寺は世間に迷惑を掛けるようなことが有れば、存在する意味が無い。
法主さんの強い信念です。ですから軽々しく寄付金を集めるような話はしてはなりません。
観音院は世のため人のために尽くして存在するべきかと、いつも寺の在り方について点検しておられます。
このお考えは、時として周囲の人と深刻な軋轢を生む事もあります。それを克服して観音院の今日が有る訳です。
禁煙は四十年くらい昔に全館禁煙になされました。禁酒も同様です。
煙草農家の知り合いもおられました。専売公社の信徒もおられました。
喫煙経験があると、み佛さまにお供えする伽羅木の匂いすら強い喫煙願望が起きるといいます。ですから沈香くらいが丁度良いのかも知れません。
お酒は、喫煙より害悪があります。酔う事は判断力に影響を与えます。
多く飲むと胃腸も肝臓も痛めます。法主さんが一滴も飲まれないのは酒の怖さを知っておられるからです。
法主さんの禁酒禁煙は必ずしも厳格なものではなく、禁煙しようとして、失敗される人や、禁酒していて、つい一杯というような例は、有りがちな事として強く同情しておられます。
禁煙禁酒は、先ず「決心」しないと不可能です。その上での失敗は、皆さんもよくご存知のように当然あります。「み佛の道」にも「菩提心を起こす」ことが大切とされています。
「やる気」の有無が、将来を左右します。やる気が無いと禁酒禁煙も成功しない。
今般、法主さんが門番をされると言われてますが、可能か不可能かは別として皆さまには、法主さんの気持ちをくんで上げてください。
法主さんの考えは、挨拶でも相談でも、何でも会いたいという人を、現在の奥の院にいては億劫になりがちだから、山門に起居しようと考えておられるだけで、自然な発想です。
これには職員全てが賛成とは言いかねます。法主さんにしてみれば、大事にされるあまり、現在のように囲って置くことは塵芥扱いだと言われます。
心配しなくても、実行すれば、相当過酷なことになりますから。何時まで続くか不明というのが法主さんの思われようです。
ずっとすると確約した訳では無いが試みてみるのが、法主さんの思考回路だと思います。
▼一日三座の法要も、毎月第一日曜日の大般若転読法要も、起承転結の「起」が有って始まったことです。
「縁起」の「起が大切」と思われているようです。
やってみなければ結果は分からない、始めて見なければ結果も終わりも無いと考えられているようです。
生まれてきたから死ぬる。単純と言えば単純です。背が伸びて大人になる。仕事を立派にする。仕事も必ず無くなります。何事にも起承転結はあります。
平家物語の冒頭に
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響き
あり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰
の理をあらはす おごれる人も久し
からず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ ひとへ
に風の前の塵に同じ
これは、法主さんが観音院住職を引退する時の挨拶に引用されました。満五十二歳の引退ですから、周囲も大変に驚きました。そして現在七十七歳。
在職中に創刊された月刊「観自在」も三百六十六号になりました。毎月、「鈴の法話」を連載して下さり、膨大の量のテキストが保存されています。
何かの困難に遭遇した場合に、「鈴の法話」のテキストを読まれれば、どのように生きるか、物事の「解決の手がかり」が得られます。
法主さんが山門を起居の場所とされる事について、反論はありません。
法主さんの再起にあたります。長生きされて観音院が世のため人のために尽くせる寺として、より良く機能することが考えられます。
最近、法主さんに「これからどうなるか」という皆さんからの質問が目立って多くなりました。
四分の三世紀を生きて来られた法主さんが、現在のような日本や米国の金融緩和は考えられないと言われます。
温暖化についても、今まで経験した事のない傾向で、将来について見当が付かないと言われます。
死にたいという相談も増えました。屁理屈をこねあげて、死にたいという相手が同意出来ない事を掲げて相談に乗る事を強要する傾向もあります。
慈悲を強要されては、思いやりも、いたわりも、慈しみ、相手の立場で考えることなんて、到底不可能な状態になりつつあります。
法主さんは、観音院の住職を五十二歳で引退されました。ですから執着は持たれない傾向です。
法主さんも、住職さんも、何事に対しても執着は持たれていないようです。面倒だから、一からやり直そうかと、話し合っておられます。お二方も、枠(わく)に嵌(は)めないのが肝要かも知れません。