四月から、東京に、僧侶養成の道場を設置しました。とても広く、
六畳の部屋が三つ、冷暖房は完備しています。
御仏さまをおまつりした十六畳の道場と、六畳の和室があります。
入り口に流行のモニターカメラがあり、インターホンの呼び出し
ボタンがあり、部屋のモニターテレビに来客の姿が見え、声が聞こえ
ます。内側から解除スイッチを押さないと、ビルに入ることが出来ま
せん。此処と広島の観音院の間は、最新式のテレビ会議システムで
結ばれていて、毎日の法要が中継される設備が設置されています。
東京とは思えない静かな場所で、ビルの真裏に都立の墨東総合病院
もあります。一床で隣室はありません。
(法主さまのお話を田川純照が筆記しました)
場所は錦糸町、東京駅から総武線で三つめ、降りて南口に出て、
左の楽天地ビルに沿って左に行き、画材屋さんの所で道路を横断、
道路に沿って百mも歩くと「エクセルシオール」というビル、この
ビルの十二階で、徒歩五分、交通至便なところに東京事務所はあり
ます。
此処には、大日如来さま、お不動さまとお大師さまがおまつりし
てあります。三十七インチのテレビ会議システムのモニターが一緒
に置いてあります。
簡単に説明すると、東京事務所の道場と広島の観音院で、同時
進行で、法要にも会えるし、会話もできます。
東京でもご相談に乗れるし、供養も祈願も可能になります。
東京だけでも、最低六十人くらいの僧伽(そうが・サンガ)、
和合衆「わごうしゅう」、仏教の修行僧の集まりができようとして
いるのです。
現在でも、観音院には百八十人を超える僧侶がおられ、広島近辺
だけなら、これで良いのですが、信徒さんは東京から関東に増加さ
れる傾向があり、きめ細やかなお世話をさせて頂くのにこのままで
は、善いことではありません。
現在の世の中についていろいろな見方をされる方がありますが、
僧侶の絶対数が足りないから、先には団塊の世代の葬祭に、さらに
僧侶の絶対数が足りなくなる、そこに僧侶を養成しておけば、葬儀
の心配も少なくなると言われる方々もあります。
日本の人材という面でもこの不況下、実際に能力技能を生かそう
と思っても、再就職が難しい方々のために、僧侶としての受け皿も
用意しておいて、社会のお役に立ちたいと念願します。
しかし、お坊さんになりたいと言われても、坊さんにもいろいろ
ありまして、寺に生まれて跡継ぎの住職を目指して僧侶になる人、
一般の家庭に生まれ僧侶を志す人。
老後の仕事として、お坊さんになって「世のため人のために尽く
そうか」と言う人。仏教に心ひかれて本格的に学びたいと思ってい
る人。仏教によって修養して人格の向上を願う人・・・。
しかし、お坊さんになれば、多少は恰好良いし、就職難のおりか
ら、一般よりは高い収入で生活が安定するとお考えの方があれば、
原則対象外です。
僧侶の資格は、奉仕の精神と自己の研鑽が一番大切な要素です。
■僧侶も尼僧も、どちらでも受け入れます。ただ、現在、子供さん
の養育などが負担になっておられる方は、無理が生じますので、
ご再考ください。
僧侶(以下尼僧も含めて)は現世を何とか良い方向に導きたいと
願う使命感が大切です。
生活費の心配や家のローンをどうして払おうかと考えておられる
状態では、折角、僧侶になられても、他人の救済どころではありま
せん。
また、他人のお世話を十分にするには若干の資産と健康が大切な
条件です。
■正座は辛いですが、半跏坐(はんかざ・菩薩座)は、片足を他の
足の股(もも)の上に組んで座ることです。法衣の上からは、楽な
「あぐら」であっても、見分けは付きません。
◆苦行は、したい方が、各自が滝に打たれるなり、峻険な山に登ら
れるなりすれば良いことです。長続きしない事はお勧めしません。
心の在り方が、より大切なのです。大切なのは慈悲です。
■一応の修行はして頂きますが、苦行は除いてあります。
正座が出来ると良いのですが、あぐらがかければ大丈夫です。
法要は椅子式が大半ですし、法要の大半は椅子式になっている
のが現代的。
■あぐらを組むような座りかたを半跏趺坐(はんかふざ)といって
結跏趺坐(けっかふざ)の略式ですが、大丈夫です、
足を痺れさすことは、現代の人たちとって修行にはなりません。
精神を磨くことが大切です。
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2003-04-2
お坊さんになるのは簡単、面接を受けて
得度を済ませばその日からお坊さんになれる
お坊さんにもピンからキリまであって、読経が無理でも、金襴の
