仏の「三十二相」

寅さん ほとけさまは三十二相をお持ちだそうですが、それは一体どのようなものなのでしょう?

ご隠居 仏の三十二相というのは、釈迦如来が九十一劫(こう・きわめて永い時間の単位)という気の遠くなるような永い間に、百福を修(しゅ)して成就(じょうじゅ)された身相荘厳(しんそうしょうごん・けだかくて、おごそかなお姿)であるとされている。
 そのお姿を、私たちが直接拝見(はいけん)することは、むろんできはしないが、往古(おうこ)より伝わる文章によって窺(うかが)い知ることができるから、それらの伝承をもとに、われわれはその広大円満なる仏徳の偉大さを、あらためて認識することができるというわけだ。
 それはともかく、この仏の三十二相はいわゆる応身仏(おうじんぶつ)のお姿であって、人間界のなかにあっては最勝であり、聖中の大聖人である。
 以下は「仏説宝女経」という経典を典拠にして話してみることにしよう。

寅さん 待ってください。その応身仏というのは?

ご隠居 うん、応身仏というのは機に応じ、時や所にしたがって法を説き、人々を救うために顕れる仏のすがたのことだ。
 応身(おうじん)とは、仏のありかたを三つ、つまり法身、報身応身の三身に分類するさいの一つで、衆生を済度(さいど)するために、衆生のそれぞれの機根(きこん)—-仏の教えを聞き取り、理解する能力に応じて、この世界にすがたを現すお釈迦さまに代表されるほとけのことだ。
 ついでにいうと報身(ほうじん)は、菩薩の時代に立てた「願」と、その間の長い修行に対する「報いとしての楽」を受ける理想的な仏のことをいう。
 法身(ほっしん)は、仏の仏たる所以(ゆえん)のもの、つまり法性、真如(しんにょ)そのものであって、色もなく形もないものであるからよく虚空(こくう)にたとえられているようで、「法身は諸仏に共にあり、一切の法に遍せり。猶(なお)し(さながら)虚空の如し。無相なり、無為なり色心に非ずと説けるが故なり」と経論に記述されている。
 話をもどして、仏の三十二相について記述した「仏説宝女経」を見てみよう。
 宝女が仏に訊ねた。
「仏、貴方さまが三十二相を具えられたのは、どのような功徳(くどく)を前の世において積まれ、そのような大人(たいじん)の相が貴方さまの五体全身に顕れたのでございましょうか。」
 仏が宝女の問いに答えて、それはおそらく往古の世において善根を積み、無量の徳を行ったため、それらの徳が集積して、このような現在の相を得ることができたのではないだろうかと、次のようにお説きになった。

 一に足安平相—-すなわち足をゆったりとくつろげ、悠揚(ゆうよう)迫らざる態度で立つ相、それは、昔から持戒堅固にして退転(たいてん)せざるのみならず、いまだかつて、他人の善根功徳を覆蔽(ふくへい・おおいかくす)することがなかったからである。
 二に手足に千輻輪(せんぷくりん)を有する大人の相は、昔いろいろの施しをしたからである。

寅さん その千輻輪とはどのようなものですか?

ご隠居 それを実際に見たわけではないからなんともいえないが、それに似たようなものとしては、インド国旗の中央にあるパターン中心から整然と放射線状に伸びる花模様、あれが千輻輪というのではないだろうか。

 三に手の指が細くて長い大人の相は、昔、よく経義を説いて多くの衆生を救い、それによって彼らのうれいをとり除いたからである。
 四に手足に縵網(まんもう)のある大人(たいじん)の相は、昔、他人の眷属(けんぞく)を破壊(はえ)しなかったからである。

寅さん 縵網というのは?

ご隠居 これは、あみかがり、と訓読みされているが、それが何のことかさっぱり分からない。

 五に手足の柔軟微妙な相があるのは、昔、やわらかい種々の衣服を恵みほどこしたからである。
 六に七処平満なる大人の相は、昔、ひろく諸施を設けてもろもろの貧民を救助したからである。
 七に膝が繊細で円く、長くして鹿足のごとき大人の相は、むかし経典を奉受して遺失しなかったからである。
 八に陰馬蔵相(いんまぞうそう・かくしどころの所在が判然しない)のあるのは、昔、己が身を慎んで、できるだけ色欲のことを遠ざけたからである。
 九に、頬がゆたかな大人(たいじん・徳の高いひと)の相は、昔、広く浄業(じょうごう)を修して修行を全うしたからである。
 十に、胸前に卍字(まんじ・功徳円満の印とされヴィシュヌ神などにある、仏教以前からある古い吉祥印)吉祥万徳の相があるのは、昔、不善穢濁(えだく)の行ない
を排除したからである。
 十一に両手両足の具足円満せる大人の相は、むかし無畏(むい)をもって人に施し、人を慰めたからである。
 十二に臂(ひじ)腕が長く、膝の下まである大人の相は、むかし作(な)すべきことあれば、大いに助力して人を奮い立たせたからである。
 十三に身体清浄にして瑕疵(きず)なき大人の相は、昔、十善を行じてなおかつ、それで満足することがなかったからである。
 十四に、如来の腦戸充満し完備しているのは、昔、病者があれば種々の薬を施して看護したからである。
 十五、如来が四十歯(常人はふつう二十八歯)を具してその歯の白浄なのは、むかし親疎(しんそ・親しいものと疎んじられ嫌われるもの)平等の仁慈を行なったからである。
 十六、如来の歯並びが整然としてきれいなのは、むかし人々のいさかいを諌(いさ)めて和合せしめたからである。
 十七に、うるわしくみめよい髪眉(はつび・髪と眉のはえぎわ)のある大人の相は、過去の世において、善く己れの身口意を護ったからである。
 十八、舌が広くて長い大人の相は、むかしの世に、己れの言葉に至誠(しせい)にして、口の過(とが)を護ったからである。
 十九、片時たりとも倦(う)むことのない真摯(しんし)な相は、昔、無量の福をもって衆生に施し、憐れみ深くおもいやりをもって、衆生の願望があれば努めてそれらを満足させたからである。
 二十に、如来の音声(おんじょう)に哀憐の相があるのは、昔の世において、優しい言葉で相手に接し、口を戒めて言辞(ごんじ)を節し、無数の人々がその言葉を聞いて満悦したからである。
 二十一に如来の瞳子(ひとみ)の紺青のごとき大人の相は、むかし慈眼(じげん・佛菩薩が衆生をいつくしみあわれみ見守るまなこ)をもって衆生を憐察(りんさつ)
したからである。
 二十二、如来の眼に、宵闇の月の出のごとき大人の相のあるのは前世より心性和順であったためである。
 二十三に、眉間に白毫(びゃくごう)があるのは、昔、閑寂幽邃(かんじゃくゆうすい・奥深くてものしずか)の処にあって、もろもろの功徳を修行したからである。
 二十四、頭頂に自然なかたちの肉髻(にっけい・頭の上に髪を束ねたたぶさ)のある相は、聖賢をうやまい、目上の人を礼拝(らいはい)したからである。
 二十五に、如来の肌体(きたい・はだみ)がうるわしくしなやかな大人の相は、前世において心に深く念じてもろもろの法蔵を集合したからである。
 二十六、如来の身体に紫磨金色(しまこんじき・仏身の色)があるのは、前世において衣服、臥具を施したからである。
 二十七に、五体平等に体毛が生えそろっているのは、昔、おびただしく人の集まる場所を避けて、静かなところに安居(あんご)したからである。
 二十八に、その体毛すべてが上に向かい、右に旋回しているのは前世に師長を尊敬し、善友の教導を受け、稽首(けいしゅ・長く頭を地につけて礼をする)して従順したからである。
 二十九に頭髪が紺青色のごとく見えるのは、前世に群生(ぐんじょう・生きているすべてのもの)を哀愍(あいみん)し、刀杖をもって害を加えなかったからである。
 三十に、如来の身体が平正方円—-ほどよく均整ががとれてゆがみまがりのない大人の相は、昔、己れ自身で衆生を勧化して安心を得さしめたからである。
 三十一に、如来の脊骨が堅牢で巍々(ぎぎ)として威容にみちた徳相は、むかし菩提のために仏の形像を建立し、廃寺を修繕し、その離散せる者たちを和合させて無畏をほどこし、そのいさかい争う者たちを感化して和合せしめたからである。
 三十二、頬に大人の相を有するのは、かつて微妙可意(みみょうかい・なんとも言い表しようがないほどの良い)の物をもって、多くの人に施与したからである。

