雨季は 研鑽の好機

 六月。街を行き交う人々の服装も、本格的な夏の暑さに向けて、涼しげな服装に様変わりをし始める季節です。この季節は、一年で最も昼の長い時期であり、また、梅雨の時期でもあります。

■ 六月十五日は青葉祭 ■
 六月十五日は弘法大師ご降誕の日、密教の伝持(でんじ)の八祖(龍猛・龍智・金剛智・不空・善無畏・一行・恵果・弘法)の一人、不空金剛(アモーガヴァジラ)のご命日でもあり、また、真言宗の祖師である弘法大師空海のご誕生の日であります。
 お大師さまは、自分は不空金剛の生まれ変わりであると常々語られていたそうです。ご自身が師事された恵果(けいか)和上の師匠にあたる不空金剛を日々厚く私淑されていました。

■理趣経の翻訳■
 不空金剛は、中国西部の西域に生まれました。幼い頃に、金剛智に師事し、密教を学びました。そして、後にインドへ赴き、経論を持ち帰り、中国語に翻訳しました。
 観音院の常用経典「まことの道」の六十三ページを開くと、理趣経の冒頭に「般若波羅蜜多 理趣品大興善寺三蔵沙門 大広智不空 奉詔訳」と書かれていますが、ここでいう「大広智不空」とは、不空金剛の諡名(おくりな)である「大弁正広智不空三蔵和尚」を略して表記されたものです。
 不空金剛は、中国社会に密教を根付かせるために、加持祈祷などの法力で、中国の皇帝の要望にこたえました。その結果、玄宗(げんそう)、粛宗(しゅくそう)、代宗(だいそう)の三代の皇帝に渡って信頼を得たおかげで、密教は保護され、護国の宗教として中国国家に定着していきました。
 それまでの中国における密教は、瞑想による個人的な解脱や、真言、陀羅尼を唱えることによる現世利益を得る、いわゆる、個人のための教えでしたが、不空金剛によって、国家を護るための宗教にまで発展していきました。
 弘法大師も、嵯峨天皇の信頼を得て、鎮護国家の思想のもとに、済世利民、真言宗を日本に広めていかれました。お二人の境遇はどこか似通ったものを感じます。
 真言宗の道場には、八祖さまの掛け軸が本堂に祭られていますが、ほとんどの場合、不空金剛と弘法大師のお二人の掛け軸は向かい合わせになるように祭られています。
それだけ、お二人のご縁は深いということなのでしょう。観音院でも、本堂の下陣の両脇、一番奥手に、不空、弘法の両大師の掛け軸が祭られています。お参りになった際にご覧になってみてください。

■六月は梅雨の季節■
 毎朝、通勤・通学をされている方にとって、雨は厄介な存在かもしれません。スーツや靴が雨で濡れたり、電車やバスが遅れたりします。家事をされる方にも、洗濯物も乾かないし、自転車で買い物にも行けないし、何かとマイナスイメージを持たれがちな気候といえるでしょう。ストレスの多い都会での生活に疲れた人々が、自然豊かな田園で「晴耕雨読生活」を送りたいと考えられるのも無理はないかもしれません。

 雨は、本来はすべての生命に潤いと恵みをもたらす存在です。
 日本と同様に、古代インドでは、丁度この時期から「雨季」に入りました。釈尊は、約三ヵ月も続く雨季の間、弟子たちに外出を禁じ、室内にこもって瞑想などの修行に専念するように申し付けました。
この雨季の定住のことを「雨安居(うあんご)」といいました。
 雨季の間は外出が困難なことはもちろんとして、泥の中に埋まってしまっている草木の若芽や昆虫類を気づかずに踏み潰してしまわないためにも、この制度を始めたとのことです。

