み仏さまのご加護を勝手に解釈しないこと

私が子供の頃に聞いた話です。「高野山にお参りしたい」と一心
に拝んだ帰り道で財布を拾い、開けてみたら千円もお金が入ってい
て「ああ有り難い、お大師さま、高野山にお参りしてきました」と
嬉しそうにお婆さん——-。子供心にも何か変だと思いましたが、
もう六十年も経ちましたので時効だと思ってお話します。
 これは財布を無くした人にとっては大変な災難で、拾得物として
交番に届け出て、謝礼として一割もらい、あるいは、六ヶ月を経過
して届出が無くて、貰ったのなら別として、これは、お大師さまも
困られたと思います。簡単に言えばこれは拾得物横領、立派な犯罪
だと思います。(鈴之僧正のお話を田川純照が要約筆記しました)

 ご利益に金銭の給付は絶対に無い
      働く場所と、安心して住める家が・・・・

 このお婆さんの名前は守秘義務のうちです。今でも懐かしい方と
して丁重にご供養をしています。
 この一件を除いては、本当に善い女性だったと思います。しかし
この一件も若しかしたらお大師さまの計(はか)らいではなかった
のでは、と最近では考えるようになりました。

 私も年を重ねて、角が取れてきたのでしょうか。最近では十善戒
も一日に六つくらい破戒されても、それは許されると考えるように
なりました。
 ただし、日替わりメニューで十善戒を疎かにすると言われるのは、
どうも同意いたしかねます。
 相当に世の中が乱れておりますから、危ない誘惑が多くて、魔が
差しやすく、贈賄・収賄、脱税、横領、詐欺、暴力、嘘、中傷、
強制猥褻、痴漢や下着泥棒、盗撮など、絶対にしない方が善いです。

 運が悪いと、逮捕されて、逮捕くらいは拘置所が寒いくらいで、
大したことではありませんが、有罪になって、娑婆(しゃば)に
帰って来た時に、世間から相手にされない。地位ある人の地位も、
収入も失われます。犯罪行為は割りに合いません。刑法に触れるよ
うな事はしないこと、本人は勿論、家族のためです。

 贖罪(しょくざい)が済んでも、世の中は冷たいものです。それで
も真面目に努力して二十年三十年もすると、社会的な信用を得るこ
とも何とか可能です。
 スピード違反も駐車違反も窃盗も、全部、警察のコンピュータに
たぶん、記録されていると想像します。若しかすると、五十年昔の
スピード違反も悪事となるか否かは知りませんが、記録が更新され
続けていたりするかも知れません。

 悪いことには累犯性があって、警察が記録して置くことも理由が
あることです。無意味なことに経費は出ません。
 困ったことに、借金する傾向も中々矯正できません。一度借金を
踏み倒すと怖さの限界が見えてきます。それに体面を重んじる会社
などは届け出ない、告訴しない傾向もあります。

借金は、寸借詐欺でも無い限り、通常の商行為と看做(みな)さ
れ、多重債務者の発生は、本人も懲りていないし、社会の構造にも
問題があります。
 個人の身元保証も、大変な危険性がある行為です。人は追い詰め
られると、魔が差すこともあります。金融機関の借入れ連帯保証人
はご自分が借りるのと全く同じことですから、できれば断ってくだ
さい。
 連帯保証人、単なる保証のような単純なものではありません。
借入れは借りた人と同じ返済義務、勤務している人の保証人は、
その人の行為による損害の全てに本人同様な責任を持つことなので
す。借入金の場合はその場合の借入れ金のみならず貸付枠一杯まで
連帯して返済する義務があります。
 身元保証人の場合は就職時の仕事に関して保証人であり、その人
が経理課長にまで出世した場合など、人事の移動を保証人に通知し
ていない場合は保証の義務から逃れる場合もあります。

 世間には細かい字で一杯印刷してある書類は、拡大コピーをして
細部まで詳細に検討して、納得されたら保証人になったり、印鑑を
捺印されるのも仕方の無いことかもしれません。

