「弘法大師 空海全集」を読みましょう

皆さんに真言宗の教えについてお話しする時に、最大の参考書にしています。座右の書籍です。「七十歳にもなって未だ勉強することがあるのか」としばしば問われますが、書籍は二度や三度くらい目を通したくらいでは消化出来ないものです。「不動の心を持つこと」と、全く別のものなのです。ある意味では、覚るは易しく、智慧を得ることとは努力が必要になります。そのような意味で、僧侶に限らず「生涯学生である自覚」が大切です。信仰心と教義は一緒であり、別の次元であると考えるのが適切です。お大師さまに近づくためには、祖師の著述を勉強することが正しい物差しをもつことになります。        (法主さまのお話を田川純照筆記)

 私(鈴之僧正)と、般若心経の関係は不離にあります。一日千巻の読経とか、毎日十枚の写経とか、如何なる出来事があっても物心が付いてから般若心経をおとなえしなかった日はありません。般若心経と十善戒は、私の生きる糧なのです。
 このようなことをして何があるか、なにが起きるか、どのような精神的な高揚があるか、それは皆さんが体験してください。きっと素晴らしい体験と前進があると保証します。

 人の心に、沢山の不必要なものが詰まっています。若し、心が無心になることができれば、多くの知識が頭に入るようになります。
 他人から受けた迫害、騙し、金銭的被害など、暴力も含めて、執拗に記憶したり、復讐を考えたり、立腹すると、記憶の容量が小さくなり、発展も拡張も期待できません。
 過去に拘泥するのは頭の損失です。恨みを忘れ、立腹しないことが大切。

 他人から恩義を受ける、多くは自分より年齢の多い方々で、恩義に報いたくとも亡くなっておられます。
 過去の色々な恩讐を忘れる、昼に受けた出来事も全部忘れることが如何に楽なことか、夜はグッスリと眠れます。不用なことは忘れ去るほうが新しい知識をより多く、無理なく記憶できます。
 今月、多分、私は満七十歳になります。経過年齢と体調年齢は異なります。
 携帯電話だって最新機種のムーバSo505iを使用しています。発売当日に貰いました。字が大きくて操作が易しいと思います。写真は発売当初ののデジカメよりは良いようです。
 パソコンはバイオに、百二十五ギガの外付け固定ディスクをつけて使用し、ノートとは五ギガの差込固定ディスクで、データの互換性をとっています。自慢しているのではありません。年齢を理由にして甘えないことが大切だと申し上げているのです。

 観音院の電算機は昨年交換したばかりですが、一年目で次機種の選定をしていて、ソフトの見直しなど、着々と進めています。費用も維持費も半額になり、性能は三倍か四倍、どうかすると十倍になると予想しています。
 観音院には所謂「大蔵経」と言われる書籍が何種類もあります。
 国訳大蔵経もあり、私が三十歳ころにはこれを読むことに没入し、約十年は経典の中に埋もれていました。
 真言宗関係のみならず、諸宗派の全集も多くあります。
 何時も思うことは、これらの仏教書を編纂した人たち、校正した人たち、印刷した人たち、しかも絶対に利益の出るはずも無い小部数の専門書、出版社の経営上のご苦労、どれをとっても命懸けの役割です。
 観音院の三十四本七段の書物。即ち大正新脩大蔵経初版本、再版。国訳大蔵経、国訳一切経、昭和新纂国訳大蔵経。新国訳大蔵経。大日本仏教全書。大日本続蔵経、南伝大蔵経、大日本仏教全書。国文東方仏教全書など。
 栂尾祥雲全集、大山公淳全集、弘法大師空海全集、弘法大師全集、真言宗全書、続真言宗全書、真言宗選書、弘法大師全書、密教大系、密教研究、密教大系、現代密教講座。その他に、国史大系、大乗仏典、禅の語録、真宗聖教全書、各宗派の仏教辞典類など、ウパニシャド全集やジャータカ全集など。何れも貴重文献で、外部持ち出し禁止の指定になっています。
 沢山の御本は読むためにあるのですが、生涯を掛けても一読不可能です。
 此処に掲げた書物は、欠本が一冊もありません。空調と湿度管理、防火設備など、最大限の注意を払って大切に管理しています。
 とても悲しいことは此処に掲げていない全集の中に持ち出されたまま紛失している本があります。何方が持ち出されたか記録に残っています。図書室に出入りできた勉強の好きな方ですが。ともあれ、古書店を探し、欠本となっているご本を常に探しています。
 これらの書籍は私の生涯そのもので、次代に大切に引き継ぎたいものです。