 ちなみに、高野山の僧侶が雪駄を履かずに下駄を履いているのも、地中の虫を極力殺生しないためにという慣習からだそうです。本来、定住地を持たず、乞食(こつじき)をして行脚(あんぎゃ)していた僧侶が、安居のために地元の有力者から居住の場を提供されたことが寺院の始まりだとされています。
 雨季のない日本や中国でも、六月頃から三ヵ月間の安居が行われ、「夏安居(げあんご)、夏行(げぎょう)」と呼ばれました。僧侶たちは、一箇所にこもり、集団生活を送る中で、写経や経を唱える自行を行いました。安居に入ることを「結夏(けちげ)、結制(けつせい)」、安居が終わることを「解夏(げげ)」と呼びます。

 僧侶にとって、雨季は厄介な存在ではなく、集中して行をすることができる環境を与えてくれる、有り難い存在でもありました。現代のわれわれの生活に当てはめて考えてみましても、雨季のように薄暗く、じめじめとして、思うように行動できない時期が誰しも訪れることがあります。しかし、それは考えようによっては、自己を省みて、次へのステップを踏み出すことができる力を蓄えるために、み仏さまが与えてくださった行の期間、つまり人生の安居であるともいえるのです。

 普段は忙しくて出来なかったことをやってみるのもよいでしょう。精気を養うために体を休めるのもよいでしょう。気持ちを落ち着けるために、瞑想に親しむのもよいかもしれません。
 安居のための場所であるお寺にお参りになり、僧侶たちの話を聞いて、ご法要で共にお経を唱え、み仏さまとご縁を結ばれることをおすすめ致します。

 雨季には必ず終わりが訪れます。その際には、きっと晴れやかな気持ちで毎日を過ごしていけることでしょう。

 すべての人に安心(あんじん)が訪れるまで、み仏さまは皆さんを導き、見守ってくださる誓いをたてられていらっしゃいます。
 わたくしたち、僧侶は、仏さまの大いなる慈悲を、わかりやすく伝え届ける役割を担っています。皆さまに悩み、迷いが生じられたときは、わたくしたちを通して、み仏さまの心を感じ、三宝に帰依し、穏やかな生活を送られてみてはいかがでしょうか。観音院では、皆さまのお悩みやご相談をお受け致しております。合掌九拝

子を思う親心

 五月五日は端午の節句。住宅事情や家族構成の変化により、甲冑や武者人形、鯉のぼりを飾る家は年々見かけなくなってきています。
スーパーで柏餅やちまきを買って、折り紙の兜をかぶり、菖蒲湯の入浴剤を入れたお風呂に浸かる、というのが世相のようです。

 さて、今年のゴールデンウィークは休みの取り方によっては、十日もの連休を取られる方もいらっしゃいます。
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のんびりと日頃の疲れを癒したり、家族サービスでどこかへ出かけられる方も中にはいらっしゃることでしょう。
日常、家庭を顧みずに仕事に没頭されている方には、家族同士で良好な関係を保つ上でも丁度良い時期かもしれません。

 最近、育児に関してのトラブルが巷でよく取りざたされています。子供に対する接し方がわからない親が増えてきたのと同時に、育児問題について世間が真剣に取り組み始めたことが要因に挙げられます。
 いけないとわかっていながら、つい手が出てしまう、酷いことを言ってしまう。過度の育児ストレスが、ドメスティックバイオレンスを引き起こしてしまっているようです。
 中には、端から子供を放り出して、パチンコや買い物に出かける親御さんもいるそうです。幼い子供だけが居る家で火事が発生したり、駐車場で車内で待たされているうちに熱中症になったりと、被害に遭う子供たちが増えています。

 子供を愛するということは、われわれ人間はもとより、あらゆる生命が本来持ちあわせている本能であるはずです。種を維持するためには、幼くか弱い子供たちを保護していかなければいけません。野生動物を見ていても、親は身を挺して子供を育てています。自分の享楽のために我が子を邪険にはしていません。
 高度で便利な文明社会の狭間で、大切な心を見失ってしまっている人が増えているのが現状なのかもしれません。
親が子供を守らなくて、一体誰が子供を救えるのでしょうか。傷つき迷う子供たちを癒し、いつでも迎え入れて保護する砦としての役割を担って欲しいものです。

