お大師さま(一)

■ 弘法大師さま ■

  空海上人は承和二年(八三五年)三月二十一日に六十二歳で高野山(こうやさん)において、御入定(ごにゅうじょう)されました。
 この悲報は京の都に伝えられ、親交の深かった嵯峨上皇は「海上人を哭す(こくす)」という七言十六句の詩を送って別れの悲しみを述べられております。
「得道(とくどう・仏道を修行して悟りを開くこと)の高僧 氷玉清し 杯(はい・船)に乗じ 錫(しゃく)を飛ばして滄溟(そうめい・青く広い海)を渡る 化身世に住す 何ぞよく久しからん 塵界(じんかい・汚れた俗世間)空しく留む・・・・・・」。
 
 朝廷は、御入定後二十二年を経て天安元年(八五七年)、文徳天皇は大僧正の位を追贈し、貞観六年(八六四年)には清和天皇が、法印大和尚位を贈られました。

 御入定後八十六年を経た延喜二十一年(九二一年)十月二十七日、醍醐天皇は、仁和寺(にんなじ)をお開きになった宇多(寛平)法王と東寺長者の観賢僧正の奏上(そうじょう)により、弘法利生(ぐほうりしょう・正法を弘めて人々を救済する)の優れた功績から「弘法大師」の諡号(しごう・贈り名)を贈られました。
 言い伝えによると、お大師さまは醍醐天皇の夢枕に現れ、
 「高野山(たかのやま) 結ぶ庵(いおり)に袖朽ちて こけの下にぞ 有明の月」と詠まれた、ということです。
 衣は朽ち果てているが、有明の月の如く世を照らし続けているという歌は、今でも御詠歌として多くの信者に唱えられております。
 天皇はこの夢より覚めた後も、破れ衣を召したお大師さまのお姿が眼裏から離れず、廟所に御衣を贈られることにしました。

 十一月二十七日「弘法大師」諡号の勅使少納言平惟助卿、御衣送賜勅使大納言藤原扶閑卿、廟使観賢僧正を高野山に派遣されました。
 御廟の前で平惟助卿が勅文を奉読していると、廟中から、「われ昔 薩埵にあい まのあたり悉く 印明を伝う 肉身 三昧を証し慈氏(じし・弥勒菩薩)の下生(げしょう)を待つ」とのお声が聞かれたと伝えられております。
 観賢僧正は、恩賜の衣・袈裟・念珠などを捧げて御廟の中に入られましたが、尊容を拝するに、罪障の深きが故か、拝することを得なかったが、五体を地に投じ至心懺悔(さんげ)するや、雲霧晴れて満月出づるが如く、御入定の法体(ほったい)をあり拝するを得たと伝えられております。
 観賢僧正が御廟での行事を終え、玉川に架かる御廟橋まで歩みを運ぶと、お大師さまがお見送りされている姿に気づき、「南無大師遍照金剛」と御宝号をお唱えしますと、お大師さまは、「われ汝の仏性を送るなり」と言われ、お互いに合掌されお別れになったと今日に伝えられております。

■「多摩の二度栗」の伝説 ■

 昔々、武州多摩郡山の根村(現在の東京都青梅市から奥多摩町付近)でのある秋の日の話です。

 その年の山の根村では大きくて美味しい栗がたくさん採れました。
村人が集まり栗を食べておりますと、衣が破れ、見るからに弱った旅の僧侶が近寄り、「栗を一粒、恵んで下さい」と言いました。
 村人はいいよ、と言いながら、栗の殻を僧侶に放り投げました。僧侶は頭を下げその場を立ち去りました。
 僧侶は次に村一番の大きな屋敷に行き、縁側に座って栗を食べていた家人に「栗を一粒恵んで下さい」と頼みましたが、家人は僧侶 に栗の殻を投げつけました。
 僧侶は大変悲しい思いをしながら、その場を立ち去ったそうです。

 僧侶は村外れまで歩くと一軒の粗末な小屋がありました。僧侶は小屋に入り「栗を一粒お恵み下さい」と頼みました。
 小屋には十七歳前後の若者をかしらに四人の子供が住んでおり父母はすでに亡くなったようでした。貧乏で一粒の栗しかありませんでした。
 それでも心優しい彼らは空腹で倒れそうな僧侶のためにその一粒の栗を差し上げました。
 その一粒の栗を食べた僧侶はたちまち元気になり、「ありがとうございます、皆さんの優しい心が天に通じ、裏山に天の恵みを受けることとなるでしょう」と言い残して小屋を出ていきました。
 不思議なことに、その後、彼らの小屋の裏山の栗林には大きくて美味しい栗が春と秋の二度なるようになり、子供たちは幸せに暮らしたそうです。
 のちにあの時の僧侶は弘法大師だったことがわかりました。山の根の人々はこの話を現在に伝承し、お大師さまを深く信仰しているとのことです。
観音院常用教典

「まことの道」より 

「南無と唱えるそのときに、われ御仏にひれ伏して、大師に誠を献げたてまつる。
 遍照金剛と唱えるそのときに、大師を一切衆生のみ親なる大日如来とあがめたてまつる。
 われらいま、南無大師遍照金剛のみ名を讃えてみ教えをささげたてまつり、善き人として密厳国土(きよきせかい)を創らんと願うなり。」 浄寛 合掌九拝

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