お大師さま(二)

■ 真魚(まお)さまご生誕■

 弘法大師・空海、お大師さまは光仁天皇の宝亀五年(七七四年) 青葉香る六月十五日にお生まれになりました。
  高野山では毎年、六月十五日は「青葉まつり」としてさまざまな行事でお祝いしています。
  ご誕生の地は、北には穏やかな瀬戸内海、東に飯野山(讃岐富士)、「稚児大師ご噂像」

西は五岳山と呼ばれる山々に囲まれた讃岐(さぬき)国、多度郡、屏風ヶ浦(びょうがうら)、現在の香川県の善通寺(ぜんつうじ)市にお生まれになられました。
  お父上は名門大伴一族の佐伯直田公善通(さえきあたいたぎみよしみち)卿、お母上は玉依御前(たまよりごぜん)。
  お大師さまのご幼名は真魚(まお)さまと付けられました。
  御誕生について種々の伝説が伝えられていますが、高野大師御広伝には「父母の夢に、聖人、天竺より飛来して懐に入って妊胎し、十二ヶ月を経て誕生す」と記され
ております。この聖人は真言密教の第六祖・不空三蔵さまと言われております。お大師さまが不空三蔵さまのご入滅の六月十五日にご誕生されたので生まれ変わりとも、再来ともいわれております。三蔵さまの入寂された年が誕生の宝亀五年にあたるからです。
  お大師さまの御遺告(ごゆいごう)の縁起第一には「五、六歳の頃、夢にいつも八葉(はちよう)の蓮華の中に居座して、諸仏とともに語り合う夢を見た。しかしこ
の事は父母に語らず、まして他人にも語らなかった。父母は愛しみ貴物(とうともの)と呼んだ」と書かれております。
  生来、宗教心が厚かった真魚さまは、誰に教えられるでもなく、泥土で仏像やお堂をを作り、礼拝したと伝えられております。
  四国八十八ヶ所の七十三番・出釈迦寺(しゅっしゅかじ)のには、我拝師山(がはいしざん)捨身が岳のご縁起があります。「捨身が岳禅定、弘法大師七歳の御時救世 の大誓願を立て、五岳の随一たる当山に登り三世の諸仏十方の菩薩に念じ、我仏法に入て一切の衆生を済度せんと欲す、わが願い成就するならば釈迦牟尼世尊影現して證明を与えたまへ、成就せざるものならば一命を捨ててこの身を諸仏に供養し奉ると唱え、断崖絶壁の頂きより白雲も迷う谷底に身を跳らし飛び給へる。紫雲の湧き起こらせる中に、釈迦牟尼仏百宝の蓮華に座しご出現せられ羽衣を身にまとうた天女天降り大師を抱き
とめ「一生成仏」と宣り玉ふ。」
  この文は捨身誓願(しゃしんせいがん)と言われ、衆生救済の志を七歳の真魚さまが、お釈迦さまの御跡を継ごうと「誓願」されたことを著しております。

■都に出て本格的に勉学 ■

  十二歳頃になると真魚さまは、讃岐の国府に置かれていた国学(地方官吏や豪族の師弟を教育する学校)で学びましたが、聡明で天才的であったために、讃岐での学問では水準を超えてしまわれたに違いありません。
  母方の伯父に阿刀大足(あとのおおたり)という学者がおりました。大足は、桓武天皇の皇子・伊予親王の持講(じこう 家庭教師)であり、真魚さまの才能を見抜いて更に高い学識教養をつけさせようとしました。
  当時、体制の一新を企図された桓武天皇により平城京(奈良)から長岡京に遷都の準備をされていた延暦七年(七八八年)のこと、十五才の折り、連れられて新京に上ることになりました。
いた延暦七年(七八八年)のこと、十五才の折り、連れられて新京に上ることになりました。都に入った真魚さまは大足につき、論語、孝経、歴史等を学びました。
  これらは朝廷の官吏養成機関である「大学」に入学するためのものでした。十八歳になられた真魚さまは大学に見事合格されました。
  名門大伴一族の佐伯氏とはいえ、地方出身者の合格は当時の快挙であったものと思います。当然両親をはじめとする一族の期待が一身に集まったものと想像できます。
  当時は藤原氏隆盛の時代であり、一族である大伴家持(万葉歌人従三位中納言)は延暦四年、父の従兄弟にあたる佐伯今毛人(さえきのいまえみし 正三位参議)は延暦九年に亡くなっており、一族の栄華を真魚さまに期待し託されたことでしょう。
  真魚さまが大学に入学されてから四、五年経ってから書かれたといわれる「三教指帰(さんごうしいき)」には、大学の授業や都の虚飾になじめず「朝市(都)の栄華、
念々に之を厭(いと)ひ、巌藪(がんそう)の煙霞(えんか)日夕(じっせき)に之を飢(ねが)ふ」と当時の心境を回想されております。
  御遺告には「我の習うところの上古の俗経は、眼前すべて理弼なきをや、真の福田を仰がんにしからず」と述べ仏教の教えに惹かれる心を書かれております。仏門に入られる直前のことでした。

