わざわいの前兆とその実体に恐れおののいた景戒の話

「日本霊異記」より
山部天皇(桓武・かんむ)の御世(みよ)、延暦三(七八四)年の甲子(きのえね)のやどれる冬十一月八日の夜、戌(いぬ)の刻より寅の刻(午後八時ごろから午前四時)にいたるまで、満天の星が繽紛(ひんぷん)とみだれうごき、流れた。

 同月十一月十一日、桓武天皇ならびに皇太子の早良皇子(さわらのみこ)が、奈良の平城宮より長岡の宮(京都府乙訓郡向日町)の大極殿へと遷都された。
 つまり、あの三日前、夜空一面にくりひろげられた流れ星は、じつは天皇の宮をお遷(うつ)しになる前兆であったのだ。

 次の年の秋九月十五日夜、竟夜(よもすがら・一晩中)月面が黒く、光りが消え失せた(月食)。そして、同じ九月二十三日の亥の刻(午後十時ごろ)、式部卿正三位 藤原朝臣種継(ふじわらのあそん たねつぐ・桓武天皇の信任が厚かったが、早良皇太子と不仲であった)が、長岡の宮において、近衛舎人(このえのとねり・天皇の親衛隊)の雄鹿木積(おじかのこずみ)、波波岐将丸(ははきのもちまる)によって射殺された。今にして思えば、先夜、月光が失せたのは、この種継卿の不慮の死の凶兆であったのだろうか。

 同じく桓武天皇の御世、延暦六年秋九月四日の酉の刻(午後六時ごろ)過ぎであったであろうか、ふとした拍子に、僧景戒は、それまで考えてもみなかった我が身のこしかたに、はたと、おもいをいたし、身のおきどころのないほど己れのいたらなさに気づき、大いに恥じ入ったのであった。
「ああ恥ずかしい。せっかくこの世に生まれてきたのに、我はちゃんと生計を立て、堂々と生きてゆく手段をもたない・・」
 愛欲の網の煩悩にとらわれ、まといつかれて、あくせく八方に馳せ回り、懸命に生きている。
 景戒は僧であるが、実際は俗世間に身をおいて、暮らしている。しかし妻子をたくわえ、養う物も無く、米も菜も塩も無く、衣も薪(まき)も無く、いつもすべての物に事欠いて、はなはだ心もとないかぎりである。
 昼も飢えて寒さに震え、夜もまた飢え寒さに震えている。それもこれも、前世において景戒が人に物を施(ほどこ)す行(ぎょう)をなおざりにし、積まなかったためであろうか。「わが心、おこないの、なんという卑しいことか、さもしいことか ・・」と、忸怩(じくじ)たる心地をいだいて就寝した。その夜の子の刻(午前零時ごろ)に「夢」を見た。

 一人の乞食者(こつじきしゃ)が景戒の家を訪れて経を誦(ず)したあと、こう言った。
「上品(じょうぼん・最高度)の善行を積めば、一丈七尺の長身を得、下品(げぼん)の善功徳を修すれば一丈の身長を得る」
 これを聞いた景戒が首をもたげ乞者を見上げると、それはなんと旧知の紀伊の国海草郡楠見粟村に住む沙弥(しゃみ)の鏡日(きょうにち)であった。
 気持ちをしずめてあたりを見ると、その乞者の横に長さ二丈ほど広さ(幅)一尺ばかりの板の札(ふみた・前世における成績の評定)があった。
 そしてその札には、一丈七尺と一丈のしるしが墨黒々と記されているので訊ねた。
「この札に書かれてあるのは上品と下品の善行を修する人の評定なのか?」
「そのとおりである」と、相手が大きくうなずくのに、景戒は慙愧(ざんき)を禁じえず、弾指(だんし・爪の先を親指の腹にかけてはじくこと。自らを悔い恥じるさま)した。
「上品、下品の善を修すれば、より高い身長が得られるという。ひるがえって考えると己れはどうか。
 われは下品の善功徳をすら修していないではないか。それゆえに景戒の身長はそこそこ五尺余りにすぎない。まことに卑しく浅はかなことかな ・・」と、しきりに弾指してくやしがった。
 すると、傍(かたわら)に居る人々が、自嘲する景戒の言葉を耳にし、顔を見合わせながら「いかにも、それはまさしく当たっている」と、互いにうなずいた。
 とりあえず景戒は、白米(しらげよね)半升ばかり、その乞者に捧げて施した。乞者はそれを咒願(じゅがん・恭しく拝んで)して受けると、懐中より書卷を取り出し、景戒に授けて言った。
「これを書写せよ。これは人々を救い導くすぐれた書である」と。
 景戒が見ると、それは大乗経のなかの諸種の事項に関する類文をまとめた「諸経要集」であった。
「たしかに貴重な書物であるが、遺憾(いかん)ながら、書写する紙を持たない」と言うと、乞者は書き古した紙を取り出し、景戒に与えて、告げた。「この反古(ほご)に写し取ればよいであろう。その間、われは他処において乞食することにいたそう」と、くだんの札とその書物を置いて立ち去った。
 それを見ていて、「あの沙弥は、つね日ごろより、あのように乞食(こつじき)する人にはどうしても見えないが、なぜ乞食するのであろうか」
「どうせ、子だくさんで四苦八苦し、食うに困って、やむなく、ああして乞食し、家族を養っているのだろうよ」と、かたわらの者が呟いた。