高野山 ケーブルカー  法話の中に、子供を愛する親の話がたびたび出てきます。その中に鬼子母神(きしもじん)の説話があります。

 訶梨帝母(かりていも)とも呼ばれ、王舎城(おうしゃじょう)の夜叉神の娘で、また鬼神王の般闍迦(はんじゃか)の妻でもある鬼子母神は、町に出ては多くの幼児を母親から奪って食べていました。
 我が子を奪われた親たちの嘆きは甚だしく、その声を聞きつけた釈尊が、
その悪行を戒めるために、鬼子母神の一万人(または千人、あるいは五百人という説もある)もの子供の内、最も愛されていた末子を、隠してしまったそうです。
 我が子を失う悲しさを身をもって体験させられた鬼子母神は、自らの行いを悔い改め、仏法に帰依し、幼児の養育を助けることを釈尊に誓いました。
 その後、鬼子母神は求子・安産・育児の祈願を叶える神として民衆から崇められるようになったそうです。本来は、インドの母神であったらしいのですが、仏教に取り入れられ、守護神として祭られるようになりました。

 我が子を失う悲しみに暮れる法話は他にもあります。

 あるところに幼い子を亡くして嘆いている母親がいました。母親は、釈尊の噂を聞き、その神通力で子供を蘇生させてもらおうと考えました。
 釈尊は、その母親に向かって、町の人から芥子の実をもらってくれば子供を生き返らせることができるだろうと仰られました。ただし、その家で誰も亡くなった人のいない家族から芥子の実をもらってくること、と条件を出されました。
 母親は、それくらいならばすぐに見つけ出せるだろう、そうすれば、我が子を取り戻すことができるのだと思い、必死になって家々を回っていきました。
 しかし、どの家の人も、誰かしらが亡くなっており、条件に当てはまる家を探し出すことはできませんでした。
 肩を落として釈尊の下へ帰ってきた母親に、不幸は誰の身にも訪れるものだから、いつまでも嘆いて亡き子へ執着し続けるのをやめて、その菩提を弔い、精進して生きていくように説かれたそうです。
 五月は、観音院におきまして、幼くして亡くなられたお子さまたちのご供養のために、水子供養永代経法要を執行いたします。

 子を思う親心は尊いものです。
 仏さまは、われわれを我が子のように愛し、そして導いてくださいます。決して見捨てたりはなさいません。いつでもわれわれの側で見守ってくださっています。
 観音院にお参りして、諸仏・諸菩薩・諸善神さまの御前で手を合わされ、ご加護をいただき、全てを受け入れていただける有難い親心を観じられてみてはいかがでしょうか。
 また、お悩み等がございましたら、法主さま、住職さま、職員にご相談ください。親身にお話を伺わせていただきます。
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新年の誓い

皆さま、あけましておめでとうございます。今年一年も、皆さまの無事健康、所願成就を一心に祈念して、観音院の職員一同、精進していきたい所存です。
 さて、年明けはさまざまな行事が目白押しで、多忙に過ごされている方もいらっしゃると思います。最近は、海外や保養地などで優雅な休暇を送っている方も多いと聞いていますが、盆と暮れ(正月)には里帰りをして、親孝行や墓参りをし、ご先祖様への感謝の意をあらわしてみるのもいいのではないでしょうか。

 よく、初夢に見ると縁起がいいものとして、一富士、二鷹、三茄子とあります。無事、高い、事を成す、といった掛けことばであるという説もありますが、残念ながら、私は未だに見たことがありません。
 昔から、初夢に限らず、良い夢を見たいと思ったときは、七福神の乗った宝船の絵に「永き世の遠の眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな(ながきよのとおのねぶりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな)」という回文(かいぶん:上から読んでも下から読んでも同じ読みである言葉遊びのひとつ)を、枕元に入れて寝るといいといわれています。