 かくのごとく、過去の世の長い月日において、無量不可思議の功徳を修行したので、かかる三十二の大人相(たいじんそう)をいたすこととなったのである、と申されたという。
 仏教はあくまでも自業自得である。善業悪業みな自身より出でて自身がうける。三世因果善悪応報の道理によらざるものはない。

皆でつくった仏の絵が
  奇しき功力(くりき)を顕し話
      「日本霊異記」より

 河内の国若江の郡弓削(ゆげ)の里に、一人の沙弥尼(しゃみに・十八歳未満の女性出家)がいた。姓名のほどはあきらかでないが、彼女は修行に励み、長ずるにおよんで平群(へぐり・奈良県生駒郡)の山寺に住むことになった。
 尼は近在からあつまってきた信者を糾合して「講」を組織し、それらと語らって四恩(父母、国王、衆生、三宝)のために一幅の仏画を作製した。
 それは仏を中心にして一切の有情(うじょう)がそれぞれの業因によって至り住むところの六道の図を配したたいへんに見事な図柄で、尼をはじめ講衆一同みな満足してその絵を供養し、大切にその山寺に安置することとした。
 あるとき、尼に用事ができて、彼女はしばらく寺を留守にした。
 ところが、彼女の他出している間に、絵が何者かの手によって盗まれてしまったのだ。
 講衆一同おどろき、あわてて、消えた仏の絵を手分けして捜しまわったが、絵の行方はとうとう分からずじまいにおわった。
 講衆のみんなで大事に拝んできた仏の絵は惜しいことに紛失したけれど、それによって講は瓦解することなく、相変わらず尼を中心に信者が蝟集(いしゅう)するので、彼女はあらたに放生(ほうじょう・生き物を自然へ放つ慈善行為)に精を出すことにして、さっそく講衆と連れだって難波へとおもむくのである。
 放生する生き物をさがしもとめ足を棒にしてあちこち歩いた。
 とある市のはずれの大きな樹の下に腰を下ろして疲れを癒していたとき、その頭上から、何やら知らぬが生き物のような声がする。
 見上げると、樹の枝に竹で編んだ箱が一個吊るしてあった。
 生き物らしい鳴き声は、その箱の中より聞こえていたのだ。
 これはきっと小鳥か子犬にちがいない。ならば代価を払い、なんとしてでも手に入れて、野に放ってやりましょう、と、その場にとどまって持ち主を待つことにした。
 ほどなくして戻ってきた箱の所有者をとりかこんで尼たちが、「あなたを待っていました。その箱のなかの生き物を、私たちにゆずってもらえないでしょうか」と口ぐちに頼んだ。
「何のはなしか知らぬが、あいにくこの箱の中のものは生き物なんかじゃない。さあ、さっさと向こうへ行った、行った」と男は野良犬でも追い払うような手つきをしながら、そっぽを向いた。
「譲ってください」
「売り物じゃない」
と、口をきわめて言い募(つの)る両者のやりとりをながめて、その市に居あわせていた人びとが、際限のない交渉の折り合いをつけるために、なかに割って入った。
「どうであろう、いっそのことその箱を開けて、中に入っている物を、ここに居るみんなに見せることにしたら、どうだ?」
 尼たちは、おもいがけない助け船に、みな「うん」とうなずいたが、相手の男はにわかに顔色を変え、箱を捨てて逃げていった。
 そこで問題の箱を開けてみると中はかねてより捜しもとめていた盗難に遭ったあの仏の絵だった。
 逃げた男は、盗みの発覚をおそれた盗人だったのだ。
 尼たちは嬉し涙にくれながら、「この絵像を失ってこのかた、私たちの傷心は一日たりとも癒えることはありませんでした。
 いま、それがふたたびこうして私たちのもとへ戻ってまいりました。なんという嬉しいことでありましょう」と言うのを聞いて、そこに集まっていた人々は、よかった、よかった、さだめし嬉しかろう、と、尼たちとその喜びを共にしたのであった。

予約して安心

「私に万一の事がある時は・・・・」

ご隠居 寅さん、このさいだからこっそりうちあけるが、じつは、私は、観音院さんが今すすめられている「葬儀の予約」というのをお願いすることにした。

寅さん それはつまりあれですか。
 自分の葬式のリザーブを、生前に、ご隠居みずから早手回しに段取りしたというわけですか?

ご隠居 そうだ。私はこの試みはたいへん意義のあることと思う。
 べつに逝(い)き急ぎしているわけではないが、げんに、観音院さんに自分の葬式一切を依頼してからは、肩の荷がとれたように、妙にほっとした気分になって、あと私に残された時間がいくらあるか知らないが、これからの人生を、今まで以上により有意義に送らなければならないという意識が強くなったように感じているところだ。

寅さん へえ、そういうものですかねえ。

ご隠居 寅さんはまだ若いから、「死」というものはずっと先の縁遠い存在かも知れぬが、われわれの年齢になると、「死」はすぐ隣り合わせにあって、それほど疎遠な存在ではないことを理解してほしいな。
 葬式の予約の話はこれぐらいにして、きょうは「古墳」にまつわる物語を紹介することにしよう。

まぼろしの神武天皇 

寅さん 古墳? あの高松塚古墳(奈良県明日香村)などの大昔のお墓のことですか?

ご隠居 うん。でも、この物語は高松塚がつくられたとされる七世紀末の時代より推定約三百五十年も前にさかのぼるものだ。

寅さん すると、およそ西暦三百五十年ごろのことになりますね。

ご隠居 当時、日本の国を統治していた天皇は垂仁天皇であった。
 垂仁(すいにん)天皇といっても若い寅さんにはもうひとつピンとこないだろうが、第二次大戦中小学生だった私などは、歴代天皇を声をだして読み上げ、暗唱していたものだ。
 —– 神武、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神(すじん)、垂仁、景行、成務、仲哀(ちゅうあい)、応神、仁徳、履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)安康、雄略(ゆうりゃく)—- とまあ、ざっとこういった按配だ。

寅さん 垂仁天皇は、これだと、第十一代目の天皇ということですか?

ご隠居 それがどうもそういうわけにはゆかぬ事情があるらしい。
 というのは、現今の古代史学では欠史九代といって、初代の神武から第九代の開化までの天皇は創作された天皇であって、実在しない、というのが学会の定説となっているからだ。

寅さん 神武天皇が実在しなかったとすると、では、じっさいに日本を建国した人はどなたです?

ご隠居 日本建国の真の大立者ははたして誰か? 今いちばん有力な説は、応神・仁徳王朝の始祖王ではないかとされている。この王朝の創始者も、神武天皇のようにやはり九州から大勢の部下を率いて東征し、近畿地方一帯を制圧したといわれている。
 大阪河内(かわち)百舌鳥(もず)古墳群のなかでひときわ大きな前方後円墳・大山古墳(だいせんこふん・通称仁徳陵)、これと並行するように東の古市古墳群には誉田山(こんだやま)古墳の応神天皇陵があり、前者は世界最大規模の陵墓といわれ、全長487メートル、後者もまた430メートルの巨大さだから、この王朝が強大な力でもって難波(なにわ)から大和地方一円を平定したことは、考古学の面からも実証されている。

寅さん すると、これまで私たちが信じてきた神武天皇による大和平定の物語は絵空事ということになりますね。

ご隠居 神武東征説話は「古事記」によると、日向の宮を出て筑紫から船に乗り、豊国の宇佐に到り、また筑紫の岡田の宮に戻って一年滞在し、次に、安芸国の多祁理宮(たけりのみや)に七年滞在し、それから吉備の高島宮に八年滞在し、速吸門(はやすいのと・明石海峡)から難波に上陸するが、兵を興した登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)と戦い、神武の兄である五瀬命(いつせのみこと)は負傷する。
 「吾は日神の御子として、日に向かいて戦うこと良からず」として、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと・神武天皇)は紀伊半島沿いに南下し、そこから八咫烏(やたがらす)に案内されて大和にはいり、橿原(かしはら)に宮を定めて日本の始祖王となった、と記述してあるが、この神武東征説話は「継体紀・越前から大和に入って大王となる継体天皇の事跡を記したもの」、「壬申の乱・天智天皇の亡きあと、その実弟の大海人皇子と、天智の子の大友皇子が天皇位を争った戦」等の史実とあまりにも類似点が多いことが指摘されて、この神武東征説話はどうも後代になって創作された可能性が高いようだ。
 それで先ほども言ったように、神武から開化までの天皇は、やはり創作された可能性が非常に濃いと考えられているわけだ。

紀元は二千六百年 

寅さん それにしても、「古事記とか「日本書紀」は、そんな居もしない天皇をなぜ捏造(ねつぞう)したのでしょうか?