 ・・ たいそう奇妙な「夢」であり、それが、いかなる意味合いのものなのか、未(いま)だ判然としないが、ひとつ言えることは、仏の尊い「おさとし」であることにはまちがいない。

 あの鏡日によく似た沙弥は、おそらく観音が姿を変えたものか。
 そもそも具足戒(ぐそくかい)を受けていない者を沙弥という。観音もまたしかり、既に観音菩薩は正しい悟りを開いているけれども、ひとり如来とは成らず、衆生を救わんがために、衆生と共に、あえて菩薩として成仏修行の中の地位に甘んじている。
 したがって、その乞者の姿は、法華経観世音菩薩普門品に説かれているところの「三十三現身」のうちの一つである。
 そして上品の一丈七尺とは仏菩薩が住む世界のあらゆる徳のあらわれであるという。
 下品の一丈とは人天有漏の苦果(にんてん・うろのくか、有漏とは煩悩執着。苦果はその苦悩のあらわれ)なり。
 また、景戒が慙愧(ざんき)し、弾指して恥じたのは、自分とて本来、善の素因を有しているはずであるから、これよりのち、修行を積んでゆけば、先世の罪を滅し、とこしえに後の善を得られることとなる。
 したがって、剃髪(ていはつ)し、袈裟(けさ)を着、弾指する仕ぐさとは、とりもなおさず罪を懺悔(さんげ)し、滅し、福を得ることにほかならない。
 また、景戒の身長がわずか五尺余に達するばかりというのは、五尺とは、因縁によって衆生が住むべきはずの五趣(ごしゅ)の世界(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上界)の因果のことである。
 そして、五尺余の余とは端数のことで、この端数の意味は、上界に往生(おうじょう)するか、下界に往生するか定まらない性質のものであるから、心の持ち方しだいでは、五趣の上位の世界に往生が可能となる。
 なぜかというと、余とは尺でもなく丈でもなく、数が不定であるだけに、心の持ち方しだいで上位にも、また、まかりまちがえば下位の畜生、餓鬼道の苦界に堕ちる因ともなりうるからである。

 また、白米(しらげよね)を捧げて乞者に献じたその意味は、大白牛車(だいびゃくごしゃ・白くて大きな牛の引く立派な車。この車によって火宅無常界を離れることができる)を得るために、願を発し、仏を造り、大乗経典を清書し、ねんごろに善因を修することである。

 乞者咒願(じゅがん)して受けるとは、観音菩薩が、その願いを聞き届けてくださることを意味する。そのうえで、書巻を出して景戒に授けたのは、汝、これよりあらたに善因を重ねて、仏道修行に励み、よりいっそう智慧(ちえ)を加えよということであり、書き古しの反古(ほご)をくれた理由は、日々の暮らしに追われて、久しく表面にあらわれてこなかった景戒の仏性(ぶっしょう・善の素因)も、仏法を護持(ごじ)することにより、善を積みかさねることにより、やがては、菩提(ぼだい)を得ることも可能である、ということである。

 そして、「我、他処へ往き、乞食して還り来らむ」のくだりの「他処に往き、乞食する」とは、観音菩薩の慈悲心が世界じゅうにゆきわたり、私ども衆生をもれなく救うということであり、「還り来らむ」とは、景戒の願いが叶えられたあかつきにおいて、智慧と福徳をかち得る、との意味合いであり、また、「常に乞食する人にあらず」とは、景戒が「願を発しない」かぎり、なにも感じるところがないし、何も起こりはしないということだ。

