「アラカン」さん

ご隠居 きょうは少し羅漢さんのことについて話してみようか。
    羅漢(らかん)、正確にいうと阿羅漢(あらかん)といい、応供(おうぐ
    =尊敬され供養を受けるに相応しい聖者という意味)、殺賊(せつぞく=
    煩悩という賊を殺すという意味)、不生(涅槃に入って迷いの世に生れな
    いという意味)などと訳されることもあるそうだ。
    ところで寅さんは嵐寛十郎という人を知っているか?

寅さん なんだか聞いたことのある名前ですが・・。

ご隠居 戦前から戦後にかけて活躍した時代劇映画の大スターだ。
    「右門捕物帳」のむっつり右門や「日露戦争と明治大帝」の明治天皇など
    いろいろな映画に出演したが、嵐寛十郎の代表作品はなんといっても「鞍
    馬天狗」で、いちばんこれがファンを熱狂させた。

    ちょっとばかり長い顔を黒布で覆面し、勤皇(きんのう)の志士が新撰組
    の襲撃を受けて絶体絶命の大ピンチ・・そのとき鞍馬天狗が颯爽として登
    場する。疾駆(しっく)する馬にまたがり風を起こして勤皇の志士の助け
    に向かうわけだ。すると場内の観客から期せずして拍手が起こる。

寅さん 映画館でですか?

ご隠居 そのように怪訝な顔をせずともよい。今とちがって当時の人々は映像ズレ
    してなかったから映画のなかの出来事を我がことのように一喜一憂してい
    たわけだ。
    ましてこれからすぐ胸のすくような鞍馬天狗のチャンバラが始まるのだか
    ら、おもわず皆んなして拍手をおくる。

寅さん ふーん、そんなもんですかねえ。で、それからどうなりました?

ご隠居 どうもしない。鞍馬天狗の活躍により、すべて事がうまく解決し、その大
    団円で、嵐寛十郎が自分自身に言い聞かすように子役に呟いて、おしまい
    だ。
    「杉作、日本の夜明けは近いぞ」

寅さん ・・?

ご隠居 話を最初に戻すと、この嵐寛十郎の名前をつづめれば、聖僧「阿羅漢」に
    通じるとして、当時の映画ファンは親しみをこめて嵐寛十郎のことを
    「アラカン」と愛称した、と、こういうわけだ。
小乗仏教(しょうじょうぶっきょう)

寅さん そもそも阿羅漢とはどなたのことですか?

ご隠居 阿羅漢は、特定した個人を指すものではない。寅さんは、ビンズルさんを
    知っているか?

寅さん ええ、その像をなでると病気が治るという・・。

ご隠居 そうだ。その賓頭盧(びんずる)が、いわゆる十六羅漢の第一で、声聞(
    しょうもん)四果のうちの最高位に達した阿羅漢であるとされる。

寅さん へえ、阿羅漢は偉いんだ。

ご隠居 そのとおり、ただの凡人ではない。ただし、大乗佛教では声聞四果の
    沙門果を究極とし、それに安住する者を小乗の徒として縁覚(えんがく)
    とともに、これらをあまり評価していなかった。

寅さん 大乗はなぜ小乗をそんなに低くみたのでしょうか?

ご隠居 声聞乗、縁覚乗(辟支仏乗、独覚乗ともいう)、菩薩乗の三を「三乗」と
    いい、この「乗」とは衆生を悟りの彼岸に運載するといった意味合いで、
    それぞれ、阿羅漢果、縁覚果、仏果の菩提(悟り)を得るための教えや、
    その実践方法であるとされている。

    そしてそのいずれも、仏、菩薩の偉大さを認め、煩悩を断じて、涅槃を証
    するということについては三者ともに異なりはしない、とするが、声聞乗
    を小乗、縁覚乗を中乗菩薩乗を大乗とし、あるいはまた声聞、縁覚乗を
    小乗、菩薩乗を大乗とする大乗佛教の立場からすれば、声聞乗と縁覚乗は
    他の救済を為さず、自分一人だけの小さな悟りをめざしそれで満足してい
    るような、やや劣った教えではないか、としていた。

    つまり小乗は仏としての悟りではなく、その弟子としての小さな悟りしか
    求めていないのではないか、というのだ。

    声聞の悟りは一人無為(活動のない寂滅の境地)に入って、こと足れりと
    し、仏の菩提(悟り)を求めようとしない。それはあたかも乾燥した高原
    に蓮華(ハス)が生じないようなもので、蓮華(仏の菩提)は、この汚れ
    た泥沼の世界に生じるからである(維摩経)。

無余涅槃(むよねはん)

寅さん 活動しない寂滅の境地とは何のことです?