ご隠居 天皇家の万世一系による日本国統治の歴史にさらなるハクをつけたかったためではないだろうか。
「日本書紀」は、日本建国の年、つまり神武天皇が橿原に都を定められた年を、西暦の紀元前六百六十年としている。これは讖緯(しんい)という説によって、推古九年を千二百六十年さかのぼった年という設定のわけだ。
 この讖緯の説とは、干支(えとの一巡六十年を二十一回めぐった時、つまり六十×二十一、すなわち千二百六十年をもって一蔀(いちほう・歴史のひとめぐり)とするので、推古九年(西暦601)を一蔀さかのぼった辛酉(しんゆう)の年を、神武天皇による日本建国の年としたのであろう。

寅さん でも、なぜ推古九年といった中途半端な年をわざわざ選んで、建国年を定めるための起点にしたのでしょうか?

ご隠居 それはおそらく聖徳太子のお考えだろう。当時、推古天皇の皇太子であり、摂政でもあった聖徳太子の強い意志がはたらいていたのではないだろうか。
 太子は推古九年の辛酉の年(しんゆう・革命の年とされる)を新しい日本の出発点と考え、第一の日本をつくったのは神武天皇だとしても、これからの日本をつくるのは太子自身であるという強い自負がそこにはあったように思う。

寅さん 日本建国の日を推古九年から千二百六十年前にさかのぼって定めた事情はなんとなく分かりましたが —–。

ご隠居 しかし、このことは歴史を編纂(へんさん)する当事者にとってはたいへんな苦労を強いられることになった。なぜなら建国の時をはるか昔においたために、それまで語り伝えられてきた天皇だけの数ではその間の長い歴史を埋めることができなくなったというわけだ。

寅さん なので、苦肉の策として天皇の員数を水増しした?

ご隠居 そんな作業によって長い歳月の埋め合わせはなんとかしたものの、一つ困った問題が残った。 というのは、推古天皇(在位592-628)の時代はすでに、応神天皇はともかく、仁徳、履中天皇以下、各天皇の治世の年代がいつからいつごろまでだったか、当時の人々にもだいたい分かっていたから、安易にそれらの歴史をいじるわけにはいかない。
 それでやむをえず推古から数えて二十数代前に茫漠としてかすむ崇神王朝時代にさかのぼり、適当な漢風諡号と和風諡号(しごう)を付して神武以下開化までの天皇をあてはめた。しかし、そこまでしてもまだ問題があった。
 初代の神武天皇から第三十三代推古天皇まで、1260年間の長い歳月を歴代天皇に割り振ってゆくと、各天皇は平均四十年の在位期間ということになり、第十六代仁徳、第十七代履中天皇あたりから天皇の在位期間は、「宋書倭国伝」など中国側の史書によっても明らかだから、そのためやむをえず、それ以前の天皇の年齢をきわめて恣意的(しいてき)に割り振って、平仄(ひょうそく・つじつま)をあわせることにした。
 その結果として、なんと百歳を超える長命な天皇が続出する仕儀となった。
 こっちは、そんなことは知らないから、昭和十五年(1940)、国を挙げての祝日のさい「紀元は二千六百年・・・・」と声をはりあげて無邪気に歌った記憶がある。

古墳異譚(いたん)

ご隠居 たいへん前置きが長くなったが、本題にもどることにしよう。

寅さん なんの話でしたかね?

ご隠居 垂仁天皇と古墳にまつわる話だ。
 邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)たちの生きた弥生時代に引き続いて三世紀後半から七世紀いっぱいを古墳時代という。
 その古墳時代、垂仁天皇が殉死という慣習をやめさせて、その代わり<野見宿禰(のみのすくね)の案により「埴輪(はにわ)」を亡くなった皇后の墓に立てさせたといった物語がある。
 その伝承を紹介すると、垂仁天皇の二十八年冬に、天皇の叔父の倭彦命が死んだので、十一月、桃花鳥坂(つきさか)に葬った際、彼の近習の者を集めて陵(みささぎ・お墓)内に生きながら埋めた。その者たちは数日のあいだ、死なずに、昼夜となく泣きうめいて、ついに死んだが、そのあと腐って悪臭を放ち、犬や鳥が来て喰い荒らした。
 天皇は彼らのその泣き声を聞いて、はなはだ心を痛められ、「生前に可愛がったからといって、死者に殉(したが)わせるのは非常に気の毒だ。この習慣は古来からあるが、これかぎりやめよう」ということにされた。

寅さん ずいぶんむごい話ですね。

ご隠居 うん。でも、こういうむごたらしい風習は古くからユーラシアの内陸部一帯にかけてあったらしく、蒙古ではチンギス・ハーン(成吉思汗)の死後、その長官ならびに将軍の子女四十人を選びこれに美服をまとわせ珠玉を飾って他界へ送り、死者であるジンギスカンに仕えさせたという。
 また、マルコ・ポーロは蒙古の諸ハーン(大王)の葬儀について書いている。
 —-メンゲという大王が亡くなり、その遺骸が墓所に運ばれるさいに行き合わせた者を葬儀に随伴する兵士たちが理不尽にも、「お前たちは他界に行ってハーンに仕えよ」といって、ことごとく刺殺した。こうしてメンゲハーンの遺骸が墓所にたどり着いたときに殺害された者は二万人に達していたと、すこぶる大規模な強制殉死のことを伝えている。
 さて、垂仁天皇三十二年の秋に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなる。そのとき天皇は群卿に「殉死は良くないということを先に知ったが、こんどの葬儀はどうしようか?」と相談されたので、野見宿禰が進み出て、「そもそも君王の陵墓に、生きた人間を埋め立てることは良くありません。そんなことを後世にどうして伝えられましょう。いま良い考えがあると思いますから、皆といっしょに相談して申しあげましょう」といい、使を遣(つか)わして、出雲国の土部(はじべ)を百人呼びだし、野見宿禰みずから土部たちと一緒に粘土で人、馬など形象埴輪、円筒埴輪をつくって天皇に献上して、「今後、この土物(はに)をもって生きている人にかえ、陵墓(りょうぼ)に立てて後世の法といたしましょう」と申しあげた。
 天皇は大いに喜んで、「お前の良い考えは朕の心にかなった」といって褒め、その土物をはじめて日葉酢媛の墓に立てた。そこでこの土物を名づけてハニワとも、また立物(たてもの)というようになった、という。
 こうして垂仁天皇は命令をくだし、「今後、陵墓にはかならずこの埴輪を立てて、人はけっして傷つけてはならない」としたのだが・・それから約三百年後の大化二年の「薄葬令」のなかに、次のような条文がある。
「およそ人死ぬる時に、或いは自らを経(わな)きて殉(したが)い・・みずから首を括って殉死し、或いは人を縊(くび)りて殉わしめ、あながちに亡人(しにたるひと)の馬を殉わしめ、或いは亡人の為に、宝を墓に蔵(おさ)め、或いは亡人の為に髪を切り、股を刺して、誄(しのびごと・死者を悼み、その棺(ひつぎ)の前でその人の生前の徳をたたえて述べることば。弔辞)す。
 かくのごとき旧俗一(もはら)にみな悉(ことごと)く断(や)めよ・・」とあるように、人命を尊重した垂仁天皇のやさしい心配りも効果なく、大化(西暦646年)ごろにいたるまで、依然として人馬の殉葬がおこなわれていたことをしめしており、さらにまた服喪者の自己傷害・・死者を悼んで自分の肉体を傷つける行為—-の風習が根強く存在したことを物語っているようだ。