 七福神とは、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁才天(べんざいてん)、恵比須(えびす)、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)、布袋(ほてい)の七柱の福の神のことです。
 天とは、天部に位置する諸尊につけられる呼称でもあり、元来はヒンドゥー教やバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、如来や菩薩、仏法を守護する神とされました。
 大黒天は、自在天(じざいてん)とも呼ばれ、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身で、戦闘の神として崇められました。また、堂舎食厨の神とされ、寺院の台所に祭られています。一面二臂(いちめんにひ:一つの顔と二つの腕を持つ)で青黒色の肌、忿怒の相という、不動明王と似た様相でしたが、室町時代の頃から、日本の神道の大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合して、微笑して米俵の上に立つ姿に変わり、民間で信仰されていきました。
 毘沙門天は、仏教の守護神である四天王のうちで最も由緒正しい神とされます。元来は、ヒンドゥー教の財宝の神であるクベーラ神で、別名で多聞天(たもんてん)ともいわれ、単独で施財の神として祭られました。
 弁才天は、水の女神とされ後に学問や芸術の守護神として崇められました。白衣をまとい、白蓮華の上で琵琶を弾く姿から、音楽の神としても知られています。
 恵比須は、海の彼方よりやってくる外来の神といわれています。釣竿やタイを抱える姿で表現され、漁業の神として知られています。大抵は、大黒天と一対で福神として祭られています。
 福禄寿は、中国の道教の神、南極老人星(カノープス)の化身とされます。顔が長く、白く長い髭をはやし、鶴を伴っている姿をしています。
 寿老人は、道教の神で、長寿の神とされ、鹿を伴った姿をしています。福禄寿と同一神であるとする説もあります。
 布袋は、唐末の五大後梁時代(十世紀初頭頃)に実在した禅僧で、名を契此(けいし)、号を長汀子(ちょうていし)といいました。福々しい顔で、大きなお腹で、布の袋を背負って諸国を旅し、布袋の行くところには幸運がもたらされると信仰されていました。また、弥勒菩薩の化身であるとされています。

 正月の三箇日、多くの参拝者が寺社を訪れ、ニュースでもその模様が紹介されていますが、真言宗にとっても、後七日御修法(ごしちにちみしほ)といわれる大事な行事が行われます。
 後七日御修法は、宮中で元旦から七日まで、神式による祈祷が行われていた宮中節会(きゅうちゅうせちえ)に対して、その後の八日から十四日までの七日間、密教式の祈祷を行うように弘法大師空海が朝廷に申し出たことから始まりました。当時は、お大師さま自らが導師として、宮中の真言院で、国の安寧を願い祈祷を行っていたそうです。明治時代の廃仏毀釈で中断されましたが、後に再興され、現在も東寺の灌頂院で行われています。
 観音院では、法主さま、院主さまの元気が出る法要を年明けより行っています。皆さまも参拝され、元気をいただいてお帰りください。

 一年の計は元旦にありとされます。これを機に、菩薩心を持って新年の誓いをたててみてはいかがでしょうか。
 菩薩は、本来は仏となることができる立場にあるのですが、すべての人々が覚りを得ることができるようにこの世に留まり、衆生を導く誓願をたてたとされます。
 学問や研究をする際にも、商売をする際にも、自分の成功を願う自利を思うより、世の中の多くの人のためになろうとする利他の心を持って生きていく方が幸せではないでしょうか。
 目先の利益のみを追うことを小欲といいますが、これは往々にして他人を不幸にすることがあります。小欲には際限は無く、いくら稼いでも、満たされることの無い虚無感に苛まれることでしょう。
 一方、他人のために何かをしてあげたいという欲望は大欲と呼ばれます。小欲に比べ、大欲は些細なことでも満足感を得られます。電車でお年寄りに席を譲ったり、ボランティア活動をしたりと、行為を受ける側だけではなく施す側も幸せな気分になれます。大欲は、仏教者の心得ともいえるでしょう。
 世界で今もなお続けられている戦争も、小欲の象徴ではないでしょうか。皆が菩薩のような精神で生きていけば、自ずと争いも無くなっていくことでしょう。
 新年から、仕事の内容は同じでも、これは皆の幸せのためにやっているのだという気持ちで行えば、これまでとは違った充足感を得られることでしょう。仏さまは我々の心の中にいらして、あたたかく見守ってくださっています。
 もしも、自身の中の菩薩を見失い、迷いそうになったときは、観音院に参拝して仏様に手を合わしてください。そして、職員に相談してみてください。皆さまの心に灯明をともすお手伝いをし、穏やかで平和な暮らしができるよう

