自分の信ずる通りに死に逝けば良い

「生者必滅の理」を免れるのは無理。生まれて来たら、何時かは死にます。生きてる最中に脳の働きで自分の存在は確認できますから、願わくは死んでも精神と言うか霊魂と言うか、あの世で幸せでありたい。まあ普通に人の考えることです。
 死んでしまえば、火葬して、僅かに残るカルシウム、葬儀も不要、お墓も不要、できたら献体して医学のために役立ちたい。お骨は山か海でも散骨してもらって自然に還りたい。死ぬと体重のうち霊魂分の六グラムが軽くなって、これは面白い考え方ですが、霊魂にも質量があるかも知れません。死後の世界で成仏できずに彷徨ったり、他人や子孫に取り憑いたり、護国の英霊になったり、位牌を拠り所としたり、自分の遺骨を拠り所としたり–、死後のことは不明なことばかりで、皆さん大変です。しかし確実に近付いて来る自らの臨終、どうなされますか。
多くのあの世は地球が平面と仮定
地球が丸いと解っても修正せず
 黄泉の国は、現在の中国の黄河河口近く、中国の皇帝達は逆三角形のピラミッドを壮大に構築して現存してます。
 北京観光では万里の長城とこれらの墓跡は観光の目玉になっています。
 閻魔(えんま)さんの宮殿は、この黄泉の国にあります。強大な権力者の来世妄想は、地球上のあちこちに壮大な遺跡を残してくれました。
 地球は丸かった、幾ら掘っても地獄は有りません。天国も大変です、沢山の人工衛星が打ち上げられ、天にまします神々も安心して住めません。
 極楽も地獄も、この地球上に存在しているのです。
 地球上の生きとし生けるものは地球上で転生輪廻しています。
 よく、死ぬとお花畑に行くと言う話が真実らしく語られていますが、造花でも無い限り、花は実を付け、やがて枯れて行くものです。葬儀の際の飾りつけられた供花からの連想でしょう。
 最近、向日葵の咲いた花畑に行ったけど、枯れた後の種の収穫やら裏作が一苦労だそうですよ。花畑はのぼせるほど暑くて一時間の滞在が限度でした。
 チベットに飛んで行く話もありますね。寒くて現代の日本人には望ましい環境ではありません。一度観光旅行して、往生すべき国か否か確かめてみることも良いかも知れません。
 仏教の説く極楽にも錯覚がありますよ。僧侶に良く聞くと良いですね。
 私の知る範囲では、彼の地には女性は一人も居ない、と説かれています。
女性は五障三従の身だから極楽往生はできない。「変成男子」の法とかで、全部男に成って、極楽は男性だけです。
勿論のこと犬畜生は極楽には居ません。全身黄金だそうです。時間も無いし、夜昼も無い。これでは、何も無いのと同様です。虚無の世界かも。

 私は二十年昔に臨死体験をしたことがあります。何処に逝って居たか。
 この世の関心ある場所に居ました。当時は観音院の屋根の銅板工事をしていて、それを百メートル上空くらいから見ていました。次は本堂の左鴨居の当たりから信徒さんを見ていました。
 行きたい所に移動するのに瞬時で、もうこれは霊魂の世界だと思いました。
つめろうにも頬が無い。手足も身体も無い。好奇心旺盛ですから、これからどうなると思っていましたよ。
 暫くして、病室に見舞いに来てくれている弁護士さんやら、点滴に来た看護婦さんや医師たちの会話を聞いていました。
 この間に、奇妙な経験をしました。
一度ほど大きな快感とともに何処かの卵子の中に入りつつあるような説明のつかない経験です。それから強烈な痛みと共に意識が身体に戻りました。
 もしかしたら、誰に受胎され、中絶されたのか、流産かも知れません。
 実際この時は、過労による意識喪失で、手当ての甲斐が良くて現世に復帰できたと、今では信じています。
 死ぬと中有(ちゅうう)という世界で彷徨(さまよ)う、現世に強い執着があると、生まれ変われないと信じるようになりました。
 以来、私は、葬儀に際して、現世に対する執着を離れ、速やかにこの世に生まれ来るよう「引導」を渡すようになりました。
 葬儀の執行、導師として引導を渡すのが優しくなりました。私にとりまして非常に大きな変換点でした。

