- 寅さん
- 佛道(ぶつどう)に精進(しょうじん)し、きよらかな心を磨くには、戒・定・慧(かいじょうえ)のうち、そのどれが欠けても完全でないことは分かりましたが、それにしても佛教には戒律がたくさんありますね。ほんとうのところ佛教の戒(かい)は、どのくらいあるんでしょう?
- ご隠居
- 五戒、十戒、二百五十戒などと言われるが、出家にかぎっていうと、律宗〔南都六宗の一、七五三年に鑑真が来日して伝え、戒壇を開いた〕では、僧、尼僧の守るべき戒律には、どこからどこまで、何をどのようにといったような区切りはないとしている。
- つまり僧尼の戒律は際限がないらしい。
- このように、僧の守るべき戒を広義に解釈すると、それは無限で数え切れないほどあるが、ほどほどの規則として決められたものでも、三千の威儀〔いぎ・佛法の礼式にかなった挙措動作〕と、六万もの細行〔さいぎょう・僧団の沙弥(しゃみ・出家して十戒を受けた少年僧)の心得を説いた規則。
- たとえば袈裟(けさ)のつけ方、食事(じきじ)の作法、師に対する仕(つか)え方などの生活細則ともいうべきもの〕、そして「自誓持戒」する僧として、それ以上省略することのできない戒律というものが二百五十戒ほどある。
- むろん尼僧にも厳しい戒律がある。広義な戒は無量無辺、その戒を少し整理すると、八万の威儀と十二万の細行、ぎりぎりに省略して三百四十八戒とされている。
- 寅さん
- へえ、ききしに勝る凄い数量ですね。それらの戒を一つ一つ覚えるだけでも大変だ。
- ご隠居
- それがどんな戒なのか、根ほり葉ほり聞きたいだろうが、それだったら律宗へ行って聞いてくるんだな。
- 寅さん
- その律宗はどこにありますんで?
- ご隠居
- 奈良の唐招提寺が本山だ。
- 寅さん
- あ、唐僧鑑真和上(がんじんわじょう)の開いたお寺がそうでしたか。
- ――在家の八斎戒(はっさいかい)――
- ご隠居
- そもそも戒律というものは、僧尼の守るべき佛教のいましめと規則であって、出家の戒とはさっきも言った僧の二百五十戒、尼僧の三百四十八戒、このほかに十カ条の重戒(十重禁戒)、四十八軽戒などというものがある。
- そして、問題なのは在家の戒、つまり五戒、十善戒、八斎戒ではないかな。
- 寅さん
- その在家の戒は、大目に見てもらって、できればパスしたい・・・。
- ご隠居
- そういうわけにはいかないな。在家の五戒、十善戒というのは、人間が人間として生きてゆくための規範ともいうべきものだから、みんなこれを努力目標として守らないといけない。
- まず在家の五戒、これは不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、それに不飲酒(ふおんじゅ)だ。寅さんお酒もダメなんで?
- ご隠居
- うん。ただし、不飲酒は軽戒(きょうかい)、どちらかというと軽い戒とされている。が、ほかの四戒は人として絶対にしてはいけない重戒なので、これを四重禁ともいう。そしてこの四重禁を性戒(しょうかい)と規定し、飲酒戒のほうを遮戒(しゃかい)としている。
- 寅さん
- 性戒と遮戒?
- ご隠居
- 性戒というのは、人間はややもすれば理性を失い、時として感情のおもむくままにとんでもない間違いをおかすことがある。
- そうした心奥にひそむ人間の本性を固くいましめる戒律だから、これだけは誰であろうと絶対に守らなければならない。だからこれを性戒という。
- それにくらべて遮戒というのはたとえば飲酒戒のように、お酒を飲まない人にとって、ほんらい飲酒戒など、有ってもなくても何の差し支えもない。
- でも飲む人にはたかが飲酒と、簡単に済まない場合が多々ある。いきおいあまって飲酒が原因で重戒を破るような、取り返しのつかない事態をひき起こすこともないとはいえぬだろう。
- だから、お酒飲みに、あなたはお酒を飲んではいけません、と遮(さえぎ)り止めるから、そういうのを遮戒というのだ。
- そして十善戒・・これこそ私たち在家が真に守らねばならない大切な戒で、当然これも性戒だな。
- くわしくは観音院さんの常用教典「まことの道」にある十善戒を読むとよくわかる。
- 寅さん
- 八斎戒というのは?