わざわいの前兆とその実体に恐れおののいた景戒の話

「日本霊異記」より
山部天皇(桓武・かんむ)の御世(みよ)、延暦三(七八四)年の甲子(きのえね)のやどれる冬十一月八日の夜、戌(いぬ)の刻より寅の刻(午後八時ごろから午前四時)にいたるまで、満天の星が繽紛(ひんぷん)とみだれうごき、流れた。

 同月十一月十一日、桓武天皇ならびに皇太子の早良皇子(さわらのみこ)が、奈良の平城宮より長岡の宮(京都府乙訓郡向日町)の大極殿へと遷都された。
 つまり、あの三日前、夜空一面にくりひろげられた流れ星は、じつは天皇の宮をお遷(うつ)しになる前兆であったのだ。

 次の年の秋九月十五日夜、竟夜(よもすがら・一晩中)月面が黒く、光りが消え失せた(月食)。そして、同じ九月二十三日の亥の刻(午後十時ごろ)、式部卿正三位 藤原朝臣種継(ふじわらのあそん たねつぐ・桓武天皇の信任が厚かったが、早良皇太子と不仲であった)が、長岡の宮において、近衛舎人(このえのとねり・天皇の親衛隊)の雄鹿木積(おじかのこずみ)、波波岐将丸(ははきのもちまる)によって射殺された。今にして思えば、先夜、月光が失せたのは、この種継卿の不慮の死の凶兆であったのだろうか。

 同じく桓武天皇の御世、延暦六年秋九月四日の酉の刻(午後六時ごろ)過ぎであったであろうか、ふとした拍子に、僧景戒は、それまで考えてもみなかった我が身のこしかたに、はたと、おもいをいたし、身のおきどころのないほど己れのいたらなさに気づき、大いに恥じ入ったのであった。
「ああ恥ずかしい。せっかくこの世に生まれてきたのに、我はちゃんと生計を立て、堂々と生きてゆく手段をもたない・・」
 愛欲の網の煩悩にとらわれ、まといつかれて、あくせく八方に馳せ回り、懸命に生きている。
 景戒は僧であるが、実際は俗世間に身をおいて、暮らしている。しかし妻子をたくわえ、養う物も無く、米も菜も塩も無く、衣も薪(まき)も無く、いつもすべての物に事欠いて、はなはだ心もとないかぎりである。
 昼も飢えて寒さに震え、夜もまた飢え寒さに震えている。それもこれも、前世において景戒が人に物を施(ほどこ)す行(ぎょう)をなおざりにし、積まなかったためであろうか。「わが心、おこないの、なんという卑しいことか、さもしいことか ・・」と、忸怩(じくじ)たる心地をいだいて就寝した。その夜の子の刻(午前零時ごろ)に「夢」を見た。

 一人の乞食者(こつじきしゃ)が景戒の家を訪れて経を誦(ず)したあと、こう言った。
「上品(じょうぼん・最高度)の善行を積めば、一丈七尺の長身を得、下品(げぼん)の善功徳を修すれば一丈の身長を得る」
 これを聞いた景戒が首をもたげ乞者を見上げると、それはなんと旧知の紀伊の国海草郡楠見粟村に住む沙弥(しゃみ)の鏡日(きょうにち)であった。
 気持ちをしずめてあたりを見ると、その乞者の横に長さ二丈ほど広さ(幅)一尺ばかりの板の札(ふみた・前世における成績の評定)があった。
 そしてその札には、一丈七尺と一丈のしるしが墨黒々と記されているので訊ねた。
「この札に書かれてあるのは上品と下品の善行を修する人の評定なのか?」
「そのとおりである」と、相手が大きくうなずくのに、景戒は慙愧(ざんき)を禁じえず、弾指(だんし・爪の先を親指の腹にかけてはじくこと。自らを悔い恥じるさま)した。
「上品、下品の善を修すれば、より高い身長が得られるという。ひるがえって考えると己れはどうか。
 われは下品の善功徳をすら修していないではないか。それゆえに景戒の身長はそこそこ五尺余りにすぎない。まことに卑しく浅はかなことかな ・・」と、しきりに弾指してくやしがった。
 すると、傍(かたわら)に居る人々が、自嘲する景戒の言葉を耳にし、顔を見合わせながら「いかにも、それはまさしく当たっている」と、互いにうなずいた。
 とりあえず景戒は、白米(しらげよね)半升ばかり、その乞者に捧げて施した。乞者はそれを咒願(じゅがん・恭しく拝んで)して受けると、懐中より書卷を取り出し、景戒に授けて言った。
「これを書写せよ。これは人々を救い導くすぐれた書である」と。
 景戒が見ると、それは大乗経のなかの諸種の事項に関する類文をまとめた「諸経要集」であった。
「たしかに貴重な書物であるが、遺憾(いかん)ながら、書写する紙を持たない」と言うと、乞者は書き古した紙を取り出し、景戒に与えて、告げた。「この反古(ほご)に写し取ればよいであろう。その間、われは他処において乞食することにいたそう」と、くだんの札とその書物を置いて立ち去った。
 それを見ていて、「あの沙弥は、つね日ごろより、あのように乞食(こつじき)する人にはどうしても見えないが、なぜ乞食するのであろうか」
「どうせ、子だくさんで四苦八苦し、食うに困って、やむなく、ああして乞食し、家族を養っているのだろうよ」と、かたわらの者が呟いた。

 ・・ たいそう奇妙な「夢」であり、それが、いかなる意味合いのものなのか、未(いま)だ判然としないが、ひとつ言えることは、仏の尊い「おさとし」であることにはまちがいない。

 あの鏡日によく似た沙弥は、おそらく観音が姿を変えたものか。
 そもそも具足戒(ぐそくかい)を受けていない者を沙弥という。観音もまたしかり、既に観音菩薩は正しい悟りを開いているけれども、ひとり如来とは成らず、衆生を救わんがために、衆生と共に、あえて菩薩として成仏修行の中の地位に甘んじている。
 したがって、その乞者の姿は、法華経観世音菩薩普門品に説かれているところの「三十三現身」のうちの一つである。
 そして上品の一丈七尺とは仏菩薩が住む世界のあらゆる徳のあらわれであるという。
 下品の一丈とは人天有漏の苦果(にんてん・うろのくか、有漏とは煩悩執着。苦果はその苦悩のあらわれ)なり。
 また、景戒が慙愧(ざんき)し、弾指して恥じたのは、自分とて本来、善の素因を有しているはずであるから、これよりのち、修行を積んでゆけば、先世の罪を滅し、とこしえに後の善を得られることとなる。
 したがって、剃髪(ていはつ)し、袈裟(けさ)を着、弾指する仕ぐさとは、とりもなおさず罪を懺悔(さんげ)し、滅し、福を得ることにほかならない。
 また、景戒の身長がわずか五尺余に達するばかりというのは、五尺とは、因縁によって衆生が住むべきはずの五趣(ごしゅ)の世界(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上界)の因果のことである。
 そして、五尺余の余とは端数のことで、この端数の意味は、上界に往生(おうじょう)するか、下界に往生するか定まらない性質のものであるから、心の持ち方しだいでは、五趣の上位の世界に往生が可能となる。
 なぜかというと、余とは尺でもなく丈でもなく、数が不定であるだけに、心の持ち方しだいで上位にも、また、まかりまちがえば下位の畜生、餓鬼道の苦界に堕ちる因ともなりうるからである。

 また、白米(しらげよね)を捧げて乞者に献じたその意味は、大白牛車(だいびゃくごしゃ・白くて大きな牛の引く立派な車。この車によって火宅無常界を離れることができる)を得るために、願を発し、仏を造り、大乗経典を清書し、ねんごろに善因を修することである。

