忠臣、欲少なく、足るを知りて諸天に感じられ、報を得て、奇事を示す縁

故中納言従三位(ちゅうなごんじゅさんみ)・大神高市萬侶(お
おみわのたけちまろ)は大后(おおきさき・持統天皇)の忠臣であ
った。日本書紀にこうある。
  「朱鳥(あかみとり)七年—- 持統六(六九二)年壬辰の二月、
諸司に詔(みことのり)して、三月三日にあたりて、伊勢に幸行
(いでま)さむとす。この内意を知って諸準備をせよ」と。
  そのとき、大神高市萬侶卿(きょう)は文書をもって奏上(そう
じょう)し、天皇をお諌(いさ)めした。

 「三月初旬はあたかも播種(はしゅ・種まき)の季節にあたり、
そのような時期に、天皇行幸はなにかと農民をわずらわせ、農事の
妨げとなりますので、思い止まられたらいかがでありましょうか」
  けれども天皇は、その諌止(かんし)をお聞き入れにならず支度
(したく)を急がせた。
  高市萬侶は、中納言の職を返上する覚悟で、再三にわたり、持統
天皇の翻意(ほんい)をうながしたが、天皇の聞くところとならず、
伊勢行幸を強行されたのである。
    *  *  *
  高市萬侶卿は単なる忠臣のみならず、きわめて清廉(せいれん)
な人柄でもあった。
  ある年のこと、旱(ひでり)がつづき、大和平野一帯の田畑が
すっかり干上がったことがあった。
すると卿は、己が田の取水口をみずから閉ざして、わずかに流れる
小川の水を、他の百姓たちの田に施(ほどこ)したのであった。そ
うこうするうち、やがて灌漑(かんがい)用の小川も涸れはてて他
田に施す水も尽きてしまった。
  この高市萬侶の善行に、天上界に住む諸神が感応(かんのう)し
てか、竜神(りゅうじん)が雨を降らしたのである。それも、雨は
高市萬侶の田のみに降りそそぎ、その余の土地には一滴の雨も降ら
ない。まるで卿の持ち田の上空だけを区切るように低く雲がたれこ
めて、恵みの雨が降りしきり止むことがなかったという。
  これはすなわち、高市萬侶卿の徳義の大きさ、まごころのいたす
ところである。
  賛にいわく、「修修たり(すぐれたり)神の氏、幼き年より学を
好み、忠にして仁有り。潔くして濁ることなし。民に臨み恵をつた
う。水を施し、田を塞ぐ」と。
    *  *  *
  上に紹介した今回の日本霊異記の説話は、一見なんでもないよう
な話のようですが、これは、ただ単に、中納言の大神高市萬侶が、
持統天皇の伊勢旅行を止めるようにお諌めしたという単純な話では
ないようです。
  また、「日本霊異記」の彼の名前は、大神高市萬侶としてありま
すが、通常の呼称は「三輪高市麻呂」といい、彼は三輪山のふもと
一帯を支配する豪族、三輪氏の氏長です。したがって、大物主大神
(おおものぬしのおおかみ)のまつられている三輪神社の代表者と
いう立場でもあるわけです。

 その大物主大神の代弁者ともいうべき高市麻呂が、「その冠位
(かがふり)を脱ぎて朝(みかど)に檠上(ささ・敬の下は手)げ、
重ねて諌めて曰く、農作(なりわい)の前に、車駕(きみ)未だ
以ちて動くべからず」と必死に止めたにもかかわらず、「天皇は
諌(こと)に従はず、遂に伊勢に幸す —–」とあります。
     *  *
  では、持統天皇は何のために伊勢へ行ったのでしょうか。それは
大王家(天皇家)の新しい宮づくりのためであったようです。
  その当時の伊勢神宮は、海の神と太陽の神を祭る地方の一神社に
すぎませんでしたが、大王家では、伊勢は日の昇る神聖な土地である
として、この片田舎の神社に目をつけ、そこに内宮(ないぐう)を
新たにつくり、大王家の氏神を祭ることにしました。その神が、す
なわち天照大神というわけです。
  こういう新しい神に、古い神を守護する三輪氏が反対するのは、
当然です。
  天照大神(あまてらすおおみかみ)が伊勢神宮に祭られることに
なったのは、そもそもいつ頃からでしょうか。通説では、だいたい
天武、持統時代であろうと言われております。

 それも、壬申(じんしん)の乱当時、天照大神はまだ伊勢神宮に
は祀られておらず、アマテラスを伊勢神宮の内宮に祀ったのは、
壬申の乱の勝者・天武天皇の可能性が高いとされています。そして
アマテラスが皇祖神になったのは、八世紀になってからであるとい
うのが定説のようです。

壬申の乱

   天智十(六七一)年十二月
   天智天皇崩御(ほうぎょ)
   大友皇子が即位(弘文天皇)
   翌、六七二年六月
   壬申の乱が起こる
   七月 近江朝軍が敗北し
   大友皇子が自害する
   六七三年二月大海人皇子が即位
   天武天皇となる 