- ご隠居
- これは在家の人々のために、ほんらい出家戒であった戒律を、この程度のことなら守れないことはないだろうと、在家に援用したもので、一に不殺、二に不盗三に不淫(在家の五戒の場合は不邪淫、出家戒では不淫)、四に不妄語、五に不飲酒、六に香油塗身(ずしん)戒、七に歌舞観聴戒、八に高広大床戒(こうこうだいじょうかい)、これが八斎戒だな。
- 寅さん
- 六、七、八戒の意味は?
- ご隠居
- 六戒以下は、あまり今日的な戒とは言えず、むしろ現代の風潮にさからって、カビ臭い道学者流のにおいがしないでもないが念のために説明すると、こうだ。
- 香油塗身戒というのは、出家の作法通り、常住坐臥いっさい身を飾らないということだ。男女にかかわらず、身を飾りたてて人に対するのは、つまり、少しでも目立ちたい、相手に良い印象を与えたいという欲望や下心があるからであって、必要以上の厚化粧や、香水の匂いをあたりかまわずふりまくなどといった行為は、厳に慎まねばならないと戒めている。
- 七の歌舞観聴戒、これは楽しみごとの芸能など、いっさい見てはいけない、聞いてはいけない、というのだから、これではうっかり芝居や音楽会にも行けない。
- そして、八の高広大床戒、これは身分不相応に身代(しんだい)を築いたり、バカでかい豪邸を構えたりしてはいけない、という戒めだ。ただ、この戒にかぎっていえば、芸能界などのゴシップと照らし合わせて、多少思い当たるふしがないでもない。
- 以上の八斎戒に、もう二戒を加えて十戒ともいう。
- 寅さん
- その二戒とは?
- ご隠居
- 非時食戒(ひじしき)と不捉金物戒(ふそくきんもつ)だ。
- 非時食戒とは、朝食と昼食以外に、間食とか晩食をしてはならないということだ。
- 寅さん
- 間食は分かりますが、夕食をしてはいけない?
- ご隠居
- 昔、出家の食事は、朝食と午食の二回きりだったわけだ。
- それはそれとして、不捉金物戒・・これが実のところたいへんに至難のワザで、お金とか財宝とか決して手に捉(と)ってはならない、つまりお金に関する事柄には一切タッチするなかれ、と厳しく禁じている。
- こんな浮世ばなれした戒を、在家の人々に守りなさい、といっても到底無理な相談だろうな。
- ――伝律授戒の師――
- 寅さん
- ところで、鑑真和上(688-763)という方は、どんなお人だったんでしょう?
- ご隠居
- 鑑真和上が日本へ来るきっかけは、唐に渡った日本留学僧栄叡(ようえい)と普照が、浄持戒律の人として当時中国で高名であった鑑真和上を訪ねて、どなたか、釈尊以来の師資相承の法弟を派遣してほしいと頼んだ。
- 「日本には、いまだに正式授戒がおこなわれていません。なにとぞ和上のお力でもって・・」
- が、海難を恐れて誰もはかばかしい返事をしなかった。
- 「それなら私が行こう」と、和上みずから渡海を決意された。
- こうして五度、渡航をこころみるが、船が難破したり、出国寸前に待ったをかけられたりして、いずれも失敗する。それでも和上は屈することなく、六度めにやっと日本の土を踏むことができた。
- 天平勝宝五(七五三)年のことで、その間、渡日を決心して十年の歳月がながれており、そのとき和上はすでに六十六歳であった。
- 寅さん
- すごい意志力ですね。鑑真和上の心を、それほどまでにつき動かしたものは、いったい何だったんでしょうか?
- ご隠居
- ひとくちにいうと、和上の佛教者としての使命感だろう。
- 佛教には経、論の研究と、瞑想思索(めいそうしさく)の行(ぎょう)、そして戒律の遵守(じゅんしゅ)という三つの柱がある。
- 寅さん
- 経、論の研究とは?