 乞者咒願(じゅがん)して受けるとは、観音菩薩が、その願いを聞き届けてくださることを意味する。そのうえで、書巻を出して景戒に授けたのは、汝、これよりあらたに善因を重ねて、仏道修行に励み、よりいっそう智慧(ちえ)を加えよということであり、書き古しの反古(ほご)をくれた理由は、日々の暮らしに追われて、久しく表面にあらわれてこなかった景戒の仏性(ぶっしょう・善の素因)も、仏法を護持(ごじ)することにより、善を積みかさねることにより、やがては、菩提(ぼだい)を得ることも可能である、ということである。

 そして、「我、他処へ往き、乞食して還り来らむ」のくだりの「他処に往き、乞食する」とは、観音菩薩の慈悲心が世界じゅうにゆきわたり、私ども衆生をもれなく救うということであり、「還り来らむ」とは、景戒の願いが叶えられたあかつきにおいて、智慧と福徳をかち得る、との意味合いであり、また、「常に乞食する人にあらず」とは、景戒が「願を発しない」かぎり、なにも感じるところがないし、何も起こりはしないということだ。

 さらに「夢」のなかで「何のために乞食しているのか」と訊ねているわけは、乞食するということは、いま願うところに応じて、福がようやくのことに自分にもまわってくることを意味し、「子多数(あまた)有り」とは、観音菩薩さまが教化(きょうけ)する対象である衆生のことである。

「養う物無し」とは、仏性をまったく有しない種類の衆生は、仏道を成就(じょうじゅ)させる手段が皆無であるから。そして「乞食して養う」とは、天上界、人間界における仏縁の端緒(たんしょ)をつかみとろう、つまり、福徳が招来(しょうらい)されるということにほかならない。

 ・・ また、僧景戒は、ある夜「夢」を見た。延暦七年春三月十七日の深夜のことである。
 景戒はすでにこの世の人間ではなかった。その死骸は、うずたかく積まれた薪(たきぎ)によって荼毘(だび)に付されていた。
 そして景戒の霊魂は、我が身の焼かれているそのかたわらに立ち、その有り様をじいっと見つめていた。けれども屍(かばね)はおもうようになかなかうまく焼けない。
 そのため、みずから小枝を持っておのが身をつついたり、裏返したりして焼いている。
 ようやくにして遺体に焔(ほのお)がまわりはじめたので、安堵(あんど)し、我より先に焼かれていた者に、「我がごとく上手に焼いてみなされ」と、よけいな、さしで口をきいて教えた。
 やがて、己れの足も膝関節の骨も、また肱や頭蓋骨まですっかり焼けおちたのであった。
 そこで景戒の霊魂は、声を張り上げて叫んだ。だが、すぐそばに居る人にも、その呼びかけは届かない。その人の耳に口をあてて懸命に大声で語りかけているのに、むなしく言葉がかき消えて、相手には届かなかった。
 ここにおいて、ようやく景戒は思いあたったのであった。死者の霊魂は、声を有していない。したがって、わが叫び声は決して相手まで到達しない、ということなのだ、と。
 まさに奇妙きてれつな「夢」を見たものであるが、はたしてあの夢は何を意味し、何の予兆なのか、いまだ我が身辺にそれらを暗示する何事の異変も見当たらない。
 が、もしかして、あの「不可解な夢」は、景戒が長生きするという神仏の示現(じげん)であろうか。あるいはまた、官位を得、出世するということなのであろうか。以後、あの夢の答えが、いかなるものであるのか、ゆるりと待つこととしよう。

 ・・ そうこうしているうち、延暦十四(七九五)年の冬十二月三十日、景戒は伝燈住位(僧位の第四位にあたる)を得たのだが・・
桓武天皇がおなじ平安の宮に天下治(あめのしたおさ)めたまいし延暦十六年夏四、五月ころ、景戒の部屋の蔀戸(しとみど)の外で夜毎に狐の鳴き声を聞く。そのうえ、景戒が私的に建てた小堂の壁をうがちて、狐が堂内に入り込んで、罰当たりにも仏坐の上に糞尿を垂れ流して汚し、昼日中においても屋戸に向かって鳴いたりするようになった。
 そして、それから約七ヵ月余を経た十二月十七日、我が愛する息子が亡くなった。
 また、延暦十八年の十一月下旬景戒の家のまわりで、ふたたび狐が鳴き、なにがどうなったのか夏の虫であるニイニイ蝉まで啼くしまつであった。
 さらにその翌年の延暦十九年の正月十二日、景戒が大事に飼っていた駒が死んだ。どこが悪くて死んだのか、その原因がさだかに分からぬうちに、同じ月の二十五日さきの馬のあとを追うようにしてもう一頭の駒が死んだ。

 景戒の周辺において、こういう変事をたてつづけに経験したあげく、つくづくと思い知ったことは、いったいにわざわいの「前兆」といったものは、こういうかたちによってふいにあらわれ、その後にその災禍(さいか)が実体をともなって襲いかかってくるものであるということを・・。
 しかるに景戒には、災難を未然に除去する陰陽道(おんみょうどう)の心得もなければ、天台智者(てんだいちしゃ・智顗[ちぎ](539~597)は中国天台宗の確立者で、日本においても高祖と仰がれる)の奥深い哲理も理解してないから、いまは腕をこまねいて災いを甘受するよりよい方策もなく、ただひたすらに心配するばかりである。
 かくなるうえは、さらなる仏道修行の専念あるのみである。

修行の僧を迫害しかえってひどい目にあった話

「日本霊異記」より

 昔、故京(旧都・平城京に移る以前の都であった藤原京、飛鳥京のこと)の頃の話である。
 ひとりの愚かな男がいた。とにかくこの者は、道理とか人情とかをどこかヘ置き忘れてきたようなたぐいの、どうしようもない人間であった。
 あるとき、その男が住む家の門口に托鉢(たくはつ)の僧が立った。屋内からそれを見ていた男は、托鉢僧がいつまで経っても門前を去る気配がないのに腹を立て、目障りな僧を縛り懲(こ)らしめてやろうと、理不尽にも縄を手にすると怒号とともに戸口からおどり出た。
 ただならぬ男の血相に驚いた僧は、水を張ったばかりの田んぼ伝いに走って難を逃れようとしたが、男は執拗に僧を追いかけまわして捕まえようとするので、僧の忍耐と我慢もそこでぷっつり切れた。
 僧は右へ左へと走りながら、いそぎ呪文(じゅもん)を口に唱えると、まさに掴みかかろうとする男の身体を呪縛(じゅばく)して、自由を奪ってしまったのである。
 にわかに五体を金縛りにされた男は、棒が倒れるように転び、ようよう立ち上がると、不格好な姿でその辺を右往左往する。そんな男に憐憫の一瞥(いちべつ)をくれると、僧は足を早めてその場から立ち去り、あとを振り返ろうともしなかった。
 さて、この愚かな男には二人の子がいた。呪文をかけられて動けなくされてしまった父親の身体をなんとか元通りにしてやりたいと思って、子らは足を棒にして、毎日、呪文をかけて去った僧を捜し歩き、ようやくのことにその寺を捜しあてた。
 さっそくその寺を訪ねると、応接してくれたそこの寺の高僧に、どうか父親の呪縛を解いてくれるよう懇願した。が、高僧はなかなか「よろしい」とは言ってくれなかった。
 二人の子はそれでも諦めず、なおも、ねんごろに、父親の厄難を取り除いてくださいませ、と高僧の膝にとりすがらんばかりにして頼みこんだのである。
 理由もなく自坊の弟子の僧を辱めた愚人を救うのは、高僧としても不本意でいやだったのであろうが、父親をおもう二人の子の情愛にほだされたのか、高僧は、おもむろに外出の支度をすると、子らに案内されて男の家へと赴いた。
 そして、おごそかに観世音菩薩普門品(ふもんぼん)の初めの段を誦(ず)し終える頃合いに、男はそれまでの呪縛から身体を解き放たれたのである。
 このことがあってのち、くだんの男は信心を起こし、邪を転じて正に向かう人間になったという。

寅さんの疑問

寅さん ご隠居にお聞きしますが、この「日本霊異記」を著述した景戒さん、ですがね。

ご隠居 あらたまって何だ、景戒さんがどうかしたか?

