
ているのである。

五戒の遵守(じゅんしゅ)

 さて、三宝に帰依するとは、具体的には何をどうしようというこ
となのか—-。
 我々は、自分一人だけで生きているわけではない。自分を含めて
人々がたがいに仲良く助け合って社会を構成しているのだから、秩
序を維持するために、してはならない約束事というものがある。

 これを仏教では「五戒」という。殺生する勿(なか)れ、掠奪す
る勿れ、姦淫する勿れ、妄語する勿れ、飲酒(おんじゅ)する勿れ、
である。
 この五悪を厳にいましめて、五善を実行するのが、人間の正しい
生き方である。
 五悪のすべてが法律で罰せられるわけではないが、道義的にはい
ずれも世間の顰蹙(ひんしゅく)をかい、社会から指弾される種類
のものである。
 人から善人として称賛されたりまた、悪人として忌避(きひ)さ
れるのも、すべてこの五善五悪を規準としている。親子・夫婦間の
亀裂、隣人・友人間の信頼関係の破綻(はたん)等も、すべてこの
五戒を破ることによって生ずる。

 三宝に帰依して、ゆるぎない安心を確立するには、まずこの五戒
を守ることである。言葉を換えて言えば、五戒を保つほどの者なら
かならず三宝に帰依する人である。
 五戒が遵守できないで、三宝に帰依などするはずがないからであ
る。もしまた、三宝に帰依したとしても、五戒において欠けるとこ
ろがあれば、それは真の帰依とはいえない。

 真に帰依三宝の人は、慈悲孝順の情愛が人一倍ゆたかだから、か
りそめにも非情無残な行為はしないし、親や目上に対して謙譲であ
り、友人には誠意で接し、目下には親切、生きものに対しても愛憐
(あいれん)でもって接する。
 このように優しい心根の持ち主ならば、みだりに他のものを奪い
取るような無情な行為はしないし、己れの心に反し、他に対して
妄語(もうご)を吐くような不実な言辞を弄(ろう)せず、みだり
に酒を飲んで、殺生、掠奪、姦淫、妄語の四重禁を破るごときふる
まいは決してしないのである。

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