 さらに「夢」のなかで「何のために乞食しているのか」と訊ねているわけは、乞食するということは、いま願うところに応じて、福がようやくのことに自分にもまわってくることを意味し、「子多数(あまた)有り」とは、観音菩薩さまが教化(きょうけ)する対象である衆生のことである。

「養う物無し」とは、仏性をまったく有しない種類の衆生は、仏道を成就(じょうじゅ)させる手段が皆無であるから。そして「乞食して養う」とは、天上界、人間界における仏縁の端緒(たんしょ)をつかみとろう、つまり、福徳が招来(しょうらい)されるということにほかならない。

 ・・ また、僧景戒は、ある夜「夢」を見た。延暦七年春三月十七日の深夜のことである。
 景戒はすでにこの世の人間ではなかった。その死骸は、うずたかく積まれた薪(たきぎ)によって荼毘(だび)に付されていた。
 そして景戒の霊魂は、我が身の焼かれているそのかたわらに立ち、その有り様をじいっと見つめていた。けれども屍(かばね)はおもうようになかなかうまく焼けない。
 そのため、みずから小枝を持っておのが身をつついたり、裏返したりして焼いている。
 ようやくにして遺体に焔(ほのお)がまわりはじめたので、安堵(あんど)し、我より先に焼かれていた者に、「我がごとく上手に焼いてみなされ」と、よけいな、さしで口をきいて教えた。
 やがて、己れの足も膝関節の骨も、また肱や頭蓋骨まですっかり焼けおちたのであった。
 そこで景戒の霊魂は、声を張り上げて叫んだ。だが、すぐそばに居る人にも、その呼びかけは届かない。その人の耳に口をあてて懸命に大声で語りかけているのに、むなしく言葉がかき消えて、相手には届かなかった。
 ここにおいて、ようやく景戒は思いあたったのであった。死者の霊魂は、声を有していない。したがって、わが叫び声は決して相手まで到達しない、ということなのだ、と。
 まさに奇妙きてれつな「夢」を見たものであるが、はたしてあの夢は何を意味し、何の予兆なのか、いまだ我が身辺にそれらを暗示する何事の異変も見当たらない。
 が、もしかして、あの「不可解な夢」は、景戒が長生きするという神仏の示現(じげん)であろうか。あるいはまた、官位を得、出世するということなのであろうか。以後、あの夢の答えが、いかなるものであるのか、ゆるりと待つこととしよう。

 ・・ そうこうしているうち、延暦十四(七九五)年の冬十二月三十日、景戒は伝燈住位(僧位の第四位にあたる)を得たのだが・・
桓武天皇がおなじ平安の宮に天下治(あめのしたおさ)めたまいし延暦十六年夏四、五月ころ、景戒の部屋の蔀戸(しとみど)の外で夜毎に狐の鳴き声を聞く。そのうえ、景戒が私的に建てた小堂の壁をうがちて、狐が堂内に入り込んで、罰当たりにも仏坐の上に糞尿を垂れ流して汚し、昼日中においても屋戸に向かって鳴いたりするようになった。
 そして、それから約七ヵ月余を経た十二月十七日、我が愛する息子が亡くなった。
 また、延暦十八年の十一月下旬景戒の家のまわりで、ふたたび狐が鳴き、なにがどうなったのか夏の虫であるニイニイ蝉まで啼くしまつであった。
 さらにその翌年の延暦十九年の正月十二日、景戒が大事に飼っていた駒が死んだ。どこが悪くて死んだのか、その原因がさだかに分からぬうちに、同じ月の二十五日さきの馬のあとを追うようにしてもう一頭の駒が死んだ。

 景戒の周辺において、こういう変事をたてつづけに経験したあげく、つくづくと思い知ったことは、いったいにわざわいの「前兆」といったものは、こういうかたちによってふいにあらわれ、その後にその災禍(さいか)が実体をともなって襲いかかってくるものであるということを・・。
 しかるに景戒には、災難を未然に除去する陰陽道(おんみょうどう)の心得もなければ、天台智者(てんだいちしゃ・智顗[ちぎ](539~597)は中国天台宗の確立者で、日本においても高祖と仰がれる)の奥深い哲理も理解してないから、いまは腕をこまねいて災いを甘受するよりよい方策もなく、ただひたすらに心配するばかりである。
 かくなるうえは、さらなる仏道修行の専念あるのみである。

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