寅さん この人は、だいたいいつ頃の人です? たしか「日本霊異記」に記載されている最終年代の説話は平安時代初期、嵯峨天皇の頃までだということでしたが。

ご隠居 そのとおりだ。前回も述べたように、景戒が「霊異記」撰述に取り組んだ期間は、光仁天皇の延暦六(七八七)年から嵯峨天皇の弘仁十四(八二三)年、三十七年間の長きにおよぶといわれている。

寅さん そうすると、これは私の当て推量ですが、この景戒さんはお大師さまとほぼ同時代を生きていた、というふうに考えてよいでしょうか?

ご隠居 もちろん。お二人は同じ時代の人だ。ただ残念ながら景戒さんの生まれ年も没年も分からない。
 若いころの景戒さんは市井(しせい)にあって、私度僧(しどそう)として暮らしていたようで、むろん彼には妻子もいたであろう。そういう庶民的な生活環境にあったからこそ「日本霊異記」に収録された多くの民間伝承を採集できたともいえる。
 そして「霊異記」の撰述に本腰をいれて取りかかっていた頃には、すでに彼は奈良の薬師寺に定住して、著述のかたわら僧侶の勤めに励む毎日であったようだ。

寅さん 景戒さんの没年がいつだか分からないにしても、「日本霊異記」に収録されたいちばん最後の説話が弘仁十四年だとすると、当時すでに朝野に名声嘖嘖(さくさく)たるお大師さまの評判を、景戒さんが知らないわけはありませんよね?

ご隠居 むろん知らぬはずがない。
 唐の長安青竜寺で恵果さまから伝法を受け、真言密教の第八世法王として日本へ帰ってきた僧空海に対し、当時の朝廷も奈良仏教界も多大の期待を寄せていたらしいから、同じ奈良の僧侶である景戒も、この新来の僧の動向に強い関心をもって注目していたはずだ。

寅さん そこで私が聞きたいのは「霊異記」にはなぜお大師さまの話が出てこないのでしょうかね。
 私はこの欄に「日本霊異記」が紹介されるたびに、もう出るか、もう出るかと心待ちにしていましたが、お大師さまの話はいっこうに出てこない。これはどういうわけでしょう?

ご隠居 それは寅さん無理というものだ。
「日本霊異記」にあるこの種の話は、人から人へ長い歳月をかけ、尾ひれをつけて伝承されたものだ。
 だから、どれほどに、お大師さまにまつわる不思議な話であったとしても、それは景戒からすればニユースであって、説話としてまだ成熟していない。
 たとえば、お大師さまが乙訓寺(おとくにでら)の柑子(こうじ・みかんの一種)を嵯峨天皇に贈られた話など、「日本霊異記」の話柄(わへい)として好個の内容のものだが、こういう話が説話化されるには、少なくともあと百年の時の経過を必要とするであろう。

 沙門(しゃもん)空海、言ス。
乙訓寺ニ数株ノ柑橘ノ樹アリ。例ニ依ツテ、交ヘ摘ンデ取リ来レリ。
数ヲ問ヘバ千ニ足レリ。色ヲ看レバ金ノ如シ金ハ不変ノ物ナリ。
千ハ是レ一聖ノ期ナリ。—- 

 以上は、お大師さまが、柑子に添えて天皇に献じた文章で、果実の数を千個にして帝(みかど)の天寿をことほぎ、黄金が不変であることにかけて、嵯峨天皇の永久の健康を祈念する、といった文面になっている。

満農池とお大師さま

ご隠居 せっかくだから、そのころのお大師さまの消息を年表風にここでおさらいしてみよう。

 大同元年(八〇六)十月、唐より帰朝。筑紫太宰府に滞在する。
 大同四年、京の高尾山寺に居を定める。
 翌年の弘仁元年(八一〇)国家鎮護のための修法をおこなう。
 この年(三十七歳)東大寺別当(寺院の事務長官)。
 弘仁二年、乙訓寺別当
 弘仁七年、高野山開創の上表文を提出し、勅許される。
 弘仁十年、高野山開創に着手。
 弘仁十一年、伝燈大法師位、内供奉十禅師となる。
 弘仁十二(八二一)年、四国の満濃池修築工事別当。
 弘仁十四年、密教道場として、東寺を賜る。

寅さん 満濃池の工事についてはたしかちょっとしたエピソードがありましたね。

ご隠居 満濃池は、高野の大師が讃岐の国の人々をあわれんで築いたという伝承があるが、実際にはこの地方の日照り、洪水に備え、灌漑(かんがい)用として、お大師さまより百年も前にすでにそこに水を湛えていた。
 ただ、この池はよく決潰した。とくに、弘仁九年には収拾しがたい大決潰を引き起して泥海と化し、あたり一面の人家や田畑が流出した。
 そのため国司がこれを改修しようとして三年間復旧工事をしつづけたが、池が大きい割合に人手が少なくて容易に完成することができなかった。雨季になると、そのつど崩れた。
 住民はたまりかねて、京においでのお大師さまをわずらわし、築池使に任命してくれと請願した。そこで、国司から改めてお大師さまに工事監督として讃岐に来てもらうように願書が朝廷に差し出された。
 そのときの願書にこうある。

伝燈法師位空海をして満農池を
 築く別当に宛てんことを請う状

「—-築池使路浜継等、去年より始め、勤めて修築を加ふ。然るに池大にして民少なく、築成未だ期せず。今、諸郡司等の申して曰く、僧空海は郡下多度郡の人なり。行、離日に高く、声、弥天に冠たり。山中に座禅せば、鳥巣ひ獣狎る。
 海外に道を求め、虚しく往きて実ちて帰る。これによって道俗、風を歓び、民庶、景を望む。居るときはすなはち生徒、市をなし、出ずるときはすなはち追従、雲のごとし。今、久しく旧土を離れて、常に京都に住す。百姓、恋慕ふこと実に父母のごとし。もし師来ると聞けば、郡内の人衆、履(くつ)を倒(さかしま)にして来たり、迎へざるなし。
 伏して請ふ、別当に宛て、その事を成らしめたまへ——。   弘仁十二年四月」

ご隠居 これを要約すると、これまで三年間、路浜継(みちのはまつぐ)を築池使として、満農池の修築工事をこころみたが、何分にも各村々に割り当てた徴用の人数にかぎりがあるため、いまだ竣工に至っていない。
 さて、どうするか。関係者一同思案にくれていたとき、期せずして皆の意見が一致した。かくなるうえは我らと同郷であるあの空海和尚のお力にお縋(すが)りするより他に方法はない。
 あらためて言うまでもなく、空海和尚の名声は日に日に高く、今や天をおおうばかりである。和尚は一留学僧(るがくそう)として唐へ渡り、長安より真言密教第八世法王として帰国された。
 今まで誰もなしえなかったこの破天荒の快事に、道俗を問わずその教化(きょうけ)を待ち焦がれている。
 高尾山寺にあるときは、弟子たちが周りにむらがり、山を下りて他出すれば、列をなしてうしろにつき従う。そういう噂を聞くにつけても、讃岐の人々の空海和尚を恋い慕う気持ちは父母のごとくである。
 もし和尚が来られると聞けば、履物をたがえるくらい慌ただしく飛び出してお迎えするだろうから、ぜひ和尚を工事の長官にご任命ください、という内容だ。

寅さん で、お大師さまは?

ご隠居 京から讃岐まで、道筋ごとに国司以下すべての役人が出迎えるなか、当のお大師さまは若い沙弥一人と四人の童子をつれて行かれたそうだから、助さんと格さんをお供に、おしのびで野原を行く水戸黄門をなんとなく彷彿(ほうふつ)とさせる風景だな。

寅さん で、首尾はどうでした?