 壬申の乱はどのようにして起こったか、「日本書紀」は次のよう
に記述しています。
  死の病床にあった天智天皇が、弟の皇太子・大海人皇子(おおあ
まのみこ)を枕元に呼んで、後を頼む、といいます。しかし大海人
皇子は体調不良を理由に、天皇の申し出を断ります。
  そして、
「鬢髪(ひげかみ)を剃除(そ)りたまひて、沙門(ほうし・法師)
となりたまふ。東宮(もうけのきみ・大海人皇子)天皇にまみえて、
吉野にまかりて、修行仏道(おこなひ)せむと請(もう)したまふ。
  天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ—-」とあります。
 
 大海人皇子は、「後事をおまえに一任するから、よろしく頼む」
という天智(てんぢ)天皇の言葉が、自分に仕掛けられた罠である
ことを、すでに見抜かれていたのです。そのため皇子は皇太子位を
みずから退き、出家されたのです。

天皇の胸のうちは、皇太弟を廃して、わが子大友皇子に譲位する
ことにありました。しかしながら自分の亡きあと天皇位は、おそら
く大海人皇子の掌中に帰するところとなるであろう。多くの人々の
信望の厚い大海人皇子と若年の大友皇子とでは、まるで比較になら
ないからです。
  それならいっそのこと、自分の目の黒いうちに大海人を抹殺して
しまうことだと、天智天皇は考えたのではないでしょうか。

大海人皇子は、そんな天皇の心をいち早く察知し、沙門の姿に、
妃の讃良皇女(さららのひめみこ・のちの持統天皇)をともない、
近江大津の都から逃げるようにして吉野宮滝へ向かったのでした。
  近江朝側の機先を制し、機敏に進退を処した大海人皇子の行動を
近江の群臣たちは、「虎に翼をつけて放てり」とくやしがりました
が、それでも、手を拱(こまね)いて見送るしかなかったといわれ
ております。
  このような経緯を経て、「壬申の乱」は起こったのでした。

天武天皇の御代 (みよ)
 
天智天皇は、大海人皇子が吉野へ脱出した後、しばらくして崩御
されました。それ以後、吉野宮滝に隠遁(いんとん)する皇子のも
とへ、大津京の不穏な情報が刻々ともたらされてきます。
  このまま座視していては、やがて近江朝から差し向けられる兵に
よって抹殺されるだけである。
  ならばやるだけである、と決断し、大海人皇子はついに挙兵され
たのでした。といっても、それは貧弱な武具で武装した総勢二十余
人の舎人(とねり・天皇や皇族の近侍)、それに、讃良妃と御子の
草壁皇子、ほかに女人たち数名の集団にすぎませんでした。
  吉野を出発した大海人皇子の主従一行は東国をめざします。兵を
募って伊賀、伊勢国、尾張国へ、そして、美濃国に到るころには、
すでに近江朝軍と十分対等に戦えるだけの兵力に膨れあがっており
ました。
  それは大海人皇子が、近江朝側と対決せざるをえなくなった事情
を説き、行く先々で「であるからお味方つかまつれ」と檄(げき)
を飛ばした結果です。伊勢、尾張、美濃の国宰頭(くにのみこともち
・長官)の全面的な支持を得、軍事的協力の約束を取りつけること
ができたからでした。
  こうして両軍決戦の火蓋が切られました。六七二年六月、晩夏の
まだ暑い盛りです。大海人軍は不破関を出ると、琵琶湖の北東(米
原のあたり)より湖岸に沿って南下し、兵を大津京へと進めました。
  なお、冒頭に紹介した三輪高市麻呂が忠臣と称されるゆえんは、
ほんらい彼は近江朝の重臣であったにもかかわらず、この戦のさい
大海人側に与(くみ)して、倭古京(やまとこきょう・飛鳥地方)
に攻めてきた近江朝軍と応戦し、これを撃退したからです。そして
上述したごとく持統天皇への直言などあって、のちに、白鳳の大夫
(ますらお)として讃えられた硬骨漢でもありました。
  かくして、戦は大海人皇子側の勝利におわりました。
  翌六七三年二月、大海人皇子は即位して、天武天皇となられまし
た。 

持統天皇のこと

淡海(おうみ)の海
   夕波千鳥汝(な)が鳴けば
   情(こころ)もしのに
   古(いにしへ)思ほふ
 
これは持統朝の初年、柿本人麿が女帝のお伴をして近江を訪れた
さい、荒廃した大津京址(し)を見て詠んだという名歌です。
  歳月がながれて、壬申の乱の勝者天武天皇が崩御され、かわって
皇后{櫨鳥-木}野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が即位され
ました。
  持統天皇です。彼女について日本書紀は「深沈(しめやか)にし
て大度(おおきなるのり)まします」と記しています。

 業績として持統天皇は天武天皇の遺業を受け継ぎ、飛鳥浄御原令
を施行、庚寅年籍(こうごねんじゃく=戸籍)を作るとともに、藤原
宮を造営されました。この時代に大化改新以来の古代律令国家建設
はほぼ完成したとされています。