■お大師さまと胡麻ぼたもち■

 遠い昔、弘法大師という徳の高いお坊さまが、荒川を渡り、現在の戸田市付近にやって来られ、村 はずれにある農家をお訪ねになり、お腹がすいたので何か食べ物を頂けないでしょうかと申されました。
  家にいたおばあさんは一目お坊さまをみて、貧しい衣を着されているが、徳の高いお坊さまに違い
ないと感じ、「ほだもち」を作って心づくしのおもてなししようと支度をはじめましたが、あいにくなことに、その年は作柄が不良で小豆がありませんでした。
  そこで、おばあさんは「胡麻」をすりおろし、「胡麻ぼたもち」を作って、お坊さまに差し上げました。お坊さまは美味しい、美味しいと何皿もお食べになられました。
  時は千年を経ましたが、今でも弘法大師さまがお好きな「胡麻ぼたもち」と戸田の人々に語り継が
れております。 

▼先日、東京道場に向かう途中のこと、地下鉄の階段で転倒しそうになった時、五十代の男性が私を
支えて下さって、危うく大怪我をするところを助けて頂きました。
名前も告げず去られたその方は、お大師さまのような笑みを残して雑踏に消えて行かれました。真に
有り難い事でございます。
南無大師遍照金剛
▼十二月二十、二十一日のご縁日「納めの大師」にもお参りください。
  お大師さまは皆さまに御加護下され、日々の生活の中に共にいまします。合掌九拝 浄寛 記

お大師さま(一)

■ 弘法大師さま ■

  空海上人は承和二年(八三五年)三月二十一日に六十二歳で高野山(こうやさん)において、御入定(ごにゅうじょう)されました。
 この悲報は京の都に伝えられ、親交の深かった嵯峨上皇は「海上人を哭す(こくす)」という七言十六句の詩を送って別れの悲しみを述べられております。
「得道(とくどう・仏道を修行して悟りを開くこと)の高僧 氷玉清し 杯(はい・船)に乗じ 錫(しゃく)を飛ばして滄溟(そうめい・青く広い海)を渡る 化身世に住す 何ぞよく久しからん 塵界(じんかい・汚れた俗世間)空しく留む・・・・・・」。
 
 朝廷は、御入定後二十二年を経て天安元年(八五七年)、文徳天皇は大僧正の位を追贈し、貞観六年(八六四年)には清和天皇が、法印大和尚位を贈られました。

 御入定後八十六年を経た延喜二十一年(九二一年)十月二十七日、醍醐天皇は、仁和寺(にんなじ)をお開きになった宇多(寛平)法王と東寺長者の観賢僧正の奏上(そうじょう)により、弘法利生(ぐほうりしょう・正法を弘めて人々を救済する)の優れた功績から「弘法大師」の諡号(しごう・贈り名)を贈られました。
 言い伝えによると、お大師さまは醍醐天皇の夢枕に現れ、
 「高野山(たかのやま) 結ぶ庵(いおり)に袖朽ちて こけの下にぞ 有明の月」と詠まれた、ということです。
 衣は朽ち果てているが、有明の月の如く世を照らし続けているという歌は、今でも御詠歌として多くの信者に唱えられております。
 天皇はこの夢より覚めた後も、破れ衣を召したお大師さまのお姿が眼裏から離れず、廟所に御衣を贈られることにしました。