深い瞑想に入ると自己の魂は身体離脱し
能率良く迷える人を導くことが可能になる

 私は日常、両界曼荼羅の中で暮らしています。観念の世界もそうですが、実際に両界曼荼羅を持参し、ホテルでも、金具を持参してお掛けしています。
 瞑想は「阿字観」に依ります。阿字観本尊は何時でも瞼の裏に画けます。
 月輪[ガチリン]の中に蓮を浮かべて、その上に「阿字」をお迎えする「阿字観本尊」を実際に画けます。
阿字観法で瞑想すると大宇宙と合一することが可能です。難しく考えないで「定に入る」と考えると適切でしょう。
 もう一つは、前世と現世と来世を、観ることが可能です。これらを別々に存在すると考えると「三世」に通じると誤解を起こしかねません。
 前世と現世と来世は通じていて階層的ではありません。
 以前亡くなった人も生前に深い執着があれば、精霊(しょうりょう)はそのまま現世に止まっています。優しく説けば再びこの世に輪廻されます。
 生きている人と亡くなっている人の相違は霊魂がありながら身体を持つか持たぬかの相違です。
 それ以外にも物を動かす力が無いとか、重さが無いとか、見掛けが鮮明で無いなど、簡単に見分けられます。
 皆さんにも突然に、亡くなった人が見えることがあります。幽霊が出ると怯えらますが、さすることも手を握ることも抱き付くことも不可能です。
 怯えるよりは、供養して上げることが大切です。
 霊的に敏感な体質の方もおられて、彷徨っている精霊を受けてもどうすることもできず苦労される方もあります。
 不思議なことに、何代も何十年も、転生(てんしょう)でない、古い精霊に出会えませんでした。服装や動きは比較的に若く、一度も武士などに出合ったことはありません。もしかすると三十年くらいで一段落するシステムのようです。言語は日本語です。移動も国内の範囲です。
 自分の前世と出会うのは、不可能なことです。この世のあなたは、自分を見れば良いことです。既に、精霊だけとしては存在しておられません。この世に来ておられるのですから。
 時空を超えることはできません。映画の「戦国自衛隊」のように、過去に遡(さかのぼ)って、その時代の人と交流することは不可能です。
 移動は短時間で容易になりますが、山頂とか災害地など危険な場所には、行けません。何でも自分の思うようにはならないものです。人により三十メートルくらいの高さから下を俯瞰(ふかん)することは可能です。
 観音院におまつりしているお大師さまは決して木の仏像ではありません。
私の行き先に良く同伴してくださいます。そのような時には観音院のお大師さまの木沓(きぐつ)が動きます。
 霊界は現世と同居していて別界ではありません。時空を超えて過去に遡れず、将来を見通すものでもありません。
 このようなことは程度の差こそあれどなたにでも可能なことです。
 ただ、「念ずれば花開く」と言うような思考方法は間違っています。念力は、努力を継続する力にはなりますが、無から何かを産み出したり、物を動かしたりはしません。
 観音経の念彼観音力は多くの誤解の基になりました。世間の仕組みが観音経成立当時のように単純では無くなったのが理由でしょう。
 精霊として、私どもと一緒にあって、強い執着、怨嗟(おんねん)、孤独感などは何らかの影響を及ぼしているようで、その精霊に、観音経の念彼観音力は強い支えになるようです。
「延命十句観音経」は観音さまを強く念じることによって、心の平安を招き念誦の良い効果があります。
 生老病死は、私どもが絶対に避けられない真実ですが、精霊にとっても避けられないことです。死を精霊の生とすると、精霊のまま存在し続けることは不可能なことです。
 精霊が、生老病死の過程を経るのは望ましいことですが、現世の続きをなされていると、再生が困難になります。
 死から生へと速やかに転生することが、好ましい死の在り方と思います。
 現世で極楽を作って往生した精霊には精霊の来世は極楽です。地獄に住んで往生された人は地獄の環境に住みます。
「来世観」を持つことは大切です。来世は無いと思う選択も自由です。
 家族が大切なのも、国を愛する心も、環境を心配するのも、自分の輪廻再生する「往き先」だからです。

 死に際して、何も持って往くことは不可能ですが、置いておくことは可能です。私は、観音院を善きお寺として置いて往きたいと願っています。
 観音院には沢山の書籍があります。そして現在も沢山の書籍を購入しています。それは、私や関係者が読み切れる量を超えています。
 これは来世に於いて、皆さまや私が読むためのものです。このような行為は執着では無く、往き易い来世観を持つことになります。
 不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、
不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、
不瞋恚、不邪見—-、
この十善戒を護持(ごじ)しようとなされる人は、来世も十善戒の内にあります。
 十善の世界は「菩薩」の生活圏です。生活圏は「道場」とも言えます。菩薩は慈悲深く心優しく在ります。
 慈悲深い、優しい、思いやりがある、そのような相手の立場で考えることの実現は容易ではありません。
 善き人間関係の中に住み、お金の貸借が無く、なすべき仕事が有り、欲望はほどほどで、多少の財力と賢明な知識も必用です。そのようにありたいと私は願って努力してます。

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