先着50名さまに飛び観音マーク入り面ポロシャツを差し上げます。発表は送付をもって代えさせていただきます。デザイン、転写・焼き付けは全部ご奉仕の方々と寺の職員が行いました。LまたはM寸各25枚ほど作成しました。
観自在を受け取られて即日応募されても、間に合うか否か不明です。枚数に達ししだい締め切りになります。
ご要望が50枚を超えた場合はご容赦下さい。間に合った方は幸運な方です。問い合わせには電話が殺到しますので対応出来ません。
飛び観音ロゴは綿シャツのような素材にはアイロンの強で簡単に転写できます。機会がありましたらまた作成いたします。
何時も感じることですが、プレゼントはいただいた物をお分けしたり、法主さんが貯金をして何か適当な物を買って来られたりして充当しています。どのような方法にしても不公平で難しく思います。
加えてご自分が寺のために使われるパソコンなどは趣味嗜好もあるのでと自己負担されます。
妻子がいると、その生活費も必要で、僧侶が妻帯すると苦労が社会人とは異なった意味で複雑だと言われています。その上、職員や奉仕で来て下さる方々の食費も負担しておられます。
観音院には職務公正執行供託金と言う勘定科目があって、万一、源泉徴収などで、税務署と見解が異なる経費処理がなされている場合は、指摘された金額の倍額が自動的に寺の雑収入として振り替えられます。この制度は寺の会計処理の安全性を保証するものとして 極めて理想的なものですが、原資は法主さまが出されたものです。
最近、企業のトップの倫理崩壊が良く話題になっていますが、法主さんは住職を譲られるに当たり将来の会計も明朗であることを願われて、このような制度を設けられたのです。
合わせて、観音院の監事は寺の運営に極めて強大な権限が付与されていて、物品購入の契約や、収支について認否する権限や、法主さんや住職さんの発言について訂正する権限があります。
監事は寺の会計検査を随時行うことが認められています。法主さんが外出される時は役員または監事の同行が義務付けられていて、自由に外出されることは無理です。
所在が不明のことは絶対にありえません。車両も全て運用が伝票で保存されていて、公私混同は無いよう配慮が行き届き、加えて自己負担の車両が二台、法主さんと住職さんから提供されています。
燈籠供養を考える
燈籠は奈良時代から寺の照明として使われ、後に神社や民家でも使われるようになりました。灯籠流しは各地で行われるようになりました。
広島では原爆投下の犠牲者追悼の灯籠流しが有名です。
灯籠流しには精霊を送るという意味と精霊に灯明を届けるという意味の二つがあります。燈籠の燈と灯は同じ字です。籠と篭は同じ字でどちらも「とうろう」と読みます。佛と仏と同じです。
観自在では文書によって、話されたり書かれた人の使われた漢字を統一せずに使用してきました。ところが法主さんがしばしば両方を混用されますので困っています。
新聞の用字用語に従うのが一番楽ですし、広辞苑などに準拠しようかとも考えています。
ところで、最近「今昔文字鏡」(こんじゃくもじきょう)というパソコンソフトが開発され、漢字はおそらく網羅していて9万字、甲骨文字から梵字まで収録してあるものが発売され、所謂旧漢字を大切にする運動もありまして、これが無いと般若心経も写経出来ないくらい仏教徒にとっては大変というか有り難いというか、という便利な時代になっています。
佛陀と仏陀とどちらが有り難いかという問題でもあります。法主さまのパソコンは「みほとけ」と入力すれば「御佛様」と変換されます。
法主さんはガングロも超ミニも茶髪も金髪も、鼻ピアスも全く気にされません。若い人が沢山参詣されることを喜んでおられます。
十善戒や八正道の話を喜んで聞いてくれる人なら誰でも大歓迎と思っておられるようです。
ところで、週刊誌のグラビアに印刷されるようなファッションの最先端を行くような女性が燈籠奉納を申し出られて「亡き母親の供養のために」と言っておられました。供養の意味について「お燈籠を上げると、観音院にお参りする度に母親に会えるような気持ちがするだろうと思われて」とのことです。同時に燈籠の中には何ワットの電球が入れてあるのかと尋ねられ、燈籠用の電球を30個もお供えされました。この原稿はその方の校閲を得たものです。
観自在を読まれて、色々考えてなされたと伺いました。
仏教が衰微して行きつつあると痛感している中で、最近、観音院に参詣される若い人たちが着実に増えているのは嬉しいことです。
燈籠を供養する。供養という意味は三宝(仏・法・僧)または死者の霊に供物を捧げること。追善供養・施餓鬼供養・開眼供養などさまざまな種類があります。
目標を掲げて、願望を成就することを誓い、御佛様のご加護を願われて燈籠を供養される方も少なくありません。
皆様の尊いご喜捨が仏法を広めることに役立ち、観音院が永く灯明を灯し続けられるよう機能することを願って止みません。
毎日、なぜ熱心に朝十時、正午十二時、午後二時の法要を続けて執行するのか、大変に難しいことです執行してみて初めて理解出来ることで、燈籠供養も同じように思っている次第です。