 十一月二十七日「弘法大師」諡号の勅使少納言平惟助卿、御衣送賜勅使大納言藤原扶閑卿、廟使観賢僧正を高野山に派遣されました。
 御廟の前で平惟助卿が勅文を奉読していると、廟中から、「われ昔 薩埵にあい まのあたり悉く 印明を伝う 肉身 三昧を証し慈氏(じし・弥勒菩薩)の下生(げしょう)を待つ」とのお声が聞かれたと伝えられております。
 観賢僧正は、恩賜の衣・袈裟・念珠などを捧げて御廟の中に入られましたが、尊容を拝するに、罪障の深きが故か、拝することを得なかったが、五体を地に投じ至心懺悔(さんげ)するや、雲霧晴れて満月出づるが如く、御入定の法体(ほったい)をあり拝するを得たと伝えられております。
 観賢僧正が御廟での行事を終え、玉川に架かる御廟橋まで歩みを運ぶと、お大師さまがお見送りされている姿に気づき、「南無大師遍照金剛」と御宝号をお唱えしますと、お大師さまは、「われ汝の仏性を送るなり」と言われ、お互いに合掌されお別れになったと今日に伝えられております。

■「多摩の二度栗」の伝説 ■

 昔々、武州多摩郡山の根村(現在の東京都青梅市から奥多摩町付近)でのある秋の日の話です。

 その年の山の根村では大きくて美味しい栗がたくさん採れました。
村人が集まり栗を食べておりますと、衣が破れ、見るからに弱った旅の僧侶が近寄り、「栗を一粒、恵んで下さい」と言いました。
 村人はいいよ、と言いながら、栗の殻を僧侶に放り投げました。僧侶は頭を下げその場を立ち去りました。
 僧侶は次に村一番の大きな屋敷に行き、縁側に座って栗を食べていた家人に「栗を一粒恵んで下さい」と頼みましたが、家人は僧侶 に栗の殻を投げつけました。
 僧侶は大変悲しい思いをしながら、その場を立ち去ったそうです。

 僧侶は村外れまで歩くと一軒の粗末な小屋がありました。僧侶は小屋に入り「栗を一粒お恵み下さい」と頼みました。
 小屋には十七歳前後の若者をかしらに四人の子供が住んでおり父母はすでに亡くなったようでした。貧乏で一粒の栗しかありませんでした。
 それでも心優しい彼らは空腹で倒れそうな僧侶のためにその一粒の栗を差し上げました。
 その一粒の栗を食べた僧侶はたちまち元気になり、「ありがとうございます、皆さんの優しい心が天に通じ、裏山に天の恵みを受けることとなるでしょう」と言い残して小屋を出ていきました。
 不思議なことに、その後、彼らの小屋の裏山の栗林には大きくて美味しい栗が春と秋の二度なるようになり、子供たちは幸せに暮らしたそうです。
 のちにあの時の僧侶は弘法大師だったことがわかりました。山の根の人々はこの話を現在に伝承し、お大師さまを深く信仰しているとのことです。
観音院常用教典

「まことの道」より 

「南無と唱えるそのときに、われ御仏にひれ伏して、大師に誠を献げたてまつる。
 遍照金剛と唱えるそのときに、大師を一切衆生のみ親なる大日如来とあがめたてまつる。
 われらいま、南無大師遍照金剛のみ名を讃えてみ教えをささげたてまつり、善き人として密厳国土(きよきせかい)を創らんと願うなり。」 浄寛 合掌九拝

真言宗伝持の八祖さま(三)

八月号、九月号と真言密教弘通(ぐつう)に貢献された「伝持の 八祖さま」のなかから、一祖龍猛(りゅうみょう)菩薩さま、二祖 龍智(りゅうち)菩薩さま、三祖金剛智(こんごうち)三蔵さま、 四祖不空(ふくう)三蔵さま、五祖善無畏(ぜむい)三蔵さま、六 祖一行(いちぎょう)禅師さま、七祖恵果(けいか)阿闍梨(あじ ゃり)さまについて書いてまいりましたが、今号では、八祖であら れます「お大師さま」、弘法大師空海さまについてお話したいと思います。

入唐求法(にゅうとうぐほう)

 お大師さまの著作された文章を集めた「性霊集(しょうりょうし ゅう)(全十巻)」の巻第七の「四恩の御為に二部の曼荼羅(ま んだら)を造る願文の中で、
「径路(けいろ)いまだ知らず、岐(ちまた)に臨(のぞ)んで幾 (いく)たびか泣く」と述べられております。仏道にはいくつもの 道があるが、どの道を進むべきか若き日のお大師さまの苦衷が告白 されております。
 苦悶の中、東大寺大仏殿に二十一日間参籠(さんろう:一定の期 間こもって祈願すること)して、ご祈願されました。