■私は全て所蔵する書籍の中にあり、その埒外のことは皆無です。そして将来もこの外に出ることは、絶対にあってはならないことです。仏教書籍とはいえ、全てが釈迦の教えではありません。

■多くの書籍は沢山の学者や熱心な僧侶の協力仏教徒の喜捨によるものです。経典が伝来するには、僧侶たちの生命が実際に失われ、多くの写経した人たちや印刷した人たちの協力がありました。

般若心経秘鍵は難し過ぎたようですね
良いという反響が少なくてがっかりです

 この月刊「観自在」を発行する都度、読まれた方から必ず反応があって、それを参考にして原稿を拵えているのですが、難解な教義よりは身近な体験を好まれる傾向があります。
 なるべく優しい内容の説明を心がけて来たのですが、観音院に来られれば幾らでも書物はありますので、難しいお話しは避けるようにします。

般若心経一巻読誦するに要する時間
早い人で三十三秒遅い人は五十五秒

 般若心経千巻の読経をお勧めしているのは、法悦(ほうえつ)があるからです。み仏さまの存在や慈悲などいろいろなことが実感できます。
 早い人で三十三秒と申しましたが、これは相当に慣れた方で、一巻一分くらいに、時間にして十時間くらい。巻数に拘らない方が良いと思います。
 一日五百巻くらいを目標にされると適切だと思います。
 で、論理的で無い体験が有っても、現実にご自分に起きたことですから、常識で否定されないことを願います。自身の宗教的体験は大切にして、感動のあまり周囲に話さないでください。
 話す相手は、同じ般若心経を五百巻読誦した人だけにしておいください。
 お四国八十八ヶ所霊場を巡拝してお唱えした般若心経を上回る読経ですから、きっと何か体験できます。
 毎朝勤行する人でも一年で三百六十五巻です。朝晩勤行される人の一年分を一日でするのですから、有り難いことになります。
 何はともあれ、不眠症なんて簡単に治ります。これは医学でも知られている普通のことで、どちらにせよ、富士山に登頂した人でないと、感想は共有できません。天候次第では、感想は大きく異なります。
 観音院という寺も同じでして、参詣くださらないと絶対に理解できないものがたくさんあります。
 東京に事務所を設け、道場を設え、常勤評議員を置き、担当責任役員や担当監事がいても、所詮はいまだ出先だと思うことがあります。
 六月の八日に得度式を執行しました。関東から三名、関西から三名、できれば、現地で得度をして上げる所存でしたが、常勤監事の設定で、広島本堂道場に於いての執行となりました。

僧侶の里親になってください
非常に大きな功徳を積むことに

 得度には一人あたり約十万円の費用が必用です。従来は得度費用は五万円と定めていましたが、私は「ようこそ」と、無料にすることを提案し、それを監事が了承してくだされた。
 宗教行事の執行だから、役員会事項ではありません。それでなくとも施入金のことはあまり考えたことが無いのですが、日次決算をしていますので、赤字、計理を公開してますので、帳票を見た人たちが心配しておられます。
 それでなくても少子化で僧侶が減少しつつあります。このままでは仏教が文化遺産になってしまうと思います。
 まあ、金銭のことを、お話するのは誠に変な成り行きになりました。この話はこれくらいで止めます。
 み仏が必要とされるなら、必要なものは地から湧いて出る、空から降って来ると、私は信じています。
 得度を受けて弟子になって、観音院の教えを広めてくださるのですから、得度等費用を希望者に負担させるのは間違いです。会社に例えれば新入社員から入社料を取り、課長になれば昇進料を納めさせる、こんな馬鹿げた習わしを、昨今まで不審を感じなかったことを恥かしく思います。
 戒名料は早くから無料にしました。死後とは言え、没後に僧侶にするのが葬儀ですから、仏教徒に正式になる人々から仏教徒であることの正式な名称を、金銭の対価を定めて販売してはならないと思っているのです。ともあれ宗教団体の常識は不可思議ですね。

■東京都の偉い人から電話がありました。宗教法人でホームページ上で貸借対照表や収支計算書を公開しているところは観音院だけだと大変に感心しておられました。当然のことなのですが。

