ほとけ様を拝む心の在り方は

法主さまのお側にも住職さまの部屋にも、内持仏(ないじぶつ)にも、本堂はもちろん、別殿にも、東京事務所にも、観音院の多くの場所には胎蔵界と金剛界の曼荼羅(まんだら)がおまつりしてあります。
 この曼荼羅は沢山のほとけ様のお姿を描いたものですが、現在なら当然に写真を撮るなり、ビデオに撮られると思うのですが、千年以上昔だったので、絵の上手な人が描いたものでしょう。
 遠近法では無く、大切なほとけ様は大きく、まあまあのほとけ様はそれなりに描いてあって、良く観察すると、ほとけ様の社会があります。
 もちろん、一台や二台のカメラで写せるほどの広さではなくて、最低千台のカメラは必要と思えるほどの広さがあります。正確には京都か中国の西安のような都市におられるほどのほとけ様たちですから写すのは大変です。
 この曼荼羅の前で瞑想(めいそう)することは、あたかも京都駅か中国の西安で降り立つようなもので、みほとけ様の一員になることはそれほど困難なことではありません。
 出来るか、出来ないかは、皆さまの頭脳が訓練されているか、いないか、だけのことで、どのように観られるか、体感されるか、それはそれぞれです。
 余り難しく考えなくても良いし、詳しく知りたいなら、栂尾祥雲全集に曼荼羅の研究という書物がありますのでそれをご覧ください。良い書物に出会えるか否かも、仏縁と努力が必要です。是非とも密教辞典や仏教辞典はご自分でお求めください。これらの専門書は千冊売れるか売れないかですから、値段はまことに高価で、時に古書籍店の其中堂の古書仏教書で在庫があることもあります。検索して求めなさい。
 曼荼羅の中に入ることは劇画氾濫の現代では皆さんにとってそれほど難しいこととは、私は考えません。
 本来の曼荼羅の主たる仏像が、国内にもあります。京都の教王護国寺(きょうおうごこくじ)、通称「東寺」の伽藍(がらん)にあります。
 何時か機会があれば参拝して下さい、ただし、曼荼羅のほんの一部分です。それでも圧倒されるような迫力があります。曼荼羅は深い内容と意味がありますが、できれば画像よりは彫刻像を観て欲しいと願います。
 仏像を礼拝(らいはい)する時は、出来れば会話してください。ご仏像をただの木仏金仏とするような態度は、信心の態度ではありません。
 亡くなられた家族の写真に対しては生きておられた時と同じように会話が成立している例は少なくありません。
 宗教はこのような立場から成立しているのです。
 以前、地位も知識も尊敬出来るご僧侶のお寺に泊めて頂き、その本堂にお参りしたことがあります。流石に仏具はピカピカでしたが、皺だらけのリンゴがお供えしてありました。
 私にとってみほとけさまは扶養家族と同じことです。尊敬と信頼で、大切に大切にお仕えしています。
 みほとけさまを、財物、骨董品、置物、飾り物、とにかく人間以上に尊敬できないのは僧侶とは思いません。
 単なる礼拝の対象ぐらいに考えている人は、傲慢かつ無礼、そして無知な人ではないかと想像し、一緒には行動できません。
 みほとけさまは、私にとっては尊い人であり、五体投地の対象であり、大切な友人であり、両親や家族より大切な方なのです。
 皆さまも、みほとけさまをおまつりされる場合はご両親なりご先祖さまか、あるいは亡くなられた大切な方が生き返られたくらいの心得でお願いします。
 みほとけ様を礼拝(らいはい)する時は話し合えることが、本当に大切なのです。ただし、これが誤って発展すると、仏前に、煙草を供えたり、缶ビールを供えたりするような変なことになりますと、亡き人の供養にはならないことです。
 さりとて、妄想や想像、異常な精神で、そのように感じるのは駄目です。十善戒の範囲内を出ないように自戒されることが大切です、かつ、その会話内容を絶対に他言してはなりません。理解を超えるようなものであるなら、師匠にのみ相談することは可能です。
 近い将来に皆さんに阿字観(あじかん)という習得すれば即身成仏にも繋がる修法を伝授することを準備していますが、そのために「阿字観本尊」の製作に取り掛かっています。
 みほとけ様は皆さんの心の中にあるとも言えます。このような考え方は変に理屈をつけるとどうにもなりません。僧侶は謙虚な人でないと、奇跡が起こせるとか四百四病が治せるなどと言われては破門しなくてはならないような事態になることもあります。

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