 弘法大師遊方記に 「吾、仏法に従って常に要を求め、尋ねるに三乗五乗十二部経、心 に疑いが残り、決をなさず。唯願わくば三世十法の諸仏、我に不二を示せ」と一心に祈られていると、「夢に人有り。告げて曰く。ここ に経有り。名字は大毘盧遮那経(大日経)これ即ち求む所、大和の国 久米寺の東塔の下に有り」と結願(けちがん)の日に、ありがたき 啓示がありました。そして、大和久米寺(奈良県橿原市)に「大日経」七巻を発見されました。お大師さま二十三歳、延暦十五年(七九六 年)初春のことといわれます。
 大日経、本題は大毘盧遮那成仏神変加持經(だいびるしゃなじょ うぶつしんぺんかじきょう)と言い、お大師さまにとりましてまさ に不二の法門でした。

 不二とは二つと無い仏教の真理を説く法門であり、仏と我が一体 となる即身成仏の境地を説く法門(経)であります。
 捜し求めていた大日経を手に取られたお大師さまの感激はいかばかりであったでしょうか。しかし、意味の通じない梵語が随所にある ので、梵語を学ぶ必要性、理論だけではなく、よき師に出会い直接 教えをうけ密教の修行する必要性を感じられ、唐の国にわたられる ご決心をされたものと思います。

 お大師さまは師僧である勤操大徳(ごんそうだいとく)を通じて 入唐留学の申請をし、延暦二十三年(八〇四年)勅許を得られ、五 月十二日、藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ)を遣唐大使とする 派遣船は、難波の港(大阪港)を出帆しました。
ところが海上、大暴風に遭い、着港予定の港からはるか南方に漂流し、八月十日福州(中国福建省都)の港に着きました。
 その上に福州の観察使(行政・軍の責任者)は日本の遣唐使一行 であることを理解できず、海賊扱いされるほどでありました。藤原大使は幾度か上書して、疑いを晴らそうとしましたが、いっこうに 解けませんでした。

 そこでお大師さまが大使に代わり書をしたためました。その能筆 と麗文のに観察使は一見して凡庸でないのに驚き、疑念たちまちに 晴れて歓待につとめられました。
こうした苦難の旅を経て、十二月二十三日唐の都長安(現在の陜西省都西安)に着かれました。

み教えの相承(そうしょう)

長安に着かれたお大師さまは、インドより来られていた般若三蔵 さまや牟尼室利(むにしり)三蔵さまより、インドの仏教原典を学 び、梵語を習得されました。
 そして一心に目指しておられた密教の師をお探しになられました。インドより陸路を経て善無畏三蔵さまにより伝えられた「大日経」 を拠り所とする密教、海路を経て金剛智三蔵さまにより伝えられた 「金剛頂経」を拠り所とする密教の二系統を兼ね備えられた密教の 第七祖として仰がれていた恵果阿闍梨さまが青龍寺におられることを知られたのでした。

 長安で止宿していた西明寺の僧侶とともに恵果阿闍梨さまの青龍寺を訪問されました。
 恵果さまはお大師さまのお顔を見られると、「われ先に汝の来ることを知り、待つこと久し、今日相見る、はなはだ好し、はなはだ 好し、報命まさに尽きんとす、人の法を附すべきなし、必ずすべか らく香華を弁じ、灌頂壇に入るべし」と仰られました。
 お大師さまは真言密教の神髄至実を伝える灌頂(かんじょう)の職位を受けられ、即身成仏の実相を体験感得され密教の正統を継ぐ第八祖となられたのでした。

 恵果阿闍梨さまお付の僧侶呉慇(ごいん)はこの模様を次のように記されています。
「今、大日本国の沙門あり、来りて聖教を求む ること、みな学ぶ所をして、写瓶(しゃびょう)のごとくなるべし。
この沙門はこれ凡徒に非ず三地の菩薩なり」。この書は阿闍梨さま が授ける密教の大法を、あたかも瓶の水を一滴残らず写し与えて、 お大師さまが全て受け取られたと讃嘆されたものであります。すべての法を伝授された恵果阿闍梨さまは八〇五年十二月十五日 寂然として入滅されました。
 お大師さまは阿闍梨さまの葬儀に当たって多くの弟子たちの代表として、大唐青竜寺故三朝国師碑と題する碑文を書かれております。
「ああ悲しいかな、天、歳星を返し、人、慧日を失う」とこの上無き惜別の情を表しておられます。