法衣を着せて、他に合わせて、口をもぐもぐしていれば、それでも
一人前、俗に馬子にも衣装という諺があって、勿論そのようないい
加減なことは致しません。
東京と観音院の道場をテレビでつないで、一日三座の法要に参加
してもらいます。一年壱千九拾五座、読経はここまですれば十分で
す。とりあえずは五百座を目指して頑張ってください。
その間に法衣を着たり、脱いで畳んだり、僧侶の日常の作法が身
に付きます。
拝まない僧侶は、形式だけのピンキリのキリの僧侶になれます。
この期間に、梵字の書き方や「阿字観」の実践など、教義について
も学んでもらいます。
供養の仕方、葬儀の執行など趣味ではなかなかできません。
これらの過程は、時間差こそあれ、必ず身に着けてもらいます。
修行の入り口を四度伽行(しどけぎょう)と言います。高卒以上で
あれば誰でもやれるようになっています。
さて、このようにして僧侶となっても、直ちに僧侶として専念す
ることは不可能です。
しばしば、山寺の仏前で心静かに読経でもしたいと言われます。
山寺でも、廃寺寸前でも、法的な役員が居て、只ではお寺はもらえ
ません。
最初に、先ずは「心の中に寺を建て、慈悲深い灯明を点して頂く」
ことをお願いしましたが、仏前で読経のみ行っていては一ヶ月もす
ればミイラになってしまいます。み仏さまは決して食事を恵んでく
ださることはありません。
汚辱に塗(まみ)れた現世を逃れてと考えられたら、大変な誤解
です。僧侶になる以前にも増して努力し、良い人間関係をを熟成す
ることが必要になります。
■私は、以前に、頼まれて二寺の住職を兼務した経験がありますが、
寺は世襲で継ぐか、自分で建てるしか、住職になられても、上手に
運営はできません。
僧侶の望ましい資質とは。
吝嗇(りんしょく・ケチ)な性格は考えものです
■お坊さんになる人として、好ましい性格は、社会人としても立派
に仕事をなされた人です。
「僧侶の世界に逃避しようとするご希望の人」は、絶対に僧侶に
向きません。
◆世間の喧騒から逃げ出さずに、そのただなかで、どのようにすれ
ば良い世の中が創れるか、考えて、実行出来るような創造的人材が
必要とされます。
■現在の多くのお寺さんは、社会常識の外にあります。市場原理と
いうことも、寺院が果たすべき役割も、暗中模索でおられる場合が
多いようで、この仏教界に、世間の皆さんの新しい血を入れて、
寺は如何にあるべきか考えてくださる組織を作りたいと願っていま
す。大変に困難なことを考えています。
■経理と運営は完全公開でないと、どこかで情報開示出来ない部分
が生じてきます。説明義務が理解できない集団は、守秘義務の範囲
も理解出来ません。
◆宗教団体には個人秘に属する部分が(懺悔や悩み事など僧侶として
職務上に知り得たことなど)があって、国会でも裁判でも証言が拒否
出来る強い「守秘義務」が保障されています。
◆運営の公開は、帳票から損益計算書、貸借対照表はもちろんのこ
と、上場企業や金融機関以上の完璧な、まるで経理の神様が記帳し
たようなものを拵えます。観音院は日時決算をしています。
◆日常の几帳面さが大切で、それほど大したことではありません。
観音院では現在の常勤監事が厳しく日々監査をしています。慣れれ
ば当然です。常勤監事が三名いまして、大きな権限を持っていて、
独立して役員会を招集し、その役員会では議長となって役員の適正
でない業務の執行があれば、「これを糺す」制度があります。
会計基準は厳格で、例え真実の証明があっても、領収書の提示が
三日も遅れると、会計は支出してくれません。
■私は、夜は比較的に早く横になります。これといった心配事は
ありません。観音院という所属する寺院に立ち入り禁止の場所
が無く、買い掛けは一切無くて、短期も長期も借り入れは無く、
全部現金払いです。
■お坊さんは、本来は資産を持たず、金銭の貸借をすれば失格し
ます。失格者を出さずに今日まで来れたことは大変に善いこと
です。これから先も皆さんで、経済状態で一喜一憂しない寺を
維持してください。
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鈴の法話 2003-04-3
直ぐに立腹する人や奉仕の精神が無い人は駄目
僧侶集団の中では和合が第一、話し合いで運営を
立腹するのは、判断力が足りないか、仏縁が有るか、無いかで
考えています。
腹を立てるのは、寛容さが足りないか、物事が自分の思うよう
にならないからです。何処かに無理があります。
自分の日常、身の回りのことは出来うる限り自分でする習慣が、