ご隠居 首尾もなにも、お大師さまを待ち焦がれていた人々が、またたくまに、近郷近在から整理するのに困るほど馳せ集まってきたから、さしもの難工事がこのあと一ヵ月ほどで完成したという。

法華経を誦む人をあざけったため 口がゆがみ悪報を得た話 
                         「日本霊異記」より

 昔、山背国(やましろのくに・京都府)に、一人の自度僧(官の許可を得ないで勝手に僧の姿をしている人・私度僧)がいた。姓名は不明である。
 この男は、表向きこそいかにも僧侶であるという風を装っていたが、日々の暮らしの実態は僧というにはほど遠く、暇を惜しんで碁ばかり打ち、それを最上の娯しみにしているといった人間であった。
 その日も、いつものごとく碁敵(ごがたき)の白衣(びゃくえ・僧の黒衣に対する在家のこと)を相手に碁盤を囲んでいた。
 そんな折り、一人の乞食(こつじき・仏道修行を名目にして食を乞う者。律令制国家の当時はこういう年貢負担から逃亡したエセ修行者が多かった)が、どこからかふらりと現れ、碁盤を囲む二人の前につっ立って法華経品を誦みはじめた。
 僧を自認する男は、最初のうちは黙って、その乞食僧をうるさそうに、あっちに早く行けといわんばかりに、ただ睨むだけであったが、法華経の読誦が際限もなく延々とつづく様子に、ついには囲碁どころでなくなった。
 勝負への集中力を欠いた男は、やがて碁はそっちのけにして、ことさらに口許(くちもと)をゆがめて、発音、発声の訛(なま)りそのまま、経を読む乞食僧の物真似を始めたのである。
 相手の白衣は、悪ふざけする男を碁盤ごしに窺(うかが)いながら、一目一目、碁石を打つたびごとに、
「あな畏し、あな恐ろし(おそれおおいことだ、つつしむべきだ)」
と、ぶつぶつつぶやいた。
 二人はそのあともずっと碁を打ちつづけたが、そのたびに白衣が勝ち、男が勝つことはなかった。
 そればかりか、負けつづける男の口が、いつの間にか、だんだんと醜く歪んでいったのである。それから以後どんな治療も効果なく、終生治癒することがなかった。
 法華経普賢勧発品にいわく、
「もし、この経を軽んじ嘲笑する者あらば、世々に歯が欠けてまばらになり、唇がくろずみ、鼻がへこみ、手脚が歪みねじれ、目は藪睨みとなるべし」とあるのは、すなわち、このことであろうか。
 たとえ邪鬼にとり憑(つ)かれてたわごとを口走ろうとも、ゆめゆめ、持経者をあざけり、悪口を吐いてはならない。
 おたがい口業(くごう・妄語、綺語、悪口、両舌)は厳にいましむべきである。

行基大徳が怨みを見抜いて霊異を示した話

 「日本霊異記」より
行基大徳(ぎょうきだいとく・六六八–七四九)は難波の入江を堀り拡げて船着場をつくり、道俗(どうぞく・僧と在家)をとわず、仏法を説いて教化(きょうけ)につとめていた。

 その日も、河内国の若江の里で大勢の人が集まり、行基大徳は法を説いていた。その聴衆のなかに子どもを連れた一人の女人(にょにん)がいた。
 ところが説教の間じゅう、その子があらんかぎりに大声をはりあげ、泣きむずかって、大徳の説法に熱心に耳を傾けている聴衆みんなの顰蹙(ひんしゅく)をかうこととなった。
 見れば、その子はすでに十歳くらいなのに、しきりにまだ母親の乳や食べ物をねだって、あたりかまわず泣きわめくのをやめようとしなかった。
 そのときである。行基大徳が物静かに女人に声をかけた。
「これよ、そこの嬢(おみな)、あんたが連れているその子を、いますぐここから連れ出して、大和川の淵に捨ててきなさるがよい」
 これを聞いた聴衆は一様におどろいた。
「いくら聞き分けのない憎たらしげな子とはいえ、いつも慈悲深い和尚様が、どんな深い理由があって、そのような乱暴なことをおっしゃるのか」と、ひそひそ囁き合った。
 思ってもみない無情な言辞を大徳からあびせられた女人は、ますますしっかりと子を胸元にかき抱き、それでもそのまま最後まで説法を聞いて帰った。
 そして翌日、またもや女人がその子を連れて説法場に姿を現した。
 眉をひそめて迎える聴衆に応えるように案の定、子どもは昨日にも増して、かまびすしく泣きわめいた。そのやかましさに妨げられて、せっかくの法話も十分に聞き取ることができず、一同の迷惑このうえない。
 そのとき、行基大徳が女人に強い視線をあて、声をはげまして大喝(かつ)した。
「その子を淵に投げ捨ててこよ!」と、昨日の言葉を重ねてくり返した。
 女人は、大徳の真意がいずれにあるのか、よく分からないながらも、子のあまりなやんちゃに我慢がならなかったのか、無我夢中で表へ出ると、言われたとおり淵へ投げ込んだのである。
 すると、子どもは川のなかからぽっかり浮き上がり、水面をバシャバシャたたきながら、目を大きく怒らせて、憎々しげに捨てぜりふを吐いた。
「なんとも無念である。これから先、さらに三年間、気の済むまで汝を責め苛(さいな)んで、とことん絞り尽くしてやろうと思っていたのに・・・・・・」と。
 女人には、それがどういった意味なのか、まったく理解できなかったが、とりあえず大徳の言いつけどおり事を果たしおえたので、ふたたび説法場に引き返した。
 ぼんやりと心ここにあらずといった表情で立ち現れた女人に、「いかがした、首尾よくあの子どもを淵に投げ捨てることができたか?」と大徳が訊ねるのへ、女人はそのときの情況を逐一話した。

 行基大徳は女人の話を目を細めて「ふん、ふん」とうなずきながら聞き取り、そして言った。
「よいか。あんたは先の世において、あの男から物を借りたまま返済せずに死んでしまったため、男があの子どもに姿を変えて、その負債の元本と積み重なった利息の分をも責め取ってやろうと、あんたにとり憑(つ)いた、つまり、あれは、前世(ぜんせ)におけるあんたの貸し主だったのだ」と。
 心すべきはかくのごとく、人から借りた分を返済しないで、どうして勝手に死ぬことができよう。
 後の世にかならずその報いがあるものである。
 出曜経にいわく、
「他人から銭一文だけの値(あたい)の塩を借りて返さないばかりに、次の世において牛に生まれ堕ち、重たい塩袋を背負って毎日追い使われ、貸し主に労働力によって返済しなければならない」というのは、けだしこういう意味のことであろうか。

日本霊異記と行基さん

ご隠居 この佛教談義において、日本霊異記からその都度いろんな物語を抜粋して、取り上げて紹介してきたので、寅さんも、この書物の言わんとしているだいたいの思想はほぼ掴んでいるとおもう。

寅さん 物語の中核をなしているのは、「悪いこと」をしたら、必ずその「報い」があるということですか?

ご隠居 もちろん根底にある思想はそのとおりだが、もうひとつ、日本霊異記は、佛教が我が国に浸透していったその時の「霊異」をさまざまなかたちで描こうという意識がはたらいているのではなかろうか。
 その頃は社会に四苦八苦が満ち、庶民は常に死や病、貧困や不平等、恐怖におののいていた。
 この日本霊異記は、詳しくは、日本国現報善悪霊異記といわれ、平安時代初期のころに成立した日本最古の「佛教説話集」とされ、雄略天皇から嵯峨天皇のころまでの、朝野の異聞をはじめ、因果応報などに関する説話など、ざっと三百五十年間にわたる説話が収録されている。

寅さん 著者は誰でしたっけ?