 師を失ったお大師さまは、その後も三ヶ月間長安に留まり、写経や曼荼羅の制作に専念されておりましたが、密教の大法を日本に広 めるため、在唐二十年の予定を切り上げ帰国されました。
 多くの人の支援を得られて種々の苦難を乗り越えられて、大同二年(八〇七年)、勅許により真言宗立教開宗をなされました。弘仁七年(八一六年)に嵯峨天皇より高野山開創の勅許を頂かれ、真言 密教の根本道場としてお開きになられました。
 お大師さまが日本にお伝えくださられたみ教えは、私共が生きる現在に至るまで脈々と受け継がれております。   合掌九拝 浄寛

真言宗伝持の八祖さま(二)

八月号に引き続きまして、真言密教弘通(ぐつう)に貢献された
伝持の八祖さまの中から、善無畏三蔵(ぜんむい・さんぞう)さま、
一行禅師(いちぎょう・ぜんじ)さま、恵果阿闍梨(けいか・あじゃり)さま
についてお話したいと思います。

五祖 善無畏三蔵さま

 善無畏三蔵(六三七-七三五)さまは、古代インドに統一国家を
つくったアショカ王と同じマガタ国の国王の家系に生まれ、王子は
十三歳で王位につき、人民の信望を集めておりましたが、兄たちの
妬みによる乱が起き、それを鎮定したあとも王位に留まることを潔
(いさぎよ)しとせず、王位を兄に譲られました。
 ナーランダ寺(五世紀に作られてから千年近くにわたってインド
仏教の中心となった寺で、仏教各派の教えを学ぶことができる総合
大学のようになっておりました。今日でも広大な遺跡が残っており、
その規模の大きさを知ることができます)の達磨鞠多(ダルマグプタ)
が、真言密教に通じ名声が高かったので、師事し、密教の奥義を
極めるに至りました。

 達磨鞠多師に勧められて、八十歳の高齢をもかえりみず、ラクダ
の背に多くの密教経巻を積んで、天山北路(シルクロード)を越え
て、七一六年(開元四年)唐の都長安に着きました。
  時の皇帝玄宗は深く帰依(きえ)し、国賓(こくひん)の礼をもっ
て遇し、「国師」の称号を送られました。

 その後、七三五年(開元二三年)九九歳で入寂されるまで、およ
そ二十年間、大日経(大毘盧遮那成佛神變加持經・だいびるしゃな
じょうぶつじんぺんかじきょう)をはじめ多くの密教経典の翻訳、
弟子育成に尽力されました。
  善無畏三蔵さまの功績は、金剛智三蔵さまとともに唐(中国)にお
いて、独立した宗派としての密教の基礎を築いたことであります。

六祖 一行禅師さま

 一行禅師(六八三-七二七)さまは唐代に河北省に生まれ、幼時
より聡明であったといわれ、二十一歳の時に両親を失い出家し、
普寂さまから禅を学び、恵真さまから律と天台を学びました。

七一六年、入唐された善無畏三蔵さまに師事(しじ)し、師を助
けて密教の根本経典大日経の翻訳に力を尽くされました。師の講義
をまとめて「大日経疏(だいにちきょうしょ)二十巻」を著し密教
を広められました。
 七二〇年に入唐された金剛智三蔵さまより真言の秘印を授けられ
ました。一行禅師さまは仏教だけではなく、道教(中国古代の民間
信仰を基盤とし、不老長生・現世利益を主たる目的として自然発生
的に生まれた宗教)、さらに数学、天文、暦学を学び、
現代でも中国の偉大な科学者として、切手の絵にもなって顕彰され
ております。
 
 一行禅師さまの功績は、善無畏三蔵さま、金剛智三蔵さまを助け
て、中国に密教を広められたことと、著書の「大日経疏」は単なる
大日経の注釈書にとどまらず、大日経流布のため後学の僧侶に多大
な影響を与えました。

七祖 恵果阿闍梨さま

 
恵果阿闍梨(七四六-八〇五)さまは、幼い時に出家し、青竜寺
聖仏院曇貞和尚に師事し、八歳の時師につれられ大興善寺の不空三
蔵さまのもとに参りました。
  三蔵さまは恵果さまをひと目みるなり、「この子は密教の立派な
阿闍梨になる資質を持っている」と、実子のように慈しまれ、二十
歳のとき三蔵さまより密法を授かりました。