■貨幣経済は、宗教を随分と腐敗させています。本来、宗教活動は財産が無くても、金銭が無くとも可能です。
移動するには乗物代が必要です。本当は歩けば良いので、宗教活動には何も不用。
仏教の劣化をどのようにして防ぐか
道は人によって説かれるが後継者は・・・

 パキスタンやイスラエルの争いはイスラムとユダヤ教との衝突と考えられなくもありません。スリランカの内戦はヒンドゥー教と仏教徒の衝突。ところでインドの大半はヒンドゥー教です。
 チベットは仏教、ミャンマーもタイも仏教国に数えられます。ユーロー圏やアメリカなどはキリスト教系、中国は閉鎖的団体や来世は公的に否定されている雰囲気です。韓国は儒教的といっても良いかも知れませんが、キリスト系も多いようです。
 日本は仏教では括(くく)れません。激しい争いはありませんし、各派とも共存共栄に、神道もキリスト教も入り混じっているようです。
 観音院は、来られる人に宗教は問いません。喉が渇いている人には水を差し上げることが大切です。困っておられる人、苦しんでいる人たちには苦悩を救うことが大切と考えています。
 宗教の目的は、苦悩する人を救済することが一番で、信徒にしようとか、信徒にするために何かをするとしたら、それはもう宗教というより商いに近いのではないかと考えています。
 宗教団体はお金で人を救うと際限がありませんので、禁止事項です。
 お金の運用も禁止事項です。借り入れも絶対禁止事項です。要は債鬼に追われたり、債鬼になったりしてはいけないので当然の規定です。博打に類することも厳禁事項です。それは寺の会計であろうと、僧侶の財布の中身であろうと元々が浄財だからです。
 私の財布の中にあるお金は例え源泉徴収後であっても、お寺のお金を預かっていると考えて、使途は最低限の身体を支える費用、残りは全部、寺か信徒さんのために使います。例外はありません。貨幣経済の世の中で、お寺をお預かりすることは真に難しいことです。
 私は、僧侶を真面目にやっている所存ですから、本当に私的なものは一切不用です。
 観音院は信徒さんのものです。お預かりしている立場としてはお寺の財務状況を良くしないまでも、悪くするのも、変なことになります。
 信徒どころか世間一般に対しても観音院の財務諸表は公開しておきます。
 説明義務を果した上で、その先がどのようになろうと私の知ったことではありません。
 寺は皆さんのものですから、大切にするなり、粗末にするなり、皆さんが協議されて売り払われて皆さんで分けて、僧侶は追い出しても構いません。そのようなことにいちいち関わっていたら、心の平静と寺の静謐(せいひつ)が保てません。
 観音院のシステムでは、三万円以上のお金を支出する時は監事の承認が必要です。三万円以下であっても後日、速やかに監事の承認が必要です。
 私に、プライバシーは認めていません。出かける時は、役職員か家族が同行して1メートルたりとも離れてはならないのです。役職員は、私の言葉に間違ったところがあれば、その場で即時に訂正が認められ、間違いあれば制止し、役職員の言葉に従わない時は、監事一人で役員会を招集することができ、もし非違あればこの月刊「観自在」の紙上に掲載することが保障されています。個人が所有している金銭の収支についても監事は検査する権限が与えられています。
 その代償として私に何が与えられているか、全ての私に関する出来事は役職員の責任で、私には一切の責任が無いと保障されているのです。
 ただし、法律の問題は別、私がもし悪事を働いて、警察に逮捕されるような場合は、私は追放処分になります。
 本当のことをあっさり言えば、寺から追放されようが、このまま寺にいるか、そのような事に私は微塵も拘泥してはいません。
 本来無一物、この世で願うことは、仏教の興隆だけです。私に住処や寺など何から何まで、制限無しに私が所有しているものはありません。お弟子さんは大変だと思います。

■私の健康は、医師の責任では無くて、私自身の問題です。私が、何を食するか、食事を作る人の勝手です。何を着ようと、どんな道具をを使おうと、与えられた物で十分です。生活は皆さん次第です。

■所有権は、私は何ものにも及ぼしません。私の物は一切有りません。プライバシーは入浴と排泄と睡眠。それも、侵されても構いません。一緒に風呂に入りたい、排泄したい・・・、願うならお好きに・・・。

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