年の瀬に感じる仏教

師走、師も走るくらい忙しいとされる年の暮れのこの時期、巷でも賑やかな催しが開催されます。代表的なものがクリスマス、日本では戦国時代にキリシタン大名同士の戦の際、一時的に休戦協定を結び、クリスマス・イヴを祝ったのが始まりとされています。実際に庶民の生活に行事となったのは明治時代以降のようです。
 現在の日本では、クリスマスは家族や子供たち、恋人達のための楽しい行事となっているようです。
■成道会(じょうどうえ)
 仏教では、十二月には「成道会(じょうどうえ)」という大事な法要があります。観音院でも毎年、十二月八日になると、この法会が厳かに営まれます。
 お釈迦さまは、二十九歳で出家され、六年に渡る苦行の後、三十五歳の時に菩提樹の下で瞑想(めいそう)を行い、悟りを開かれました。その日が、丁度十二月八日だったとされています。
 二月の涅槃会(ねはんえ・常楽会)、四月の降誕会(こうたんえ)と並んで仏教の代表的な行事です。
■身近な釈迦如来さま
 観音院では毎月第一日曜午前十時から「大般若会」を行っていますが、「釈迦如来さまと十六善神図」にお参りし、大般若経二組、壱千二百巻を転読し、皆さまと共に、釈迦如来真言を唱え、恩徳を讃嘆(さんたん)します。のうまく さまんだ ぼだなん ばく(常用教典まことの道 二十二頁)
 観音院には、ご本堂の右前におまつりする「釈迦涅槃図」は美麗精緻な螺鈿(らでん)の作りで、お釈迦さまとお弟子達が御入滅の悲しみを超えて崇高(すうこう)にえがかれています。毎日の法要で皆さまと共にお参りしています。
 本堂の中央には、お釈迦さまのお御足の裏の瑞祥紋をあらわした「仏跡石」をおまつりしています。皆さまも、ゆっくりと手のひらで撫でながら、ご自身やご家族への御守護をご祈願されてください。
■除夜の鐘
 十二月三十一日、年越しの除夜の鐘。鐘を撞(つ)く回数は、百八回です。百八という数は、人間の煩悩の数を表しています。
 百八煩悩の具体的な内容は諸説ありますが、一般的には、修行の階梯のである三道の見道(けんどう)、および修道(しゅどう)にて断つべき九十八の煩悩に、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あくけん)の六根本煩悩に付随してはたらく煩悩とされる随煩悩(ずいぼんのう)の中の十の纏(てん)を加えたものともいわれます。
 貪は貪欲、瞋は怒り、痴は愚かな心で、「三毒」と言われます。
 数珠の玉の数は、お釈迦さまのお諭しの百八果が正式です。
 観音院で得度を受けられた方々には修行用の正式な数珠が授与されますが、日々み仏を念じ、自らの怒りを抑え、質素を旨として、生きて行く努力する誓いと御守護を願います。
■三衣一鉢(さんねいっぱつ)
 仏教では、僧侶が個人的に所有することを許されたものは、大小の三種類の袈裟と、托鉢の際に布施供物を受けるための一個の鉢のみだとされていました。
 東南アジアなどの、上座仏教の文化が未だに色濃く残る地域では、袈裟のみを身につけた修行僧の姿をよく見かけることができます。
 仏教発祥の地のインドは、南部では一年を通して高温で、北部でも四~五月の酷暑期には、平野部で五十度を越す所もあるようです。
 インドに比べ、中国や日本の気候は、冬には雪も降り、一年中袈裟だけを着て過ごすには寒すぎる地域でした。そのため、僧侶の着る袈裟も、気候に合わせて変化していきました。衣の上から袈裟を身につけるスタイルは、中国から始まりました。
 中国の僧侶は、黒衣(こくえ)と呼ばれる衣装を着けて修行をしていました。黒衣の色は、純黒ではなく、墨で染めたくすんだ黒色のものが用いられていたようです。
 観音院の僧侶は、一年を通して、作業中は作務衣、法要では、肌襦袢(はだじゅばん)の上に白衣(はくえ)、その上に空衣(うつお)と呼ばれる黒い衣をつけ、その上から如法衣(にょほうえ)と呼ばれる黄色い袈裟を身に着けます。生地の材質のためか、夏場は暑く、冬は寒く感じられますが、本堂の中は、空調により、一年を通して室温が一定になるように保たれているので快適に過ごすことができ、寒暖に意識を奪われること無く、皆さまのご供養、ご祈願をみ仏さまに一心にお祈りすることができます。お参りの際は、外気温差で体調を崩されませんようお気をつけくださいませ。
■「僧侶養成講座」が開講されていますが、得度・修行を志される方は住職にご相談ください。
■年越し法要
 観音院では、毎年、大晦日の夜十一時より、皆さまと共に般若心経を繰り返しお唱えし、心を静め、僧侶の叩く鐘に合わせて、年越し法要が盛大に営まれます。
 二〇〇五年、新年の本尊守護、家内安全、無事祈願、所願成就の願いをこめて、ご家族でお参りにいらしてください。
■年末大掃除 ご奉仕下さい
 また、十二月には、大般若会の五日(日)の午前八時から、十九日(日)の午後三時から、年末のお寺の大掃除があります。
 お掃除は厄難を払い、集中力を高め、心を清める功徳があります。お釈迦さまのお弟子には、み教えのまま掃除をし続けただけで悟りを開いた方もおられるそうです。ご都合がよろしければ、是非ともご奉仕くださいませ。
 法主さま、住職さま、職員一同、心よりお待ちしております。