お坊さんには必要になります。
しばしば、僧侶は、不謹慎、傲慢、横柄など、堕落し、魔が差し
易い立場にあります。常に自分を見詰めないと、僧侶の日常は危険
に満ちています。
どのような立場になろうとも、慎みとか謙虚さ、出来れば「無欲」
になれると良いと思います。
日常的なことがら、便所掃除から洗濯、身の回りの整理等、修繕
や大工仕事など、どんな作業でも、喜んで感謝してすることが大切
です。
例えば、僧侶は食事後に洗い物を流しや調理場に放置するような
ことはしてはなりません。世間では奥さんがしてくださるようです
が、私たちは完璧な男女平等の考え方を持っています。
女性蔑視観や民族差別観、特権意識を持っている人は、それを
無くすよう努力してください。
お坊さんは職業というより、「覚り」を目指して精神修行をする
グループ(僧伽)の一員になると考えてください。
*僧伽は、梵語のサンガといい、和合衆、「僧侶」の原語からきて
いる仏教用語です。
修行しつつ、皆さんがもっておられる技術能力を社会に提供する
奉仕活動も出来ます、例えば日本語以外の言語が使える人は、これ
からは特に望ましいと思われます。僧侶は、社会で身に付けられた
能力が布教にとても役立ちます。
読経だけ、葬儀だけでは「世間から□□坊主」と言われるのは、
当然です。
「お坊さん」といえば大層に聞こえますが、仏教徒は死ねば全部
「没後作僧(ぼつごさそう)」といって、お坊さんにされるのです
が、皆さんご存知ない。
生きている内にお坊さんになろうかと考える方が、本来あるべき
姿です。極楽は現世でこしらえて、あの世に持参すべきです。納得
するためには、私と会って観察されると良いですね。
◆授業料は得度入門支具料が五万円だけで、その後の費用は無料で
す。「法衣」等は各自、実費でそろえていただいております。
お坊さんが出来上がるまでは、個人差があって、短い人で半年、
自信の無い人も一年あれば大丈夫です。
修行には本来、際限がありません、ご自分で納得されるまで修行
はなさってください。
ご自身に「不安や心配が無く、迷いが無くなって、真実を覚る」
までには、生涯をかけても叶わぬ人もあり、その過程があり、
短期間で「覚りの境地」に達する方もおられたり、永い付き合いに
なります。
◆なにかと指導的な考え方を持たれるようになれば、今度は世間の
救済とか後輩の指導という立場があります。
僧侶には、検定試験はありません。途中で投げ出さない限り、
百%観音院の僧籍(そうせき)が取得出来ます。
これは、覚りとは無関係です。
◆僧侶に剃髪(ていはつ)を押し付けていません。私や当寺の住職
は毎日剃りますが、電気剃刀で二十分くらい、どうでも良いことで
す。頭を剃るより、「心の邪を剃る」ことが肝要です。
僧侶の日常は、墨染めの衣「法衣」を着なくてはならないか—-、
着たい人は、白衣(はくえ)に白足袋、黒の改良服という簡便な
ものがありますから、好きなようにしてくだされば良い。
僧形(そうぎょう)で街を歩いていて知り合いに会うと、多少は
尊敬の念と好奇心で接してもらえるでしょう。
葬儀について、人は生まれ来て、いずれは亡くなられる、先に送り、
自分も往く —-。 自分の葬儀代を心配せずに人生を充実して
過ごし、一人になっても不安なく、信頼して葬儀を依頼できることが
望ましいものです。
都会の葬儀の布施は大体三十万円以上は必要です。これを二十万
円以下にしてあげたいと考えています。少なくとも十万円は安くし
ないと、世のためとは考えられませんが如何でしょう。
観音院の僧侶が葬儀を執行すると、戒名料は不要です。最近では
「居士」をお願いしたら五十万円とか、院号ならもう少し、といった
発想はありません。
このような方針は多く有りませんので、大衆から支持されると
思います。
■僧侶には定年がありません。足元がふらふらになっても出来ると
いう仕事は今時では珍しいですね。私は五十二歳で住職を引退し、
もうすぐ七十歳ですが、僧侶は有り難いことに、年と共に、大切に
される傾向があります。
ともあれ、謙虚に誠実に生きることが全てだと思います。
■私は十善戒を護持するよう、八正道を大切にしています。
欲望を抑え、煩悩を叶えるようにには行動 しません。
欲しいものは私の寿命を含めて一切有りません。
信徒さんが要望されるように行動します。
■善いお坊さんを育てたいと願っています。
善いお坊さんになるには、身辺の整理が大切です。
過去のことは一切忘れました。名誉や地位、毀誉褒貶も
関係が無い日常で存在しています。将来も語りません。