- ご隠居
- 経とは「般若心経」「観音経」といったお経の研究、論とは、その解説書の研究のことだ。
- そして瞑想(めいそう)思索とは禅定(ぜんじょう)のこと。戒律は、お釈迦様によって形成された出家集団が、その集団を維持するためのきまり、つまり絶対に犯してはならない重戒にはじまって、以下、こまごまとした規則のことだ。でも、それらは単に「すべからず」的な規則でなくて、その底に人間性への深い省察が含まれていて、人間が人間として生きるとは、どういうことかを問いかけるものといってよいだろう。
- これらの戒律をひとまとめにして「戒」といい、思索瞑想による探究を「定」、経・論の知的な研究を「慧」と呼び、この戒・定・慧が備わって、はじめて佛教が完璧なものになる、というわけだ。
- なのに日本では、戒じたいの解釈がおざなりでいい加減だったし授戒にしても、国家による正式な儀式もそれまでなかったから、当然のように僧尼の「戒」の意識は希薄だったのだろう。
- そんな変則的な日本佛教の実情を憂慮した和上は、「せっかく海を越えて東の国に根づいた佛教なのに、このまま座視していては釈尊の教えがいびつになりかねぬ」
- なんとしても正しい伝律授戒を日本の地でおこなわなければ、という使命感で来日されたわけだ。
- 鑑真和上の渡日を歓迎した聖武天皇のお言葉がのこっている。「大徳和上、遠く滄波を渉り、来りて此国に投ず。誠に朕が意に副う。朕、東大寺を造りて十余年を経、戒壇を立て戒律を伝授せんと欲す。此の心有りてより、日夜忘れず。今より以後、授戒伝律のこと、ひとえに和上に任す」
- 寅さん
- で、鑑真和上による日本最初の授戒がおこなわれた?
- ご隠居
- うん、天平勝宝七年、東大寺の大佛殿前でだ。
- 鑑真和上の伝記「唐大和上東征伝」はその模様をこう記している。
- 「其年四月、初メテ盧舎那(大佛)ノ殿前ニ戒壇(かいだん)ヲ立テ、天皇初メテ壇ニ登リ菩薩戒(規律に従って悪いことはしない。進んで良いことをする。さらにこれを他人にも及ぼす、という三原則を守り、在家でも受けることのできる戒)ヲ受ク。次イデ皇后(光明子)、皇太子(のちの孝謙天皇)また壇ニ登リテ戒ヲ受ク。ツイデ沙弥等四百四十余人戒ヲ受ク。又八十余人ノ僧旧戒ヲ捨テテ重ネテ和上授クルトコロノ戒ヲ受ク」
観音菩薩に帰依(きえ)して幸運を得る話 日本霊異記
聖武天皇(在位・七二四ー七四九年)の御代のこと、御手代東人(みてしろのあずまびと)という男がいた。
東人は吉野山へ入り、三年ほどひたすら佛法修行に打ち込んだ。そして、観音菩薩の名号を称えて礼拝し、「観音さまどうぞ銅銭万貫、白米万石、佳い女人をたくさん、この私にお与えください」と熱心にお祈りした。
ここに、大和国広瀬の豪族である従三位粟田朝臣(じゅさんみ・あわたのあそん)の女(むすめ)がいた。ところが、この息女のもとには、なぜだか、どの男も言い寄って来なかったから、いまだに恋人も居ず、さみしい日々をおくるうち、なお不幸なことに病気になってしまった。
息女はしきりに苦痛を訴え、病状は進むばかりで、とてものこと回復しそうにない。
父の粟田卿は八方に手をつくして、効験のある僧侶、優婆塞(うばそく)を屋敷に招き、娘の病気平癒を祈願した・・が、いずれもはかばかしくなかった。
そんなおり、たまたま東人の噂を聞きおよんだので、藁にもすがる思いで礼を尽くして彼を屋敷へ迎え入れることにした。
東人は陀羅尼(だらに)を一心に称え、その威力でもって病魔退散を念じた。すると、呪力のおかげか、みるみるうちに息女は元気になった。
それはそれでよかったのだが、ひとつ問題が持ち上がったのだ。
息女が、東人に恋情をもよおし、とうとう男女の契りを結んでしまったのである。
娘の病を治してくれたことには感謝するが、家の姫と通ずるなどとんでもない、と怒った粟田朝臣は、東人を物置小屋へ閉じ込めてしまった。それを知った息女は、終日小屋のほとりから離れず、泣いて東人を恋い慕う始末である。
こうなると娘が不憫で、見るにしのびない。粟田朝臣は仕方なく東人を小屋から出し、家の財産をつけて二人を夫婦にさせることにしたのである。
時が過ぎ、今は東人の妻となった息女が死の床に臥していたとき彼女がその妹にいう。「あなたに最後の頼みがあります。聞いてくれますか?」
「なんなりと。お姉様のご希望どおりにいたしましょう」
「夫のこれまでの情愛に報いるために、私が死んだのち、あなたの娘を東人の妻として、粟田家の身代すべてを任せたいのですが……
妹は姉の遺言を聞き入れ、我が娘を東人に与え、従三位粟田朝臣家を東人の手に委ねたのである。
こうして東人は現世において、大福徳を得た。これすなわち修行の験力、観音菩薩の威徳である。