 天武天皇は六八〇年に皇后(後の持統天皇)が重病になったので
病気平癒を願って「薬師寺」の造営を発願されました。天皇の祈念
が叶えられ皇后の病は奇蹟的に快復されました。
  ところが今度は天武天皇が発病され皇后が病気平癒を祈願し天皇
は快癒されました。その後、薬師寺は六九八年に七堂伽藍を完成、
落慶します。
  お二人のみ仏さまへのご祈念は、ひろく国民全体にお薬師さまの
ご利益(しやく)をひろめせれる大きなご慈愛でありました。

 持統天皇は仏教を保護し、遺命によって天皇としては初めて仏式
に荼毘(だび)に付されました。「政務は常のごとくにして喪葬の
ことはつとめて倹約に従え」とされ、薄葬をすすめ、民衆の苦役や
財政疲弊を減らされました。
  古代には殯(もがり)という風習があり、遺体をすぐ葬らずに殯宮
(ひんきゅう)に安置して白骨化するまで近親が弔い仕えるもので
二-三年に及ぶこともあり、更に大きな陵墓の建設があり、大きな
負担でした。持統天皇は火葬され、遺骨は骨壷に奉安され、夫帝の陵
に合葬されたました。

 では、持統天皇はどのような女性だったのか、その生い立ちから
みていくことにします。
  彼女の父は天智天皇、母は右大臣蘇我倉山田石川麻呂の娘で遠智
娘(おちのいらつめ)ですから、これ以上望めない最上層の出自と
いえます。しかし祖父の石川麻呂は謀叛(むほん)の罪をでっちあ
げられて、天皇より死を賜(たまわ)ります。
  最愛の父を、自分の夫によって謀殺(ぼうさつ)された遠智娘は
大きなショックをうけ、傷心のうちに亡くなりましたが、彼女は、
天智天皇とのあいだに二人の娘をもうけておりました。大田皇女と
讃良皇女です。
  そして二人のこの姉妹は、天智帝の弟大海人皇子へ気前よく与え
られます。つまり叔父と姪の婚姻です。いくら古代のこととはいえ
同じ男を夫にした姉妹の気持ちはどうだったでしょう。
  幼くして母遠智娘を失い、たった一人の姉大田皇女と、夫の愛情
を奪い合うかたちで暮らさなければならなかったわけですから。
  やがて、讃良(さらら)は草壁皇子を産み、すこし遅れて、大田
皇女が大津皇子を産みました。しかし二皇子が少年期に達したころ、
大田皇女が病死します。母を失った大津皇子でしたが、彼は聡明で
たくましい青年に成長しました。
  ところが一方、讃良が産んだ草壁皇子のほうは身体が弱く、性格
もいたって平凡でした。誰の目にも明らかな二皇子の差異に、讃良
の心が穏やかであるはずがありません。
  まして彼女はこれまで大海人皇子と共に苦しい戦いを勝ち抜き、
夫を天皇位につけたいちばんの功労者という強い自負もあります。
  そういった皇后をおもんばかってか、天武帝は大津皇子ではなく
草壁皇子を皇太子としました。

天照大神と持統女帝
 
朱鳥元年、天武帝が亡くなると、讃良皇后は素早く行動を起こし
ました。大津皇子の謀殺です。
  帝が亡くなったのは九月九日、大津皇子の謀叛が顕れたのが十月
二日です。そして翌日大津皇子は死にました。天武帝が亡くなって
から一ヵ月を経ず、謀叛が発覚してから、たった一日で大津皇子は
皇后によって死んだのです。

 どう考えても、彼女は目障りな大津皇子を抹殺する日を待ってい
たとしかおもえません。しかし、彼女のそういう必死の努力もむな
しく、持統三(六八九)年、草壁皇子は皇位に就くことなく病死し
ます。忘れ形見である軽皇子(かるのみこ・のちの文武天皇)を
のこして。

 唐突ですが、ここで日本書紀を引用します。
  天孫降臨(てんそんこうりん)の際、天照大神が天孫の邇邇芸命
(ににぎのみこと)に敕をさずけます。
  「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)
の国は、是、吾が子孫(うみのこ)の王たるべき地なり。爾(いま
し・汝)子孫(すめみま)、就(い)でまして治(しら)せ—-」

 アマテラスは、息子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあか
つかちはやひあめのおしほみみのみこと)を瑞穂の国に行かすはず
でしたが、実際に瑞穂の国へ降臨するのは、アメノオシオミミでは
なく、その子のニニギでした。
  この長い名前をもつアマテラスの嫡子は影が薄く、アマテラスか
らニニギへ、つまり、祖母から孫へ皇統を渡すというかたちです。
アメノオシオミミはいったいどこへ消えたのでしょう。もしかする
と彼は若くして死んだのかも。夫が死に、子が若死にしたとすれば、
祖母は孫にその国を委ねようとするのは当然のことです。

  持統天皇の謚号は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)です。
  このアマテラスのニニギにたいする感情は、持統帝の文武天皇に
たいする感情にあまりに酷似しているにおもわれませんか。

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