 七五五年、三十歳で青竜寺東塔院に毘盧遮那仏(大日如来)灌頂
(かんじょう)道場を、唐の代宗皇帝から賜りました。
 また代宗の勅命により内道場(宮中内の修法場)の護持僧に任じ
られました。次の徳宗皇帝、憲宗皇帝にも信任され、「三朝の国師」
と称され尊崇されました。
 
 弟子の育成にも力をそそがれ、唐はもとより、諸外国より密教を
求める多くの僧侶が集まっておりました。
  八〇五年入唐(にっとう)された空海弘法大師さまは、千数百人
の弟子の中から密教の後継者として、金剛界・胎蔵界の両部の大法
と諸尊法を授かりました。
  なぜ阿闍梨さまは異国の僧であるお大師さまに大法を授けられた
かと申しますと、師の不空三蔵さまの遺言だったからです。
  七七四年六月十四日大興善寺で不空三蔵さまは弟子の恵果阿闍梨
さまに次の様に述べられました。
「私の命はもう絶える、恵果に金・胎両部の秘法を伝えたが、この
密教は唐ではやがて滅ぶであろう。そこで私は東の国へ密教を伝え
たい。私の命は東の国へと移り恵果と再びめぐり合い、恵果の弟子
になるだろう」と言い残して翌十五日未明に寂されました。

 不空三蔵さまのお言葉を恵果阿闍梨さまはお守りになり、東国か
らの求法僧空海弘法大師さまに全ての法をお授けになられたのです。
 不空三蔵さまが寂された日は、日本では宝亀五年六月十五日でし
た。この日の未明に空海弘法大師さまはご誕生されました。まこと
にありがたきご縁であります。

恵果さまは全ての法をお大師さまにお授けになり、十二月十五日
に寂されますが、お大師さまに遺告されて
「わずかに汝の来れるを見て、命の足らざるを恐れぬ。今すなわち
授法あるなり。経像の功も終わりぬ。早く郷国に帰りて、国家に奉り、
天下に流布して蒼生(多くの人々)の福を増せ。しからば四海(世
の中)泰く万人楽しまん。」
 お大師さまにとって、恵果さまとの別れは悲しいものでしたが、
密教の正統、不二の法門はこの日本にもたらされ、永遠に生きるこ
ととなります。 合掌九拝 浄寛

真言宗伝持の八祖さま(一)

観音院ではご法要のとき僧侶が参拝の皆さまを特別に御本尊さま
御前の間近までお進み頂き、お焼香のご案内致します。

 内陣の両側を余間(よま)といいますが、観音院では、大般若経
六百巻 二組が安置され、釈尊涅槃と「八祖さま」にお参りします。

 真言宗には「龍三、龍経、金珠、不縛、善指、一内、恵童、弘五」
という句があります。
 真言密教を人世に流伝(るでん)し護持(ごじ)された八人の祖師
さまの特徴を略された言葉です。
一祖龍猛(りゅうみょう)は三鈷杵(さんこしょ 密教の法具)、
二祖龍智(りゅうち)は梵経、三祖金剛智(こんごうち)は念珠
を持ち、四祖不空(不空)は外縛(げばく)の手印を結び、
五祖善無畏(ぜむい)は右手の人指し指を立て、六祖一行(いちぎょう)
は衣の袖下で印を結び、七祖恵果(けいか)童子を伴い、
八祖弘法(こうぼう)は五鈷杵を持っていることをあらわしております。

 真言八祖といっても、「付法(ふほう)の八祖」と「伝持(でんじ)の
八祖」の二通りがあります。
 付法の八祖は、大日如来(だいにちにょらい)、金剛薩捶(こん
ごうさった)、竜猛、竜智、金剛智、不空、恵果、弘法の八祖さまです。
真理そのものを顕現させ説法した大日如来さまの教えは、次々と受け
継がれ、インドから中国、中国から日本へと伝えられ、お大師さま
を経て真言密教の大きな流れを形成されました。
 この大日如来さまからお大師さまに至る真理の相承の系譜を付法
の系譜といい、八祖を数えるので、「付法の八祖」といわれます。
「伝持の八祖」は真言密教の弘通(ぐつう)に貢献された八祖さま
のことを申し上げます。

