お金の取り扱いは慎重にして下さい

人は自然のままに生きることは出来ない。人の思うように道を作り、山を削り、海を埋め立て、人にとって価値ある物のみ増やし、厭うものを滅して今日が在ります。物を加工し、移動し、その付加価値を富と呼びます。物を加工する技術は競われ、より多くの物を作り、一度に多くの物を運ぶ手段を持ち、人を集めて生産に必要な金融と言う技術を持ち、全体を経済と呼び、複雑な金融制度を持ちました。しかし、需要を超えた生産をする企業は行き詰まりつつあるようです。

 失業保険制度、老後の生活を保障する年金制度、医療費の負担制度等は、若年人口の減少により破綻寸前になりました。文明文化の将来に綻びが見えてきました。人の欲望には際限がありません。公序良俗も考え直す時期かも知れません。
観自在編集部

近代的金融工学の破綻かも
昔々のお話と七十年前のお話

 現在の私たちの置かれた状態は産業革命に匹敵するような状態です。むしろ原始的工業化に似ているかも知れません。都市部で工業化が進む前の段階の、農村部の近代化を指します。

  十六世紀のヨーロッパ各地では、綿の生産、織物の生産が盛んに行われるようになっていました。

  製品を効率よく作る工夫がなされ、同時に工業化が進むようになりました。

  さらに十八世紀になると綿産業が家内制手工業で大量生産されるようになると、販売の商圏はアフリカにまで及んで行きました。

  その結果、農村部の工業化は一時的に都市部への人口流出を防ぎ、農村部に富をもたらしました。

■商人や問屋が商業地域の拡大を図ったために、多くの農民は、自分も富を得るチャンスと考え、このマネーゲームに参加しましたが、多くは経営能力の欠如のために退場しました。

 蒸気機関の発明とピストン運動を円運動に変える技術ができました。

 産業革命によって生産の爆発的拡大が行われると近代的工業企業経営が行われるとプロト(原始的)工業化は終焉を迎えたそうです。

■産業革命は、植民地の成立、大戦の勃発、植民地の独立、核の利用、冷戦の終結、人工衛星の発達、テロの発生、ラジオ、テレビ、インターネット社会と世界は大きく変化しています。

 医療や福祉などは、国家間で大きく相違しています。日本は中福祉国家を目指してはいるようですが、計算上は破綻に向かっているようです。

 世界温暖化は大きな問題で異常気象は、世界各国に旱魃、洪水など深刻な影響を与えつつあります。

 昨年からの金融工学の破綻は、経済危機という形で私たちの現在を苦境に向けて導いているようです。

 企業の破綻や工場の閉鎖、失業者の増大、株価の値下がりとなり、日本の円は比較的に強く、これは奇跡みたいな出来事ですが、経済危機の解決への処方箋をめぐって政党の支持率に影響しているようです。

 麻生総理の失言は、言葉尻を事挙げされているようで、頬もげっそりと落ちて、少し気の毒です。

 そこへ民主党の小沢党首の公設第一秘書と西松建設の人たちの政治資金規正法違反の容疑で逮捕家宅捜索です。

 自民党の陰謀と言う説もありますが、それは無いでしょう。単純に証拠に近いものか、相当念入りに調査した何かが無いと裁判所は令状を出しません。自民議員にも献金がいっていました。

 麻生さんが解散を遅らせるほど支持率が下がるように、小沢党首が居座るほど民主党は揺れるでしょう。

 政治家の出処進退は、「潔い」のを日本人は望んでいる傾向があります。

 もしも、蒸気機関が無かったら、電気モーターが無かったら、ディーゼル機関やガソリンエンジンが無かったらと考えると、相当不便だと思いますが、地球温暖化の心配はしないでも良かったのではないかと想像します。

 江戸時代の参勤交代のころの日本は「のどか」だったと思います。

 電灯線や電話線が無い、電柱が無いだけでも景色は相当に美しいと思います。工場地域は多分に「白砂青松」だろうと想像します。

 封建制度に返しましょうと言う話ではありません。段々畑を復活したいですね、くらいに受け取ってください。

 病気になっても家族が面倒を見てくれる、時には行き倒れも出る、悪質な風邪が大流行して死者が増大することもある、そのころの話です。
お医者さんに診てもらうなんてことは不可能でした。医者が御殿医くらいしかおられなかったからでしょう。

  熱が出れば冷やし、下痢すればお粥を食べさせる、免疫があれば助かる、弱い体質のものは死ぬる。

  親孝行とか兄弟愛は当然に大切にされていました。

  明治のご維新で、広島でも山陽線が引かれ、電灯が普及し各家庭は十ワットの裸電球が一個が普通。

  工業化の波に従って、缶詰め工場、練炭工場、旋盤(せんばん)を備えた工場も出来ました。

  市内電車が普及し、チンチン電車が走るようになりました。

  やがて三菱の江波・観音工場ができ、大きな船の進水式を学校で先生に連れられて見に行きました。

  戦前の広島市内の鉄筋の建物は後に原爆ドームとなった産業奨励館、福屋、中国新聞社など、被服廠(しょう)という大きな煉瓦作りの建物、日赤ももうありました。市内にまだ多くの農地がありました。