 保証と同じように、しない方が利口だと思われるのは裁判です。
余程、無体なことでもされない限り、被害を弁償してもらうには、
時間と費用が掛かり過ぎて、うんざりします。
 憎悪の念も持たない方が幸せです。「人を呪えば穴二つ」という
諺の通りで、余程大きな損害でなければ、忘れるほうが楽です。

 私は、昨日までに起きたことは原則として、今日思い出すことは
有り得ません。親切にしたことも、何かを差し上げたことも、品物
を貸したことも、全部忘れてしまいます。
 頭を、過去の整理、自慢も恨みも、貸しにも、そのようなことに
使うのは無駄なことだと思います。死んだ後で、詮索されるような
請求書が来ないように、将来に向けて考えるようにしています。

■今年七月に私は七十歳になります。多くの友人が鬼籍に入りま
した。ですから何時死んでも良いように身辺を整理し、借金はあ
りません。借金や貸付を厳禁とする教えの意味が実感されます。

■警察とか税務署が怖いような生活は、設計に無理があります。
夜は安心して眠れることが大きな幸せです。寝る前に一日を反省
感謝し、朝、目が覚めると、今日何か良いことはと考えたいです。

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2003-01-2

 家族が心神耗弱(こうじゃく)となった時
    行為の結果が正しく認識されずに行動する

 人間の脳は不思議なものです。普通なら、自分で自傷行為を行っ
たり、自殺をはかったり、他人と交際することが嫌になったり、、、
私達が経験したケースでは、構内ランのモデムの電源を引き抜いて、
隣室の他人の部屋を散らかし、職員は連休だからアクセスが悪いの
だろうくらいに考えていたのですが、住職に脅迫電話を掛けたり、
私に変なメールを送りつけたりして、支離滅裂になり、段々と酷く
なりました。
 後で判明したことですが、受付事務を盗聴したり、私の直通電話
を盗聴していたり、被害妄想的行為がありました。
 残念なことですが、他の職員や奉仕者に、高圧的な態度で、かつ
丁寧語で自己流を押し付けられたので、相当な反感を持たれたとい
う事実もありました。
 結局、救急車と警察が来られて、強制入院となりましたが、見送
る気持は、私自身の挫折感と、ご本人の将来を考えて、涙して見送
ったような次第です。
 翌日、家族が来られて、あの子が死んでくれればと思うばかりで
す、とのことで、、、人間の心の非情さに、理解できると同時に、
私達も手の尽くしようが無いと諦めざるをえませんでした。
 この人の場合には、神経内科で投薬を受けること、家に月二度は
帰って家族と話合いをすることが条件でした。その何れも守られて
いませんでした。

私は、今までにさまざまな障害者を預かって、大切にし、細心の
配慮で待遇し、少なくとも二十人以上は社会復帰できるまでに漕ぎ
着けることができました。当然のことですが、私は薬物を持ってい
ませんので、優しさというか、慈悲というか、、ほとんどのご家族
からは本当に感謝されました。

 さりとて出過ぎたことかと反省します。
 人の精神の構造は複雑で、親切や慈しみ、暖かさ、相手の立場で
考えても通用しない例外もさまざまにあったのです。

 寺に預かると、作務衣(さむえ)を着てもらいますので、一般職員
と区別が付きません。個室を与え、電話を与え、パソコンを教えた
り、良い映画や音楽会などに連れて行っているうちは、何も問題は
起きません。ご本人が寺の受付事務を手伝われたり、他の奉仕者と
ご一緒になると問題が起き始めました。

 多くの場合、良い家の子供で、甘やかされて育っている、頭脳は
標準より相当に高い、我が強い、高慢な態度、高圧的な言動をとる、
結果として、信徒さんから私や住職が批判を受けます。
 私は批判を受けても止む得ない、それで何軒かの家庭が救われる
と考えて、失礼があれば詫びる、物品が壊されても目をつむる、
そのようにして来たのですが、病状が改善して社会復帰ができたり、
あるいは、親切や慈悲では対応できないような病気の再発、これに
は医師でないと対処できません。