仏法興隆の立役者

十一月、二十年ぶりに日本紙幣のデザインが改変されます。
 一万円札は従来どおり福沢諭吉と裏面に鳳凰像、五千円札は樋口一葉と燕子花図、千円札は野口英世と富士山・桜が描かれています(二千円札の守礼門と源氏物語絵巻図は現行通りで変更なし)。
 中でも、樋口一葉は、皇族以外の女性として初めて日本のお札で肖像画が描かれたとのことです。
 パソコンやスキャナー、カラープリンターが普及する近年、紙幣の偽造が容易になり、深刻な社会問題になっています。その状況を打破するために、政府は最新の偽造防止技術が盛り込まれた新紙幣を発行するに至ったとのことです。
 さて、皆さまは現在発行されているお札の、以前のデザインを憶えていらっしゃいますでしょうか。
 私も、遠い記憶で、お年玉に岩倉具視の五百円札、伊藤博文の千円札をもらったことは憶えています。一万円札は、昔のテレビの再放送などでメディアによく出てくるので知らない人も少ないとは思いますが、聖徳太子が肖像画で描かれていました。一万円札だけでなく、聖徳太子の肖像画は、五千円札、千円札、百円札にも描かれている時代がありました。

 聖徳太子は、五七四年、用明天皇と穴穂部間人皇后の皇子として生誕しました。厩戸の傍で生まれたので、厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれたという説もあります。「聖徳太子」という名前は、太子の死後に贈られたものです。
 聖徳太子は、日本最初の女帝、推古天皇の摂政として活躍しました。「日出處天子致書日没處天子無恙云々」と手紙にしたため、小野妹子らを隋の煬帝に遣隋使として派遣して国際的な交流を図ったり、冠位十二階や十七条の憲法で天皇中心の中央集権国家の体制を確立したりしました。
 また、聖徳太子は、日本における初期の仏教布教に大変重要な役割を果たしました。中でも、「勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)」・「法華経義疏(ほけきょうぎしょ)」・「維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)」の「三経義疏(さんきょうぎしょ)」の著書は広く知られています。
 また、法隆寺や四天王寺、広隆寺といった数々の寺院を建立しました。三宝興隆の詔を発した太子は、高句麗の僧、慧慈(えじ)を師として迎え、仏教への理解を深めようとしました。
 十七条の憲法の中に「篤く三宝を敬え」と述べられていますが、この三宝とは、すなわち「仏・法・僧」のことであり、仏と、仏によって説かれた真理と、その真理を体現する者のことです。

 観音院の常用教典「まことの道」の二十ページに「三帰(さんき)」が記されていますが、これも、三宝に帰依し、拠り所として生きていくことを誓う句であります。