■承前、今朝(3/5)のNHKの七時のニュースです。イラクに消防車百八十台寄贈の話がありました。給付金「二兆円」は、医療の充実や保育園の充実、失業者の救済などに充当されていれば、お金が生きたと思います。

  私も、サモシイと言われてまで受け取ることは出来ません。受け取りを辞退するか、日赤にでも寄付します。

  小学六年生の時に広島に原爆が落ちて(一九四五年)、寺はおろか、一面焼け野原、金融は封鎖され、医者も病院も何も無い、食べる物が無いという飢餓状態は辛かったですね。

  蓬やツワ蕗、ホタル草なんか、食べられるものは端から食べて、水仙の茎はのどを通りませんでした。翌年は、焼け跡を整地して野菜や麦なども収穫できました。おかげで縄をなうことも草履を編むことも、船の櫓(ろ)をこぐこともできます。

  このころ、ビルマから復員して来た当時の住職の弟が相続を強く要求し、住職私有地の半分を強引にもぎ取り売り払いました。その土地の一部分を買い戻しましたが、億と言う金額が必要でした。

  ようやく電気が来ることになり、町内の人が電線を引っ張って、各戸に裸電球が点灯しました。

  原爆で祖父、弟妹が死にました。多くの檀家信徒の家も全部焼け尽くし、焼け跡に帰って来た人も全戸焼け残ったブリキやトタンの波板でした。

  広島に直後に帰られた人は、放射能の影響でしょうか、皆さん下痢をされていました。

  物凄いインフレで、雇用先なんて無く、全員全市民失業者でした。父親は脊髄に損傷があり、歩行に不自由でしたが、数え七十七歳まで生きました。母は五十九歳で亡くなりました。

  この時には四間六間の仮本堂と二十四坪の庫裏を立てて住んでいました。

  観音院は、本来は戦後生まれの住職が引き継ぐはずでしたが、既に社会人であった私が両親に懇願されて住職になりました。三十歳の頃です。そして大蔵経に埋もれて過ごし、三十七歳頃に高野山の本山布教師になりました。十五歳年下の弟が寺に帰って来ました。兄弟ともに学資というものを親からもらったことは一度もありません。

  艱難辛苦は両人(法主と住職)共に十分に知っています。午前十時と正午、午後二時の法要を始めたのは、母親の供養が直接の動機でありました。

  現在の観音院は耐震性を考慮に入れて建てた頑丈な構築物であり、恐らくは百年は筐体に手入れする必要は無いと思います。十六ケ所にモニタカメラが付いていて、悪戯は不可能に近いと思います。近くキューピクルのトランスの取替えが必要です。経理公開で償却もしております。借入金はありません。基金の運用も一切しておりません。

  今般の経済危機と、被爆した当時を比較すると、戦災や被爆の方が酷です。日本の多くの都市は爆撃を受けて丸焼け状態でした。それが今日のような各地の現代的な都市として復興しました。

  阪神淡路の大震災、現在、新神戸駅前から観察すると大変な復興振りです。

  失業対策によって職業を得た日本人はわずかです。大切なのは失業対策は、就職意欲と柔軟な働く人の対応です。

  老後の生活は大変です、生活保護の仕組みは大切に維持して欲しいと願います。若年労働者が先輩の年金制度を維持負担するには酷であり、早晩破綻するものと思います。

  日本人は素晴らしい国民性を持っています。高度な技術を駆使し、品質の高いものを輸出して、大量生産の意味を、需要を上回る供給をしなければ、必ず近い将来に日本の経済は好転すると信じます。この傾向は政変の有無に関わらず損なわれることの無い特性であると確信します。日本の将来に少しも悲観することはありません。

  何らかの原因で、困難な状況にある人に対しては、思い遣りのある、困っている人の立場で考えて上げる施策が望ましく思います。

  これからの日本を考える時に、借金をしない、ローンは組まない、持ち金の運用で小資本で大きな見返りが期待できるもの等リスクが高いものには手を出さない。お金を貸すとそのお金は絶対に帰って来ず、人間関係が無くなり、恨みさえ買います。

  各地で工場の閉鎖、企業の吸収合併などが続きます。産業の構造が革命のように変化しています。この変化は早ければ三年、遅くとも五年後には落ち着くとおもわれます。

  希望を失わず、元気を出して、やる気を失わず、知恵を出し合って頑張って生きて行きましょう。

タイトルとURLをコピーしました