■これから「伝持の八祖」さまについてお話したいと思います。

一祖 龍猛(龍樹)菩薩さま

 南インドのビダルバ出身の僧侶で、幼い頃から学問に優れ、当時
インドで広まっていた大乗仏教を体系化したといわれております。
南インド地方で密教の根本経典である「大日経」が納められている
「鉄塔」を見つけ、扉を開こうとしましたが、扉は開きませんでし
た。七日間ひたすら祈願したところ、ついに扉が開き、大日如来さ
まのお導きを受けて塔の中に入ることができ、そこで、金剛薩捶よ
り密教の教えを伝授され、心眼を開かれ、すべてが御仏の姿でない
ものは無いと体得された、と言い伝えられております。
   (*注*捶の文字は手偏ではなく、土偏が正しいものです)
 龍猛さまの死後百年、南インドの人たちは廟(びょう)を建て、
龍猛さまをお釈迦さまと同じように崇(あが)め、「龍猛菩薩」と
称されるようになりました。

二祖 龍智菩薩さま

 南インドの僧侶で龍猛菩薩さまの弟子として密教を学び、厳しい
修行をなされました。龍猛菩薩さまの密教正系を忠実に伝え、広く
宣布しました。
 仏教ばかりでなく種々の学問に通じ、長寿を保つ秘法を知ってい
たとされ、住持七百年で亡くなったと伝えられております。南イン
ド地方を中心に活躍され、多くの人々を救済され、崇敬(すうけい)
されました。

三祖 金剛智三蔵さま

 金剛智三蔵さまは、南インドマラヤコクに生まれ、父に懇願して
仏道に入ることを求め、十歳のときナーランダー寺(最古の大学)
の寂静智を師として出家されました。
 小乗大乗の教理を修めた金剛智三蔵さまは三十一歳の時、龍智菩
薩に七年の間、承仕供養して、「金剛頂瑜伽経」など法燈を伝授さ
れました。また「呪法」に優れ、観想すれば金剛薩捶が常に眼前に
出現したと伝えられております。
 ある日、金剛智三蔵さまの元に観世音菩薩(観音さま)さまが現
われて、次のようにお告げになりました。「大唐国(中国)に行っ
て文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ 優れた智慧を持つ菩薩さま)
を礼拝するがよい。そこで仏法を流布し、衆生を導きなさい。」
 金剛智三蔵さまは、スマトラ(インドネシア)を経て南シナ海に
出た時に大嵐に遭い、金剛智三蔵さまの船だけが広州(中国)の港
に着かれました。
 時は玄宗皇帝の開元八年(七二〇年)、金剛智三蔵さまは洛陽に
入り、皇帝に入国の事情を奏上し許され、開元二十九年七十一歳で
遷化(せんげ)されるまで、多くの弟子を育成し、密教による教化
につとめられました。

四祖 不空三蔵さま

 不空三蔵さまは南インドの出身で、早くに両親と死別し、幼時よ
り出家を志し、剃髪(ていはつ)して袈裟(けさ)を身につけてい
たといわれております。
 十四歳の時、金剛智三蔵さまに巡り合い、弟子となりました。金
剛智三蔵さまは弟子となった不空に、梵語経典を読ませたところ、
一度聞いただけで音韻を間違えることがなかったとのことです。
 数年後、金剛智三蔵さまと不空の師弟は、危険な南シナ海に船出
し、唐に渡りました。
 その後、密教を学びたいと師の金剛智三蔵さまに願いましたが、
師はなかなかお許しになりませんでした。ところがある夜、金剛智
三蔵さまは、仏・菩薩の像が大挙して不空に従って東行する夢を見
て、不空に密教を授けよとの御仏の教示であるとさとり、密教の奥
義(おうぎ)を伝授しました。
 不空三蔵さまは、開元二十九年に金剛智三蔵さまが亡くなるとす
ぐに、その遺言により「金剛頂経」の完本を求めてインドへお旅立ち
になりました。南インドの龍智菩薩さまのもとで、「金剛頂経」、
「大日経」を伝授され、唐にお戻りになりました。
 玄宗皇帝、粛宗皇帝、代宗皇帝の三代の帝師として尊信され、唐全
域に密教を弘められました。

 不空三蔵さまは鳩摩羅什、玄奘三蔵とともに、三大訳経家と呼ば
れ、宿曜占星の所依の経典宿曜経なども翻訳されました。弘法大師
さまのご降誕は六月十五日ですが、不空三蔵さまのご入滅の日です。
それぞれのお祖師さまには深いご縁がございます。合掌九拝 浄寛