ご隠居 いわゆる涅槃のことだ。
    涅槃の原義は「吹き消された状態」を意味し、滅度(めつど)とも訳され
    煩悩の火を滅した悟りの境地をあらわしている。
    したがって、涅槃とはほんらい覚者となること(成道・解脱)であるが、
    覚者の死をさして般涅槃(はつねはん)ともいうそうだ。
    また、煩悩の残余のある涅槃を有余(うよ)涅槃といい、煩悩の残余のな
    い涅槃を無余涅槃とする。

    「涅槃」は必ずしも死を意味しないが、のちに「余」とは肉体を指すもの
    と考えられるようになり、無余涅槃も覚者の死を意味するようになった。
    涅槃像といえば、私たちがすぐに釈尊入滅のさいの画像をおもい描くよう
    にだ。

    そして大乗佛教では、この涅槃をより積極的にとらえて、涅槃とは、常住
    なる法身(ほっしん)を獲得することと解釈を拡大し、さらにまた、すで
    に煩悩を脱していながら、衆生 済度 救済のためにこの迷いの世界にとど
    まるという「無住処涅槃」といった考え方が出てきた。

    大乗がこの無住処涅槃を理想とするのに対して、阿羅漢は、煩悩を断じた
    のち、心身ともに空寂無為の無余涅槃界に帰入し去ることを最終目的とし
    ているから、我ひと共に完成することを目指す仏の悟りとは大きなへだた
    りがある、というのだ。

    たとえば、三人の者が悪道を渡ろうとするとき、声聞(しょうもん)は自
    分ひとり脱することのみ考えて他を顧みる余裕をもたない。
    縁覚(えんがく)は銭を払って遁(のが)れるようなものであり、
    菩薩(ぼさつ)は大軍を率いて賊をこらしめ、他のすべての人々を
    利益(りやく)するようなものである、と。

寅さん どうも羅漢さんの旗色がよくありませんね。

ご隠居 むろん羅漢側も黙って腕を拱(こまね)いてはいない。
    「羅漢講式」の式文にこうある。

    「それ仏、枸尸那城(クシナガラ)、沙羅林の間に於いて円寂に帰したま
    うの時、賓頭盧等の十六羅漢を召して、摩頂(まちょう・頭を撫でる)し
    てのたまわく、我が無上の正法をもって汝等に付嘱(依頼)す。我が滅後
    弥勒以前に涅槃に入らずしてまさに我が法を興こし、衆生を利益すべし」

    かくして十六の羅漢、五百羅漢は釈尊の言いつけどおり、涅槃に入ること
    なく世間に現住し、種々の方便(ほうべん)をもって衆生を
    化益(けやく)し、仏法を護持(ごじ)されているという。

羅漢尊者の応験(おうげん)

 晉の沙門康法朗は、天竺(てんじく)に法を求めるため、おなじ求法(ぐほう)仲間の三人と連れだって西域へ向かった。
 音に名高い流砂川を過ぎ、千余里(当時の中国の一里は約六百メートル)ほど行ったところに、見る影もなく崩れ落ちた仏塔があった。あたりは一面雑草と岩だけの荒涼とした眺めがひろがっている。

 ふと見ると、岩影に人目を避けるようにしてみすぼらしい僧房が建っていた。人に遇(あ)うのもきわめて稀(まれ)な長旅をつづけて、それでなくとも、人恋しい法朗らであったから、彼らは躊躇なく僧房の戸を叩いた。

 僧房には二人の僧がいた。
 一人は読経していた。そして、もう一人のほうはその隣室で、腹下しでもしているのか、汚穢(おえ)にまみれて身体を横たえていた。それはそれとして、奇異なことに、読経の僧は、そうした病僧のことなど、まるで眼中にないかのように、素知らぬふりをしていることである。

 法朗らは、そのような状態をそのまま見過ごしにして出立するにしのびがたく、しばらくのあいだ僧房に逗留することとした。
 粥を煮て病僧に与え、汚れた衣服を洗濯し、室内を掃除して六日ほど過ぎたが、僧の病は日増しにつのるばかりで、下痢がつづいた。
 「看病」は八福田(ふくでん・田が作物を生育するごとく、仏に供養すると福徳がうまれる)のうちの、随一であることを、よくわきまえている法朗らは誠心誠意、介護につとめたが、病は重くなるばかりである。
「このぶんでは、残念ながら、彼はとても明朝までは保(も)たないかもしれないな」
と、法朗たちは顔を見合わせて、囁きあった。

 そして、その翌朝である。昨晩が生死のやま、と誰もがひとしくみていた病僧の様子が一変し、別人のごとくにあらたまっていたのだ。顔の色つやもよく、身のこなしもきびきびとしていて、健康そのものなのだ。室内の汚物に見えていたものも、すべて花や果実に変貌している。