ご隠居 薬師寺の景戒(きょうかい)という僧だ。ただし正確にいうと、景戒さんは著者ではなくて撰述者、つまり方々から伝説口碑(言い伝え)を拾い蒐(あつ)め、それを一冊の本に編集した人というのが正しいだろう。
 日本霊異記は、この本の性格上当然のことながら、たくさんの僧侶が物語のなかにいろんなかたちで登場する。
 今号で紹介した行基さんもそのうちの一人、というよりもむしろレギュラーといってよいほどの頻度でその姿を現す。

「行基大徳、天眼(てんげん)を放ち、女人の頭に猪の油を塗れるを視て、呵責する縁」であるとか、また「三宝を信敬し、現報(げんぽう・現世に業因を造って現世に受ける報い)を得る縁」の章では、聖武天皇の代における行基の活躍について語られ、多くの寺が造られ、仏が作られた。その中心人物が行基であり、行基は文殊菩薩の生まれ変わりであるとさえ言っている。

寅さん つまり景戒さんは、行基さんが大好きで、尊敬していた?

ご隠居 まず間違いないだろう。
 まだ若いころ、行基さんも薬師寺の僧であったそうだから景戒さんの先輩ということになる。彼はそこで唯識論(法相宗)を学んだ。
 そしてたちまちにして唯識論を悟った行基さんは、すぐにそれを実践に移した。
 そのような行基さんのもとへ、彼に帰依(きえ)した人々が集まって俗に行基集団なるものが形成され、民衆のために橋を架け、道を拓き、多くの寺が建立(こんりゅう)されたという。
 それ以前の佛教は、あくまでも貴族のためのものであって、僧侶も国家や貴族の庇護のもと、その貴族佛教としての性格を脱却できなかった。
 しかし、大乗佛教というものは本来、「菩薩の行い」、あまねく「民衆の救済」にあるわけだから行基さんの行動はまさに、貴族の占有物となっていた佛教を民衆の側に取り戻した、というわけだ。

「小僧」から「大僧正」へ

寅さん 行基さんというのは、だいたいいつ頃の人ですか?

ご隠居 天智七(六六八)年、和泉の国の生まれとされている。
 ただし、この人が僧として布教活動を始めた最初のころは、かならずしも順風満帆というわけにはいかなかった。いやむしろ、彼の活動が活発で目立てば目立つほど町や村の秩序を取り締まる役人たちにとって、目障り極まる存在であったらしい。
 ここに、その行基のことについて書かれた「続日本紀(しょくにほんぎ)」の記事がある。これは養老元年(七一七)に出された詔書(みことのり)だから、すでに彼は五十に近い年齢なわけだ。

 —- 凡そ僧尼は寺家に寂居して教を受け、道を伝ふ。令に准ずるに云く、其の乞食(こつじき)する者あらば、三綱(さんごう)連署して、午より前に鉢を捧げて、告げ乞へ。此に因りて更に余物を乞ふを得ざれ、と。
 方今、「小僧行基」並びに弟子等、街衢に零畳して妄りに罪福を説き、朋党を合せ構へて指臂を焚き剥(は)ぎ、歴門仮説して強ひて余物を乞ひ、詐りて聖道と称して百姓を妖惑し、道俗擾乱して四民業を棄つ。 —-

寅さん 非常に難解ですが、そもそもこの「続日本紀」とは?

ご隠居 奈良時代から平安時代に編集された日本の正史のうちの一書で、「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「文徳実録」「三代実録」を総称して六国史という。
 さて、ここに書かれている内容だが、およそ僧尼は寺に静かに住して修行するものだ。

 僧尼令(りょう)の規則によれば、托鉢は午前のうちに済ませてしまい、それより以後乞食(こつじき)してはならぬはずであるが— 。
 近頃あろうことか、どこの馬の骨とも定かでない行基という小僧と弟子が、我が物顔に町辻にあふれてこれと目星をつけた家の門を叩いて物をもらい、百姓を惑わして農事の意欲を喪失させ、著しく社会の秩序を乱している。まことに けしからん所業(しょぎょう)である、と。
 このように、行基さんは多くの人々に崇敬(すうけい)され、民衆の圧倒的支持を得ていたが、反面、時の政府筋には要注意人物としてマークされ、目の敵にされていたわけだ。
 ところが、それからほぼ三十年後、突然に行基さんは「大僧正」として「続日本紀」に登場する。「小僧」から「大僧正」となった彼の身にどのような変化が生じたのか、天平勝宝元年(七四九)の行基の「卒伝(そつでん)」を見てみよう。

 —-二月丁酉。「大僧正行基」和尚遷化(せんげ)す。和尚は薬師寺の僧なり。俗姓は高志(こし)氏和泉国の人なり。和尚は真粋天梃にして徳範夙(つと)に彰はる。
 初め出家せしとき瑜伽唯識論を読みて即ち其の意を了しぬ。既にして都鄙(とひ)に周遊して衆生を教化(きょうけ)す。道俗化(け)を慕ひて追従する者、動(やや)もすれば千を以(もち)て数ふ。行く処、和尚の来るを聞けば巷(ちまた)に居る人なく、争ひ来たりて礼拝す。
 器に随ひて誘導し、咸(ことごと)く善に趣かしむ。また親(みずか)ら弟子等を率いて諸(もろもろ)の要害の処に於て橋を造り陂(つつみ)を築く。聞見の及ぶ所、悉く来りて功を加へ不日にして成る。百姓今に至るまで其の利を蒙れり。
 豊桜彦天皇甚だ敬重したまふ。詔(みことのり)して大僧正の位を授け並びに四百人の出家を施す。
 和尚、霊異神験、類を触れて多し。時の人号して行基菩薩と曰ふ。
 留止(るし)する処に皆道場を建つ。その畿内に凡そ四十九処、諸道にもまた往々して在り。弟子相継ぎて皆遺法を守り今に至るまで住持す。薨ずる時、年八十。

大仏開眼と行基 

ご隠居 わずか三十年ばかりの間に、なぜ、これほどまでに行基さんの評価が大きく変化したのだろうか? 三十年前までの行基は、あやしげな言辞を弄して百姓たちをたぶらかす、どうしようもない不良な「小僧」だったはずなのに一転して、こんどは「大僧正」と奉られている。「卒伝」はいう。
 行基は都にかぎらず、どんな辺鄙なところにまで、労を厭わず出かけていって佛教を説き、民衆を教化した。そんな彼の徳を慕い、現代風にいうと、いわゆる行基の「追っかけ」がわんさと詰めかけ、
 —-行く処和尚の来るを聞けば巷に居る人なく、争い来りて礼拝すというくだりの文章は、私たち年代の人間には、なぜかNHKラジオの放送劇「君の名は」が思い浮かぶ。

寅さん なんでまた?

ご隠居 「君の名は」というのはお互い好意をもつ氏家真知子と後宮春樹という主人公のすれちがい劇で、なかなか愛する二人は会うことができない。そのもどかしさがハッピーエンドをねがう多くの女性を熱狂させ、紅涙をしぼった。
 その結果、「君の名は」の放送時間、たしか午後八時だったと思うが、その時間日本中の銭湯の女湯はどこもガラガラになった。

寅さん 「君の名は」と女湯の因果関係は?

ご隠居 昭和二十年代の日本は総じてまだ貧しく、内湯を持たない大半の人はお風呂屋さんの厄介になっていた。ここまでいえば寅さんもおおよそ察しがつくだろう?

寅さん その時間、大方の女性がラジオにかじりつき、洗面道具を持って風呂屋に行かなかった。

ご隠居 ご明察。行基和尚が説法する場所には雲霞のごとく人が群がり、そのかわり町の通りは人影がぱったり絶えてしまう。
 この空疎な町のたたずまいが、どこか「君の名は」にお客をさらわれた、あの頃の銭湯の悲哀に通じるではないか。
 ただこれは、あくまでも当時の純朴な社会的現象を言ったまでで、何か他意があって、行基さんと彼に教化された民衆を揶揄(やゆ)するつもりなど決してないから、念の為。
 とにかく、民衆の圧倒的な人気を背景にして活動する行基を、お上(かみ)はどうすることもできなかったが、やがてそのお上の方針が百八十度転換する。つまり行基は、僧尼令違反の民衆を惑わす僧から「民衆を救う僧」へと一変したわけだ。
 これはもちろん彼の変化ではなく、お上の変化だ。とくに、天皇在位のままで出家した聖武天皇の誓願「大仏開眼」という大事業に、行基さんの援助が、何よりも必要だった、ということだろうか。