普通に話を聞いていると、二秒くらいで、般若の面のように形相
が変化し、備品を投げ付ける、パソコンの液晶画面にマイセンの
カップを投げ付ける、やがて失神する。夜中に忍び込んではバール
を振り上げる、、、私の部屋に鍵を掛けることは無かったのですが、
防犯装置を付け、最低三十秒前に激しくチャイムが鳴るような設備
をする、、、本当に経験した人でないと信じれません。

 三日もすると落ち着かれる、しかしご自分の行為には記憶が無い
ようです。
 私は如何なる人でも大切にしたいと考えています。しかし、み仏
さまのご加護だけを信じて受け入れかねる場合もあることをご理解
ください。
 多くのご奉仕くださる信徒さまに、私の身の程知らずの行為が、
大変に不愉快に感じられたことに、心からお詫び申しあげます。
 寺の専従職員は、旅行や病気などで三ヶ月以上職務に就けない場
合は仮役員を選任することが法律で定められています。心身ともに
健康で無いと公益法人の職員は務まりません。

 同じ病人や怪我人でも高熱を出したり、血を流していると同情さ
れます。
 多分、頭の中で血を流しておられるのだと私は考えていましたが、
被害妄想と虚言癖と突然に凶暴になること、これは、もう私の出幕
では無いと納得が行きました。結論として、このような親切は今後
いたしません。
 そして、万一家族の行動に理解できないような事態に直面された
ら、まず神経内科で診断を受けられ、暖かい家族の支援、場合によ
ると、入院も止む得ないと考えましょう。体裁や対面を考えている
と重大な結果になることがあります。
 投薬を受け治療を受けて、運が良いと社会復帰も可能です。
 そこまで行かない場合でも、躁鬱状態が酷くなったような場合は
良い薬もあるようです。放置すると自殺する場合もあります。家族
の理解とコミュニケーションが大切です。
 私には、殺されても異存が無いような覚悟が出来ています。普通
の人に私のような覚悟を求めることは困難なことです。早めに診断
を受け、医師の言い付けを守ることが家族の心得です。

■現在の観音院には抗鬱剤や向精神薬を服用し、保護している職員
はいません。精神的な弱者に医療保護が充実することを願います。
同時に、偏見や蔑視の考え方を捨てて下さることを願います。

■家族が病気になったら、死んでくれたら良いと言うような考え方
は止めてください。全ての人の人権が守られるよう、彼らに仕事と
安心して暮らせる場所を上げて下さい。お願い申します。

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鈴の法話 2003-01-3

 お金を貸さない、借りない。出資は別。
    債鬼にならない、債鬼に追われない

契約書は、強制執行付きの公正証書が役に立ちますが、このよう
な制度が存在するのは、被害を事前に避けたいと願う人間不信に
なった人たちの精神構造からです。なるべくなら周囲の人間の言葉
を信じて生きて行けるほうが幸せなのに、強制力のある文書の方を
信じる。言葉を信じない理由はとても簡単なことで、約束を破られ
た経験からです。

 お金を貸すと、大抵は約束通り返済してくれるものです。信用し
て二回目の貸付を行うと、今度は返済が延ばされる、延ばした日に
返済されないで、また返済日が延ばされる、この辺で「本当に返し
てくれるのだろうか」と考えるようになると返済不履行という被害
を妄想するようになる。–人を見る目が無かったのですが、自分の
注意不足を棚に上げて、人を信じないようになります。

 男女関係も同様です。結婚するとか、この世で一番素晴らしいな
どと言われて信じる、浮気されたり、別れたいと言われて愕然とす
る、運が悪い人のことを「男運が悪い」とか「女運が悪い」などと
思い込んで結婚願望が無くなり、もうこりごりと言う人も多いです
ね。
 夫婦財産制もあって結婚前に財産の帰属を最初から定めて置けば
良いのですが、熱い最中は気付きません。