 これはいったいどうしたことか。
 あまりの激変ぶりに、法朗らはしばらく呆然として立ち尽くした
「おい見たか、みんな。これはおそらく、羅漢聖僧が、われわれの求法心がどれぐらいのものなのか、お試しになったのにちがいない」
と、ひそひそ話していると、昨日まで病に苦しんでいた僧が言った。
「いろいろ貴僧たちには面倒をかけて誠に申し訳ありませんでした。
 ご存じあるまいが、読経三昧の隣室の僧は、じつは私の師の僧でして、得道してすでに久しい聖僧であります。せっかくですから、貴方がたも正式にご挨拶されてはいかがでしょうか」

 これを聞いた法朗ら四人は、顔を真っ赤に染めて恥じ入った。
 僧房に滞在した六日間、病僧の苦しみを見て見ぬふりで、手のひとつも貸そうとしなかった老僧の非道ぶりに、仏門の風上にもおけぬ、見下げはてた奴め、と内心で嘲罵(ちょうば)し軽蔑していただけに、浅はかな自分たちの凡慮が恥ずかしかったのである。

 法朗らはおずおずと隣室へ向かい、老僧の前に出て、懺悔(さんげ)作礼(さらい)すると、老僧が莞爾(かんじ=にっこり微笑む)破顔(はがん=顔をほころばせて笑う)して言った。
「諸子、至誠なり。同じ道に入るべし」と。
 そして僧房の二僧はかき消すごとく姿を没した。
 これは羅漢僧の世に現住する証跡の一つであるとする。
       (太平広記より)

旅中の法顕(ほっけん)三蔵

 法顕三蔵法師が仏法を求めて、はるばる天竺(てんじく)におもむき、処々方々を遍歴されていたときのことである。

{法顕(西暦三三七-四二二年)東晋。山西省の人。インドに行き、数多くの仏典を中国へ持ち帰った。
その紀行文(「仏国記」または、「法顕伝」ともいう)は、中央アジア・インドに関する貴重な史料とされている}

 旅の途次のある日、法顕三蔵は見るからに由緒ありげな寺院をみつけて一夜の宿を請うた。
 老僧が出てきて丁重に招じ入れられ、その夜はその寺でゆっくり旅に疲れた身体をやすめることができた。

 ところが、翌朝になって起床しようとすると、身体の調子がどうもおもわしくない。起き上がれないまま法顕三蔵は、その日一にちその寺に寝ついてしまった。
 そんな旅僧の病状を心配した寺の和尚が、年若い沙弥(しゃみ・仏門にはいって得度し、まだ具足戒を受けていない小僧)を呼んで言いつけた。
「昨日当寺に投宿した求法僧は、遠い異国からやって来た御仁だから、おそらくこの辺の土地の食べ物が口に合わなくて病を発したのであろう。
 そこでご苦労だが、お前はこれからあの僧の本国まで出向いて行き、彼がふだん食べなじんでいる斎食を求めてきてはくれぬか」
 距離感というものをまったく無視した破天荒な師僧(しそう)の言いつけを沙弥は、まるで隣町までの用足しを頼まれたような顔をして、「承知いたしました」と、こともなげに気安く請け負い、すぐ座を立って行った。

 とおもうまもなく、くだんの沙弥が、須臾(しゅゆ・すこしのあいだ)にして帰ってきた。ただ、沙弥は向こうに着いた際、犬に脚を噛みつかれたと、脛(すね)にすこし血を流していた。
「お申しつけのとおり、かの国の彭城の街の呉蒼鷹という者の家を訪ね、食物を求めて参りました」
 こうして法顕三蔵は、故郷から沙弥が運んできた懐かしい食べ物のおかげで、すっかり病が癒えたのであった。

 それにしても、須臾の間に数万里の距離を往復した沙弥といい、そしてそれを平然と命じた和尚といい、人間の有する能力の限界を度外視している。この人たちはおそらく並みの人ではあるまい、と法顕三蔵は深く感ずるところがあったのであった。

 天竺歴訪の旅を終えて帰国した法顕三蔵が、呉蒼鷹の家を訪ねたときのことである。
 異境の旅先に病んで難儀したさいのことに話がおよんだ。
「その節はたいそうお世話になりました」と、呉蒼鷹にあらためて感謝し、家人に送られて玄関を出、ふと門前をみると犬に噛まれたという沙弥の血の痕があった。

 法顕三蔵は賛嘆した。「ああ、これこそ羅漢聖僧の血にちがいない。あのときあの沙弥は私のために、食を求めにこの家を訪れ犬に咬まれたと言っていた」と。
 その話を聞いた呉蒼鷹はただちに自宅を寺に改築し、長く三宝を供養したという。
    (晉文雑録)

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