 このように、聖徳太子は、仏教に帰依し、政治方針の根幹として採用しました。
 現在の日本で、仏教がここまで広がったのは、偏に聖徳太子のおかげといっても過言ではありません。宗旨宗派を超えて日本各地で篤い信仰が今も息づいています。

 仏法興隆の観点でいうと、中世期に活躍した「高野聖(こうやひじり)」といわれる僧侶、半俗の聖たちは、全国に高野山信仰を広め、日本の総菩提所として定着させ、お大師さまの恩徳を庶民にわかり易く説いて回り、仏教の布教に一役買いました。

 高野山の若い僧侶が、飛騨の山中の天生峠を行脚中に出会った女性に宿を借りることにしたのだが、実はその女性は、男を牛馬などの獣に変えてしまう妖怪であった、という泉鏡花の有名な小説のモデルにもなった高野聖の実態は、どのようなものだったのでしょう。

 中世の高野山では、「高野三方(こうやさんかた)」という、僧侶を区分する制度がありました。すなわち、上部層に位置し、弘法大師の教えを研究する「学侶方(がくりょかた)」、下部層に位置し、学侶方を支え、寺領の管理などを行う「行人方(ぎょうにんかた)」、そして、正式な僧侶の資格を持たず、高野山に留まらず、全国を放浪して、広く弘法大師の教えを説いて回り、高野山に納骨を進めるなど、勧進を主な役割としていた「聖方(ひじりかた)」の三分です。
 弘法大師空海の、真言密教の教えが世に知れ渡るに至ったのにも、高野聖の多大なる功績があげられます。
 高野聖は、教えを説くだけではなく、寺院建立のための寄付を集めたり、町の治水工事や橋の建設などの社会奉仕活動も積極的に行い、公益のために尽力しました。また、現世利益のために、俗世の悪因を取り除く祈祷も盛んに行っていました。
 荒廃した世間から逃れ、高野山に身を寄せて聖になる者もいました。
 また、各地の聖が高野山への納骨参詣を勧めた結果、戦国時代には武田信玄や上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉といった名立たる武将が供養塔を建立し、中には、法然や親鸞といった宗教家のものまで造られました。
 高野山が日本第一の霊場になったのも、高野聖の活躍があったからこそです。

 現在、観音院では、世間に「聖」と呼ばれるような人格者を送り出すために、僧侶養成講座を行っています。
 仏法を広めて、住みよい街づくりを進めていくのは勿論として、世のために尽くし、いたわり、慈しみ、思いやり、相手の気持ちになって考えられる僧侶を育成していきたい所存です。
 東京道場でも、着実に僧侶が育ちつつあります。加行に来られている方は、お仕事の合間をぬって出仕されています。関東周辺の各県から電車などで通われています。
 観音院の僧侶になって、皆さまの豊富な人生経験を、世の人々のために使ってみませんか。
 随時、受講を受付中ですので、是非ともご一考なさってみてください。お待ちしております。