 日本では「契約概念」が曖昧模糊で、多くの人が病的な被害妄想
ではなくて、単純な人間不信に陥っておられます。
 物事が約束通りになされないのは、行為の前にある契約が明確に
なされていないからです。家の貸借、お金の貸借、婚姻の約束、
雇用条件など、大半の契約が明確でないこと、契約不履行の場合の
損害賠償などが定められていないことが、人間関係を壊される原因
となっているようです。開き直り、居座りなど、世の中が困難にな
るにつけて、昔の曖昧な契約が現在の問題を解決するにあたり困難
を招いています。
 契約には法律の専門家である弁護士さんの知識を借りるのが一番
です。
 観音院の筆頭責任役員は弁護士さんです。私は良い弁護士さんと
良いお医者さん、それに、み仏さまと相談しながら物事を判断する
ようにしています。
 人間不信も大問題ですが、世の中が悪くなって、年金が約束通り
払われない、銀行が預け入れたお金を出せないようになるかも知れ
ない。不良債権が年々大きくなる、デフレ終焉(しゅうえん)の
兆しが見えない、政治家が法に触れて逮捕されたりして、信ずる
ものが無い人が多くなりました。

 本来、保険制度は相互負担の原則で運営されていて、払い込み
金額の変動は当然のことです。税金も、税収と予算のバランスが
取れていることは当然のことであり、高福祉国家を望み、納税者
の人口が減ったりすることは国も、家庭も、同じことなのですが、
そこのあたりの教育は十分になされているのか、疑問を感じてい
ます。
 デフレスパイラルの様相は、経験した政治家や財界人、学者が
いないので、首相も与党も野党も全部が理屈だけで、ああだこう
だと議論し、政治がなされていて、ペーパードライバーが運転さ
れる国家ですから、大変に危険な乗り物に乗っているのですから
被害を妄想し、実害を予想することも各自の注意義務の内に入る
かもしれません。
 需要予測を大きく考えてやった人々に、予測を妄想に近いくら
い抑えてくれる人がいたら、日本の現在の経済的困難は、極めて
楽観的な予測をして物事を始めた人たちにも責任があります。

 「諸行無常」は古くは平家物語の冒頭で、私の常に心している
ことですが、立派な建築物の完成を見ると、雨漏りや、水周りの
欠陥、筐体(きょうたい)の疲労による取り壊される景色が目蓋
に浮かぶ、困った性格だと思っていますが、お釈迦さまの教えに
従った考え方で、絶対に間違った性格ではないと確信しています。

 需要も税収も道路も建物も自然も、全てのものが、姿形や数
字を固定して保たれることは無く、常に移ろいて、変化し続ける
と考えると、甘い将来予測など立てようがありません。

 ご商売をしておられれば、何時、顧客が一人も居なくなるかも
分からない、強烈な競争相手が出るかも知れない、代替品で便利
で丈夫で廉価な物が市場に出て来るかも知れない–、当然過ぎる
くらい当然のことが起きるのに、災難や経済市況のせいにしては
いけません。
 お役人は奉仕のあり方を、商いには常に工夫と進歩を考えなけ
れば、世の中に存在する意味が無くなるのです。
 定年や寿命は、企業にもお役所にも、国家にも、全て始めある
ものは終わりがあるのが道理です。
 移り変わるのが道理としても、生老病死も経済の極端な変化は
望ましくありません。ハードよりはソフトな変化を願って何時も
祈願しています。
 年末年始は、わけても格別に無事を願い、そして日々皆さまの
ご無事を願い、皆さんの倫理観が高くなり、安全な将来を願って
いるのです。

■元気を出しなさい、病気も経営も気の元が大切です。観音院の
礼拝や法要は俗に「元気法要」と呼ばれるもので、供養は亡き人
の精霊の元気を願い、皆さんの元気を願い、組織の元気祈願です。
   P
■全てのものは変化して停まらないから物事は大切にしなければ
ならないのです。観音院は皆さんのお寺ですから、その公益法人
であることを自覚して、住職も僧侶も関係者一同が大切にします。

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